08 勘違い
朝の冷えた空気の中でリードは1人、寮の廊下を歩いていた。
今日は正真正銘の1人だ。
あれからロキは部屋にこもることが多くなり、先日の一件で謹慎を食らったリードは、割と静かな1週間を送っているのだった。
岩山の崩落事故自体は不慮のものだったとはいえ、これまでの溜まりに溜まった悪行の咎をまとめて受けた、という形だ。
六番館の寮を出てしばらく行ったところに鍛錬場がある。学院生の自主練習に使われる、ちょっとした広場だ。
そこでリードは剣を振る。
ロキの呪いに抗い、剣の柄で強かに撲った左腕は、ひびが入り骨折していた。前腕部は包帯ぐるぐる巻きで固定され、首から吊られている。治癒魔法ならすぐに治る程度のものだったが、リードはそれを固辞した。
これは罰だ。
そう思うことで、いくぶんか謹慎の鬱憤も晴れた。
それに、剣術の鍛錬なら右手だけでもできる。誰もいない鍛錬場に仮想の敵を描き、見えない攻撃をかわし、また剣を振る。片腕が使えないためバランスが崩れるが、むしろいい訓練になった。
「ふう――」
動きを止めると、汗がぽたりとアゴから落ちた。
ずいぶん長い時間集中していたらしい。日も高くなってきた。やはり体を動かすのは気持ちがいい。汗と一緒に余計なものまで流れ出ていくような感覚になる。
「よし次は……」
リードは遠くの的に目をやった。
魔法――
「やってみるか」
リードは剣を収めて大きく深呼吸をし、右の手のひらをじっと見つめた。
大丈夫だ、俺ならできる。限定的とはいえロキの呪いにも抵抗できたのだ。それに今なら誰もいない。ロキもいない。もしかしたら上手くいくかもしれない。謹慎の今、1人でじっくりと練習できるのだし。この状況を利用させてもらうしかない。
リードは拳を握り、そして開いて、向こうの的へと狙いをつけた。
集中、集中、集中――。
◇
カグヤ・ルークベルトは初めて講義を欠席した。
いい加減、彼に謝辞を伝えなければ、と気だけが焦っている。
生き埋めになるところを助けてもらった恩を、自分の発言により徒で返したような格好になってしまった。
そもそもは彼の魔法が悪いとのだも言えるが……だがどうやら、彼には彼なりの事情があるらしい。
なにより彼は、崩れ落ちる岩山から自分をかばってくれた。あの崩落の瞬間、風のように速く動き、カグヤのことを抱きしめ、一緒に巻き込まれていった。
ああいうとき、自分のように『ただ動きが速いだけ』というのは大して役に立たないのだと思い知らされた。
彼には迷いがなかった。身を挺して誰かを助けるという行為になんの躊躇もない。そういう動きだった。愚直なほどに澄んだ剣筋や、実際に話してみた人柄からしても、彼がただ性欲に身を任せて魔法を使っているとは思えない。
感謝と謝罪、それから彼の真意をもう一度確かめたいと、カグヤは機会をうかがっていた。
だが、あの事故があってから彼は周囲からさらに避けられる存在になっていて、そしてカグヤのほうはその最大の被害者として、不本意ながら同情を買うようになっていた。彼に近寄りがたい空気がずっと漂っていたのだ。
(こんなことじゃ駄目だ)
そう思って何度も話しかけようとしたのだが、唯一接点のある食堂では、剣士クラスの先輩2人が彼のそばに座っている。
(ああいうふうに自然に話せたらいいのに……)
ついついリードのことを目で追ってしまう。
こんなことは初めてだ。
それに――
あんなにしっかりと、同世代の異性から肌に触れられたのも初めてだった。脱出のとき、彼の風魔法によって服を切り裂かれ、そのうえぎゅっと抱かれて――そのことを思い出すと、体が熱くなってくる。
(私、どうしたんだろう……)
この混乱を解くためにも彼に会ってゆっくり話をしてみたかった。
どこにいるだろうか? 寮でのんびりとしている? ……いや、彼なら今日も剣を振るっているかもしれない。
カグヤの足は、自然と鍛錬場の広場へと向かっていた。
◇
リードは手のひらに精神を集中していた。
悔しいことだが、ロキに操られたときの感覚を思い出している。
みずから進んで呪いの力を使うのは初めてだったが、魔法の発動に関しては失敗しないという自信があった。
あとは、狙ったところに当てられるかどうか。
これが問題だ。
女子の衣服には勝手に向かっていくこの風魔法は、果たして、誰もいないこの場所なら真っ直ぐ飛んでいってくれるだろうか……。
もっとも単純で扱いやすい1節の呪文を唱え、風の刃を生み出す。
「《風切(スライス)》――っ!」
手のひらの先で大気が歪み、魔法が発動した。
(よしっ!)
