賢者の島(2)
俺はなんでこんな場所にいるんだ?
俺は一体何をしてるんだ?
そんな自問自答を今日だけで一体何回繰り返しただろうか・・・
体が、熱い
というか、やたらと蒸れる
だけど、ここはあの忌まわしい満員電車の中じゃない。
満員電車と違って、俺の周りには人間が人っ子一人いやしない。
その代わりに俺の周りにあるものはひたすら広がる緑・緑・緑・・・俺の視界は全て森の緑色で埋め尽くされている。
俺は今、山の中を歩いているのだ
店長に会うために。
何のために会いに行くのか、その理由を今さらながら考えている。
そうだ・・・あの年賀状を見つけた次の日に飛行機を予約して、リュックに着替えやらを詰め込んで、本当に着の身着のままで店長のいる島までたどり着いた。
あの時自分が何を考えてたのか、今になってもよくわからない。ただ体が勝手に動き、足の赴くままに行動していた。で、飛行機を降りたところで、少し我に返った。店長に連絡もせずに飛び出していた事に、その時点でようやく気付いたのだ。何と言うか、我ながらアホとしか思えない。
そこで初めて年賀状に書いてあった連絡先に電話をかけると、登山ナントカセンターってところに繋がった。電話に出たのは方言のきついオジさんだった。その人に店長の事を尋ねたが、訛りすぎて何を言ってるかよくわからない。ただ何度も聞き返すうちに店長はどうやら不在だという事がわかった。そして、泊まり込みで登山のガイドに出かけている、明日以降も立て続けにガイドの仕事が入っているみたいで一週間ほどは自宅に戻らないだろう、と。そこで何気無しに店長の携帯の番号を聞いてみたのだが「あんた、山登りしたこと無いだろう」と、呆れられた。そして「山の中にいたら携帯なんてつながる訳ないし、そもそもあの人は元から持ってない」と子馬鹿にしたように言われた、みたいだけど、やっぱり、よく聞き取れなかったのであまり腹は立たなかった。
腹は立たなかったが、その代わり途方に暮れた。
一週間もここで何をすればいいんだ?
予定があるわけじゃないが、金だってそんなにあるわけじゃない。
一週間も宿をとれるような余裕は、俺の財布の中には無い。
何も考えずにこんな遠くまで来てしまった事を、今更ながら後悔した、けどだからと言ってここでオメオメと帰ってしまえば、本当に何をしにここまで来たのかわからない。もう一度ナントカセンターに電話して、山の中の、どのあたりにいるのかを聞いてみる。電話の相手はさっきのおじさんと同じ声だ、そして今度は訝しがられた。「予定は常に変わるものだし、個人情報なので教えられない」みたいな事を言って断わろうとする。が、俺もどうしてもと、しつこく食い下がった。んで、あまりのしつこさに折れたのか、おじさんはしぶしぶ登山道の途中にある山小屋の名前を教えてくれた。「ガイドツアーで登山する場合は必ずこの小屋で休憩を挟むはずなのでここで待ってみればどうだ」と、多分そんな感じの事を胡散臭げに言われた。借金取りとでも思われたかもしれないな・・・
それだけのやりとりだったんだけど、俺が何度も聞き返したせいなのかやたら時間がかかってしまった。そして、つかれた、とても。
とりあえずその日は安い宿を探して一晩泊ることにした。素泊まりで小さな民宿をみつけたのだが、そこのオバちゃんの喋り方が、あの電話のオジさんとまったく同じだったので、正直げんなりした。その晩は飯も食わないうちに布団に転がって、そのまま眠ってしまったが、枕が違うせいなのか、それとも病気のせいなのか、浅い眠りのまま何度も夜中に目が覚めてしまった。
次の日の朝、体は相変わらずにだるかったが、それでも例の山小屋を目指して宿を出た。
登山道の入り口にあった地図を見ると、山小屋までの距離は約十キロと表示してあった。
うん・・・十キロくらいなら、何とかいけるだろ
そう思えた根拠はある。
バイトが遅番の時は終電に乗ることも多かったが、たまにだけど、ついうたた寝して降りる駅を乗り過ごしてしまった事がある。そういう時は二駅や三駅ぐらいならなんとか無理して、夜中の道を歩いてでも家まで帰ってた。二時間ぐらいかけて帰った事もある。十キロならそれがちょっと長くなったぐらいだろう、何とかなる。登山道の入り口ある地図の看板を眺めながらそんな事を考えた。
・・・大甘だった
山を、完全になめきってた俺は、もうすでに体力の限界を迎えている。
やばい・・・ふくらはぎがパンパンだ、足の裏がジンジンと痛くてたまらない、心臓が爆発しそうなくらいバクバクしてる、肺の全体が締め付けられるようだ、体中から汗がとめどなくあふれ出す。ノドが、カラカラだ。
だめだ・・・もう、足が前に進まない。
とにかく少し休もう、そう思った途端、そのまま地べたにへたり込んで足を投げ出す。
どのくらい歩いたんだろうか・・・腕時計を見ると歩き始めて二時間ぐらい経ってる。
じゃあ、あと三十分か一時間ぐらい歩けば、山小屋に着くかな・・・でも待てよ、たしか地図では半分ぐらい行ったところに橋があったはずだよな・・・橋なんて渡ったっけ?あんまり覚えてないけど、もし渡ってなかったんだとしたらまだ半分も歩いてないってことか・・・そう考えると、立ち上がる気力が一気に無くなってしまう。
情けないよな・・・俺、こんなに体力なかったっけ?ああ・・・そういえばここ数カ月はずっと布団に転がったままだったもんな。そりゃ体も鈍るよな・・・。いや、そうじゃなくても山登りなんてほとんど初めてみたいなもんだし、こんなにしんどいなんて考えてもみなかった。
・・・あーあ、ジーパンやスニーカーが泥だらけになってら。それにしてもスニーカーにジーパンって、山を完全にナメてるよな、俺。あの訛のきついオジさんが見たらまたバカにされるだろうな・・・いや、それとも怒るかな。全くの素人丸出しで、ホントに着の身着のままでこんなところまで来ちまって、もう引き返すことだってできやしない・・・このままじゃ山小屋になんてたどり着けやしない。店長にだって・・・あれ?
