ワールド・アパート(2)
気が付いたら、いつのまにかすっかり日が暮れていた。
いったん思考を中断して、外に干しておいた布団を取り込んで部屋の隅にたたんでおく。
布団を敷いて寝っ転がろうかとも思ったけど、そのまま寝落ちしてしまうかもしれないと思うともったいない気がする。今は、この頭の中に生まれてる流れを行きつくところまで突き詰めてみたい。
とは言え、日が暮れてくると結構寒いので暖房を付けて、お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。インスタントで、砂糖もクリープもないので正直旨いもんじゃない。それでも口から咽喉へと熱い液体を流し込めば、体中に染み渡るように暖かさがひろがっていく。
この暖かさが、今は心地よい。
張りつめていた思考回路に、少し余裕が生まれる。
手にしたコーヒーカップを手元で転がすと、黒い液体はゆっくりと揺れながら湯気を上げる。その湯気は、薄く細くなりながら円を描いて天井のシミに向かって伸びていく。
ゆらゆらと円を描きながら、また、回り始める。
生きる意味、か・・・
俺は今までの人生でそのことを何度となく思い、考えた。それこそ数えきれないくらい、何度も、そして今だって。だけどなんとなく疑問に思うだけで、明確な答えを出せなかったし、今でも出せるわけじゃない。
が、何故それを考えてしまうのか、そこに行きつくまでの心の流れ、仕組みみたいなもの。それは、溢れ返る知識、情報、そこから生まれる迷い・・・そういうことなんだろう。
じゃあ、俺以外の誰かは?この街で生きて、それを自分に問いかけたことがある人はどれだけいるんだろう?
聞いたわけでも聞けるわけでもないけども、多分、ほとんどの人が一度は考えたことがあるんじゃないだろうか。
それは確かな根拠があるわけじゃない。
だけど、思い出してしまう。通勤電車に乗っていた時の周りの人の顔、この町に住む人の顔。それだけじゃない、いつだったか、ランチタイムに見てしまった一人でメシを食べていた客たちの顔・・・。
答えの出ない、鬱屈とした気持ちを抱えたような表情の裏にはそんな問いかけがが渦巻いていてもおかしくないように思う。
仮に皆そう考えたとして、答えを出せた人はいるのか?思考を突き詰めて問いかけの根源まで行きついた人は他にもいるんだろうか?
・・・いや、そんなことを考えたって、たとえ答えに行きついたとしても、テストで百点を取れるわけでも、会社で業績をあげられるわけでもない。日常に追われてモヤモヤ抱え込んでるだけってのが実際じゃないのかな。・・・そう、今までの俺のように。
でも自分の中で抱え込んでるだけじゃすまない人間だっているだろう。
『まったく情けない人ですよ』
須永が、イヤミたっぷりに冷笑する。
まったくイヤな奴だったし思い出したくないと思ってたけど、不意にあいつの顔が思い浮かんだ。
『結構いい大学を卒業してたみたいだからプライドは高いし、あの会社で働くのは本意じゃなかったみたいだね。だからなのかな、下に対して辛く当るところはあったね。根は悪い人間じゃあないよ』
確か店長が言ってたな。
あいつが俺たちバイトに対してキツく当たるのはプロフェッショナルの仕事の辛さからくるストレスからじゃないかと考えた時もあったが、どうもそれだけじゃないかもしれないな。
抱え込んだ鬱屈とした気持ちが、他人への攻撃になる。須永の場合は弱い立場のバイトに対して。・・・でも逆に・・・
『絶対、本社は人事をまちがってますよ。でもまあ、そもそもあの会社からしてまともじゃないような気もしますけどね・・・』
篠田はあの時テキトーに言ってただけだろうけど・・・もしかして須永も誰かから、例えば本社の上司あたりから辛い目にあわされてたのかもしれないな。
そうかもしれない、会って話したことなんかないが本社の役員や、たとえ社長だって同じ人間なんだ。同じ様な思いに囚われ、弱い須永や、店長に対しても苛立ちや不満をぶつけていた、って事も十分にありうる。少なくとも店長に関してはそういう臭いもあった。
店長の場合は俺らに対してそれを転嫁してぶつけてはこなかった。だけど代わりに自分自身にため込んでしまって、家族っていう支えがなくなった時に逃げ出すことしか出来なかった、のだろうか?