と思ったのも束の間。風の刃は途中で軌道を変え、くるりとUターンをして、リードの背後へと飛んでいく。
息を飲むような小さな悲鳴――
女性の悲鳴。
『何か』が切り刻まれる、聞き慣れた音……。
「…………」
脂汗を浮かべた顔で、リードはゆっくりと振り返る。
そこには服をずたずたにされ、両手で前を隠して立つカグヤの姿があった。
「こんにちは、リードさん……『お変わり』ないようで」
「あ、ああ。なんというかその――すまない」
「先日はありがとうございました。それから、私の不用意な言動のせいですみませんでした」
彼女は口早に言った。
「あ、いや。もともとは俺が」
近寄ろうとリードが一歩踏み出すと、
「――――っ!」
カグヤは顔を赤くし、こちらをにらんでから、きびすを返して去っていった。
◇
重い気分のままリードは寮の部屋へと戻った。
2人用の個室を、人数の都合上、リードは1人で使っている。
だが実際は悪神ロキとの同居生活だ。いつも耳元で騒ぐので、1人で過ごしている気がしない。
そのロキが、最近めっきり大人しい。
ああいう性格だ、『閉所恐怖症』などという自身の弱みをさらしてしまったことで、合わせる顔がないのだろう。
リードが部屋に入ると、ロキはこちらに背中を向けて床に座りこんでいた。
短い腕で、何かを抱え込んでいる。
「クッ、クキキッ、やっぱコレだよなァ」
ぴちゃぴちゃという水音。
ロキにとっては大きな、人間の頭部のような何かへと手を突っ込んで、したたる赤い液体を口に運んでいる。いや、『ような』ではなく、まさか鬱憤を晴らすため本当に――
「ロキ! そこに直れ、叩き切ってやる!」
剣を抜き放ち、叫ぶと、
「んあ?」
口元をべっとりと汚したロキが、振り返って怪訝な顔をする。
「ナニやってんだ、この変態剣士が」
「なにって貴様……ん?」
甘いにおいがする。
まるでストロベリージャムのような……というか、ストロベリージャムだ。
ロキは、巨大なガラス容器に入った赤いジャムを、行儀悪くも素手ですくい取っては、べろべろと舐めている。
「やらねーゾ?」
「……いらない。早く食堂に返してこい」
嘆息して剣を収める。
「やっぱストロベリーに限るぜ」
「知るか」
装備を外してベッドに腰かけ、リードは頭を抱える。
「そんなに落ち込むなヨ。仕方ねぇな、今日は特別だぞ? 舐めるか? ほれ」
差し伸べられてくる短い手を無視して、リードはさらにうなだれた。
「貴様、本当に神族なのか? やっぱりただのタチの悪い、低級悪魔じゃないのか」
「ハァ!?」
「……いや、ただの害獣か。そうだな、呪い以外、特に目を見張るようなところもない。神族らしい神々しさも、それから恐ろしさもまったくない」
「オマエの剣は通じないだろうが! マジの神さまだ、悪神ロキさまだ!」
「分かった分かった。そういうことにしておいてやる」
「ぐぬぬ!」
ロキは立ち上がると小さな体を震わせ、
「いい度胸じゃねぇかこの変態剣士が! いいダロウ、オレ様の真の姿を見せてやる!」
わめき散らすと、ロキの全身が強く光った。
あまりのまぶしさに顔をかばう。目を開けたときリードの目の前には――金髪の、とっても生意気そうな少年が立っていた。
見た目は12歳くらいだ。
ボブカットの金髪。半袖のパーカーに、細い太ももが剥き出しの短パン。黒づくめだ。眼はギラリと吊り上がっていて、ささやかながら角や牙もある。
人間サイズにまで大きくなったが、神族らしい威厳があるかと言われれば、やはりまったくない。
「どーダ!」
「どうだと言われても……まあ、イメージ通りだな」
「おおう?」
「弱そうだ」
「ぬあっ! テメェ、ふざけんナ!」
飛びかかってくるが、リードはそのグーパンチをひょいと避けた。
「んげっ!」
勢いあまって壁に衝突した悪魔少年は、しかし、なおもムキになってリードに組みついてきた。背中から腕を回し、首を締め上げてくるが、しかしリードは平然と、
「筋力が足りない。腕の位置も悪い。そんなことではいつまで経っても俺は殺せないぞ」
「な、なにおゥ!」
「それから、あんまり密着するな。胸板がごりごり当たって気持ちが悪い」
「お、おおう――?」
……?
なんだろう、ロキのリアクションがおかしいような。
気のせいか?
「だから、男同士で引っつくなと言っているんだ。離れろ」
「っ!! ぎぃいいーーー!」
なにやら奇声を発して、ロキが爪を立て引っかいてくる。これはたまらない。いつもの姿ならともかく、人型になったその姿では、尖った爪もなかなかの凶器だ。
「おい、やめろ、本気で怒るぞ」
振り払おうとして上体をひねった――それが悪かった。
ちょうど怪我をしている左腕の方向だったせいで、ロキをベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさる格好になってしまった。
「むむ……悪い」
とっさに手を突いた先がロキの胸のあたりだったせいで、彼は苦しい思いをしているようだった。もう、なんとも形容しがたい、歪んだ顔でこちらを見あげているのだ。
しかしそのとき。
リードの右手が違和感を捉えた。それは、彼ほどの武術の達人でなければ見逃していたであろうわずかな、本当にごくわずかな凹凸であった。
(いや、気のせいか?)
全神経を右手に集中させ、ロキのなだらかな胸を撫でまわす。
そう、あの岩山に閉じ込められたときのように、探るように、慎重に、繊細に――。
「っ……、っっ――……!」
もう体重は乗せていないのだが、ロキは息苦しそうにしている。
じっくりと、その、膨らみとも言えない膨らみを確認してからリードは、
「なるほど、これは」
落ち着いた声で言った。
「女だったか。すまん」
「すまんで済むかこの変態剣士ィいいい!!!!」