00 プロローグ
※第1部の終了まで毎朝7時に定期更新です。今回は2話一気に。
「下がってるんだ、シャルロ」
8歳の少年リードは木剣を構え、幼なじみを背にかばった。
彼らの行く手に現れた巨大な一角獣は、低いうなり声を上げてこちらを睨む。
トロスホーンと呼ばれるその獣は、狼を何倍にもした体躯をしており、額には鋭い角を備えている。
このテーネ山には出没するはずのない、神性を帯びた魔獣である。今年の冬が長く厳しかったせいで、獲物を求めて南下してきたのかもしれない。
子どもだけの入山に及び腰だったシャルロを、むりやり連れてきた結果がこれだ。
(せめてシャルロだけは)
額から流れる血で左眼をふさがれながらも、リードはいまだ闘志を失わなずにいた。
しかし、無事に逃げおおせる自信はなかった。村では『剣の神童』と持てはやされる彼だが、今その武器は稽古用の木剣だけで、そして相手は何倍も大きな肉食獣なのだ。
「リード、逃げようよ……」
震える声の少女をなだめながら、一角獣との間合いを測る。
いまシャルロが走り出せば獣は彼女を追うだろう。それを止めるすべはない。ならばこの場で、どうにか抵抗して隙をつくり、そのあいだに彼女を逃がすしか手はない。
……リード自身は無事で済まないだろうが。
(それでもいい。退けない。退くわけにはいかない)
幼いながらも剣の腕を磨いてきたのは、誰よりも強くなるためだ。多くの人を守って落命した父に――その偉大な背中に並ぶために。ゆえに、シャルロのことだけは守らねばならない。
獰猛にうなるモンスターに対し、むしろ前へ出ようとリードが低く構えた、そのときだった。
「死に急ぐなよ――少年」
岩肌のてっぺんから、ふわりと人影が舞い降りてきた。
長身の男だ。
中性的な美貌の持ち主で、青い髪は腰に届くほど長く、腰にはこれまた長い剣を帯びている。優雅な仕草ではあるが、その立ち姿にはどこか、近寄りがたい緊迫感があった。
一角獣に向けて突き出すその右手には、細い棒が握られている。リードの指でも簡単に折れそうな細い木の枝だ。
彼は腰の剣を抜こうともせず、その枝一本だけで、無造作に魔獣に歩みよる。
牙を剥いた魔獣トロスホーンが、ばっと男へ跳びかかる。
(やられるっ!)
思わずリードは身をすくめた。
2つの影が交差したとき、男はひゅんと木の枝を振った――ただそれだけだった。それだけのことで、勝負はついた。着地した一角獣は肩口から盛大に血液を吹き出し、ぐらりと倒れて動かなくなった。
傷口――まるでするどい刃物で斬りつけたような痕は、どのような原理か、消し炭のような灰色に変わり、風にボロボロと崩れていく……。
その様子を見届けたリードが膝から崩れ落ちると、男はほのかに笑ってみせた。
◇
あとで知ったことだが、男は付近の住民ではなく、どこからかこのテーネ山に流れついたのだという。
20代くらいに見えるが、そのまなざしには何かを悟ったような光があって、どこぞの神殿に所属する賢者だと言われても、まったく信じてしまいそうな雰囲気だった。
リードはテーネ山に住み着いたその男を、何度も訪ねていった。
彼はこの山で自由気ままに生活しており、あるときは洞窟の中で、あるときは樹上でうたた寝していたり、またあるときは小川で釣りをして過ごしていた。あまりに捉えどころがなく、男の姿を見つけるだけで一苦労だった。ふもとの村に住むリードは山の地形には詳しかったが、それでも彼と遭遇する確率は高くなかった。
さらには、仮に会えたとしても軽くあしらわれ、追い返されるのだ。
「誰よりも強くなりたいんです!」
弟子入りを請うても、男は話をはぐらかし続けた。
彼は自身のことを【風の剣士】とだけ名乗った。木の枝で一角獣トロスホーンを斬り伏せる彼は、ただの剣士ではなく、いわゆる【魔法剣士】と呼ばれる類なのだろう。
ある日、相手にされずとも足しげく通うリードに、とうとう根負けした彼は、
「君にも師匠はいるんだろう?」
と聞いた。
村では、かつて剣豪と名を馳せた人物が趣味で剣術を教えており、リードはその門下生として剣を習っている。
「まずはその人から学び、認められることだ。それでもまだ道を極めたいという意志があるならば――君のその想いが風化していないのであれば、【学園都市リグスハイン】に来るといい。僕はきっとそこにいる」
リードは力強くうなずいた。
誰よりも強くなる。
憧れたその人よりも強くなる。
風の剣士がテーネ山を去ったあとも、リードはひたすら自身の腕を磨きつづけた。
■ ■ ■
時とところは変わって、ここは魔界――。
赤黒く濁った空と、荒涼とした大地がどこまでも続いている。
巨大な竜の白骨が転がったその横で、女性の姿をした神族が泥の沼に胸まで沈んで叫んでいた。長い髪を振り乱し、もがいている。
「出しなさいっ、ここから出しなさい!」
頭には2本の角。紫色の肌。目は、左右を合わせて4つある。
彼女が囚われていたのはピンク色の沼だった。気味の悪いことに、その沼地は生き物のように蠢き、波打っている。
脱出しようと身をよじるほどに、ピンク色をした沼の触手が絡みついてくる。これ自体が魔法を封じる結界になっているらしく、空へも飛び立てず、情けなくも懇願するしかできなかった。
「ロキ、ロキっ! 早くここから出して!」
視線の先では小さな黒い影が空に浮かんでいる。この沼地に彼女をはめた、憎き張本人だ。
【悪神ロキ】。
おどぎ話に出てくるコウモリのような、あるいは子どもが落書きした小さな悪魔のような見た目で、全身は黒一色。目や耳は尖り、牙もある。
小さな羽で宙に浮かび、
「クキキキキッ」
いじわるな顔で笑う。
「オマエも懲りないよなぁジュナス。オレ様を出し抜こうなんて1万年は早いんだヨ」
「うるさいわよ! って、どこ行くのロキ!? お、置いてかないで! あっ、触手が変なところに、あっ!? っ!」
悲鳴は赤い空に響いて、むなしく掻き消えた。
◇
(魔界での悪戯にも飽きちまったナ……)
ロキは、魔界の空をふよふよと浮かびながら、どこからともなく魔導書を取り出した。
分厚いその本のページはそれぞれ、地上界の各地とつながっているのだ。
――北のエイベクリスタル採掘場。
――南のデ・ユネ神殿。
――西のユースクリア半島。
――それから、東にある学園都市リグスハイン。
「んん?」
ページをめくる手が止まる。学舎を中心に建設されたその街の外郭に、ひとりの少年が映し出されていた。
黒髪の少年だ。
16、7歳といったところのようだが、もっと年上にも見える。風格すら感じる落ち着いた仕草で、腰には剣を携え、きびきびと歩いている。左側の額に残る古傷が、彼の大人びた印象を強めているように思えた。
彼が向かうのは街の中心部、これから入学試験が行われようというリグスハイン学院である。
なにか、イタズラ心に響くものを感じた。直感に従いロキは、魔導書の表面をなぞり、彼の過去を覗き見る。
「へぇ、これはこれは……」
次の獲物を見つけた。べろりと舌なめずりをして、ロキはそのページの中へと手を突っ込んだ。
◇
――そう。
これはのちに、有史以来最強と呼ばれる、ある変態剣士の成長をつづった物語なのである。
……ん? 変態剣士?