夏の日の彼女
これはまだ、私が小学生の頃の夏休みの話です。
私は祖母の住む漁港の小さな田舎町に数週間泊まりに行くことになりました。
特に何もない町は自然はあったものの退屈で、祖母や家の者ともだんだん話すことがなくなってきてしまいました。
そんな時、私は何となしにふらっと町を探索することにしたのです。
祖母の家の周りを離れ、しばらく町を探索すると、わずかに民家があるぐらいの小さな町が、私にはとても大きく感じました。
そして歩いていった先に私は古びた学校を発見しました。
夏休みだからか、それとももう廃校になってしまっているのか、人影は見当たりませんでした。
夏の暑い日の午後、私は暇だったこともあり、その学校に入ってみることにしたのです。
歩けばきしむ音のする木目の床に、ところどころが朽ち果てているのではないかと思うその小さな学校は、普段都会の学校に通う私にはかえって新鮮に感じたものです。
楽しくなってしばらく夢中で探索していた時です。
廊下の先の部屋から何かの音が聞こえてきたのです。
よく聞くとそれはピアノの音でした。
私はそっと部屋の前まで行き中を覗いてみたのです。
部屋の中は音楽室として使われていた様で、ピアノの前で白いブラウスを着た10代後半ぐらいの女性が演奏をしていたのでした。
彼女は屋内だというのに、麦わら帽子を被っていて表情がよく見えませんでしたがゆったりと流れる様なリズムでピアノを演奏していました。
私はしばらくその心地よいリズムの曲に聞き惚れていましたが、やがて曲が終わった少しのタイミングで部屋へ入っていくことにしました。
ガラガラと音を立てるドアに少し驚いた様子の彼女。
そして視線を上げると優しそうな視線で私を見つめ「あなたは。」と尋ねたのでした。
私は夏休みの間だけこの街の祖母の家にやって来た小学生であることを告げると、彼女は「こんなところに学校があって、しかも誰かがピアノを弾いてるなんてびっくりしたでしょう。」と悪戯っぽく言ったのでした。
「お姉さんは、どうしてここでピアノを弾いているの。」私が尋ねると
「ここでお別れをしているの。」とつぶやく様に答えるだけでした。
私は少ししんみりしてしまった空気を何とかしようと「さっきのピアノ、とっても素敵だったよ。良かったらもっと聞かせてよ。」と言っていました。
彼女は「ありがとう。」と優しく言って微笑んで、それから何曲か聞かせてくれました。
やがてそろそろ日も暮れてきて、私が帰らなくてはならない時間になると私は彼女に言いました。
「また会える。また会って今日みたいにしたいんだ。」
「うん、また会えるよ。私は時間がある時はここでこうしてピアノを弾いているから。」
そう言ってくれたのでした。
私はそれから毎日の様に学校へ彼女に会いに行きました。
彼女のピアノを聞いたり、彼女は自分自身の事はほとんど話しませんでしたが私の事を聞きたがったので、学校生活の事などを話したりしました。
彼女はとても楽しそうに、そして時折うらやましそうに私の話を聞いていました。
そしてまたあるぐらいには、ピアノに興味を示した私に簡単に弾き方を教えてくれたりもしました。
私はそんな日々がとても楽しく、いつまでも続けば良いと思っていました。
私の祖母の家への宿泊も残り僅かとなった日の事です。
私はその日も学校へ向かいました。
するとあの最初に会ったあの日の様に、彼女が白いブラウスを着て、麦わら帽子を被り、見知らぬ若い男性と手を繋いで歩いていました。
彼女の表情は見えなかったものの、私には楽しげにしている様に思えてしまったのです。
私は2人の姿を見てショックを受けたのです。
何だか彼女を取られてしまったかの様に感じてしまったのでした。
私はそのまま祖母の家に戻り、一人部屋でふて腐れていましたが、やはりもやもやしたままでいるのが嫌だったので、もう一度学校へ向かったのでした。
いつもの音楽室への道、廊下にはすっかり夕陽が差していました。
私は自分にあの男性と彼女の事について訊く権利があるのか迷いつつ、音楽室の扉の前までやってきました。
そして中を覗き込むと、そこに彼女はいたのです。
しかし先ほどとは違い麦わら帽子をしていませんでしたから、彼女の表情がはっきり見て取れました。
そこにあったのはそれまでに見たことのない深い悲しみの表情でした。
「どうしたの。何があったの。」私は飛び出して行って、すぐにでも彼女と話したいと思ったのですが、小学生の私にもその目に涙をためている表情は気圧されるものがあり、私は音楽室に入ることさえできないまま祖母の家に帰ったのでした。
その後、どうしても彼女とは会うことができないまま祖母の家を後にし、夏休みを終えたのでした。
あの時までの私には、幼さゆえの、自分には何でもできる、何でもしてあげられるというおごりがあったのでしょう。
幼き日に味わったリアルな剥き出しの感情を前に何もできなかったという無力感ははっきり覚えているのです。
後に母にこの話しをした時に母から聞いたことなのですが、昔、あの町には病気を抱えた女の子がいて、いつも自分の部屋であの学校を見ながらピアノを弾いて過ごしていたらしいのです。
ようやく病気が快方に向かってきた頃、あの学校が廃校になってしまい、せめて学校だけでも見に行きたいと出掛けて行き、事故にあって亡くなったそうです。
私があの夏の日に会っていたのは、その彼女なのでしょうかとも考えてみたりもするのです。