須永は・・・何とも言えない。そんなことは話さなかったし。正直興味も無かった。もし仮にそうならば、須永たちのやってることって、怒りや鬱憤の、負の感情の拡散じゃないのか?バイトやパートさん達が受けた負の感情が家庭や、さらに弱い人たちに伝染していって、どんどん大きくなる。そうして行く内に世の中がどんどんギスギスしていって、憎しみや欺瞞が増えていって、それがいつかは殺し合いや、それこそ戦争にだって・・・さすがにこの考えは飛躍しすぎかな?・・・いや、飛躍してもいい。たとえぶっ飛んでいても大本の本質はそこにあるように思えるんだ。だからこのまま頭の中の流れに乗って考えていけばいい。
・・・・でも
それなら、この負の感情を俺は、世の中はどうやって処理すればいいんだ?
いっそ世の中についてなんか、何も考えないで生きようとしたって、鬱屈した気持ちはたまるばかりだ。それなら逆に何も考えずにポジティブに・・・
『これからの時代は・・・・コレよ!』
つ、津川・・・
あいつは、何にも考えてなさそうだったな。
あれはあれで幸せなのかもしれない・・・
だけどあんなんじゃ、自分の頭の中が花畑ってだけで、結果は周りを振り回してロクでもないことになってしまう。事実なったわけだし、アイツは今生きてんのかな・・・?
いやそうじゃなくて、ここは逆の考え方をするんだ。負の感情をどう発散させるか、じゃなく。そもそもの発生源を断つ方法はないんだろうか、もっと本質的で根本的な解決策は・・・
『自然の中で生きることこそ生き物としての人間の本来あるべき姿だと思うんだよ。科学や文明は発達しすぎた、便利さと同時に心のしがらみもついてくる。』
店長・・・あの人の答え・・・
それも一つのやり方なのかもしれない。複雑な社会が大量の情報を生む。そしてそれが心の迷いやしがらみを生むというのなら、いっそ全ての人間は一度自然の暮らしに立ち返ればいい、という考え方・・・
だけど、はたしてそれでいいのか?
なにか、違和感がある。これは・・・
『どうだい、ここまで来るのは大変だっただろうけど素晴らしい場所でしょう?』
あの時俺は素直に返事ができなかった。
何故・・・?
恐怖がこびりついていたからだ・・・あの山で、危うく遭難しかけた時の恐怖。今思い出しても背筋に冷たいものが走る。
そうだ、自然ってやつは俺にとって厳しくて、怖いものだ。あの深い山の中でサバイバル生活をしろって言われても絶対に無理だ。店長ぐらいにアウトドアに詳しくないと一週間もしないうちに飢え死にしてしまうだろうな。体力だっているだろう。食べ物を集めるのだって、相当歩き回らないといけないだろうし・・・食べ物か・・・あの豚汁、美味かったなぁ・・・でもあれだって、あの山の中から採ってきたものじゃない。肉も、野菜も、味噌だってふもとの街で買ってきたものだろう。いくら店長でも全部の食材を山の中でそろえることはできないだろうし、その時点でありのままの自然の中で生活することの限界ってやつが解るはずじゃないか・・・・豚汁うまかったけど・・・。
とにかく、たまの趣味とか、ほんの一部の人ならともかく、自然の中で生きるってのは大変なことなんだ。
いや、大変だからこそ、人は文明を発達させた、つまりそういう事なのか・・・だったら人が自然に立ち返るってのは本末転倒じゃないのか?それが、違和感の正体なら・・・出すべき答えはこの複雑で、ややこしい文明の中で見つけなくちゃ、いけないってことだろう。
シミから伸びた何本もの糸が、一つに編み込まれて、壁を、天井を突きぬけて、遥か向こう側へと延びていく・・・その向こう側には・・・
そう・・・もうすぐ、辿り着ける。