俺は・・・そもそも店長に会ってどうするつもりなんだ?
会えば、今の俺のクソみたいな状況がどうにかなるとでも考えてるのか?
店長がどうにかしてくれるとでも思ってるのか?
そこまで親しい関係だったか?
そんなムシのいい話なんてあるわけがないだろ、バカか俺は?
・・・・・・
・・・ホントバカだ、俺。
何やってんだろうな、まったくもって救えないじゃないか。こんな見知らぬ場所で一人誰にも知られずにヘタりこんで、このまま俺死んでしまうのかな・・・
死ぬ・・・か
急に、目の前の緑がクリアになる
風が、火照った顔に当たって涼しい
どこからだろうか、水が流れる音が聞こえる
何の鳥かわからないけど、鳴き声が響いて
それでも・・・静かだ・・・本当に
アリ、かな・・・こんなに、どうしようもない人生ならいっそここで終わったっていいんじゃないだろうか。ここで野垂れ死になら、それはそれで俺らしいや・・・ひたすらここでボーっとしてたら、その内に腹が減って・・・
腹が・・・減った。そういや朝から何も食べてない。
あ、思い出した、確かリュックの中に・・・あった、カロリーメイトが半分だけ。昨日昼飯に買った食べ残しをリュックに入れっぱなしにしてたんだ。
だけどすぐにかぶりつく気にならない。ヒリヒリするほどノドが渇いてる所にこんなパサパサしたものは、ちょっとキツイ、余計にノドが渇きそうだ。とはいっても飲み物までは持ってきてない。せめてそのくらいは買っとくべきだったよなぁ。水ぐらいでも・・・
・・・水ならあるな、そういえば。
水の流れる音が聞こえたからきっと、そう思いながら下を見渡すと・・・あった。
木の隙間から、谷底に小川が流れてるのが見える。
でも、大丈夫か?川の水なんて飲んで腹下したりしないかな。いや、これだけ自然がきれいなら水くらい飲んでも大丈夫だろ。なにより今はノドの渇きを何とかしたい。
少し休んだから何とか動ける。よし、木につかまりながら急斜面を少しずつ降りていく。
途中から、藪をかき分けながら降りる。ヘビとか潜んでたら怖いな、ハブとかだったら咬まれたら絶対助からない・・・ってハブは沖縄か。いや、この島にもいるのか?そんなことわかんないけど、そんなことより早く川まで降りたい。
急ぐ気持ちのせいか、ほとんどすべり落ちるみたいな感じになってくる。
道から見た時はすぐそこのように見えたのにこうして降りて見ると結構遠いな。
そうこうする内にようやく谷底の川が見えてきた、が、最後の最後、斜面から河原にむけて崖になっている。高さは、2mぐらいかな。でも、これぐらいなら何とかぶらさがりながらでも飛び降りる事が出来るだろう。丈夫そうな木の根元を掴んで、崖から身を乗り出す。足の裏が宙にプラプラ浮いてる感覚が気持悪かったが、覚悟を決めて手を放した。
痛てぇ!着地に失敗して思いっきりケツ打っちまった。あー痛いなクソッ・・・ケツをさすりながら顔を上げると、目の前にはひたすら流れる、水が。底が見えるほど透明で、きれいな水が大量に流れている。
もう、たまらない
這い寄って、そのまま顔を直接突っ込んでがぶ飲みする。
「うぉー!」
思わず声が出てしまう
これは…冷たくて、とてつもなく、うまい
体中にしみわたる
こんなにうまい水を飲んだのは多分生まれて初めてじゃないか。
そうだ、あれもあった。早速リュックの中からカロリーメイトを取り出して、思いっきり頬張る。パサパサになっているけども、それでも究極にうまい。口の中に勝手に入ってくる。さすがに、一気に食べ過ぎたせいでノドにつかえるが、また川の中に顔を突っ込んで水と一緒に飲み下す。
ふう、やっと落ち着いた…。
さっきまでの死にそうな気持ちも、もうどこかに吹っ飛んだ。
食べるっていうのは何ていうかやっぱり大事なことなんだな、と、しみじみ思う。
でもこれで何とか歩くだけの気力と体力は回復したことだし、とりあえず山道にもどらないとな。振り向いて、降りてきた斜面を見上げるが、最後にぶら下って落ちた崖の部分は、見た感じ、どうもよじ登れそうにない。ジャンプしても上の木にはとどかないし、こりゃあ仕方ないな、別の場所から登るしかないだろうな。
そう考えて上流の方へ歩き始める。脇には相変わらずきれいな水が流れてるが、河原は岩だらけで歩きにくいったらありゃしない。身の丈ぐらいある岩をよじ登ったりしながらしばらく歩いてみるが、崖は一向に低くならないどころか、場所によっては10メートルぐらいに高くなったりもする。
どのくらい歩いたのか、結構上流までさかのぼってようやくよじ登れそうな場所を見つけた。結構、急な感じだがどうやら他に登れそうな場所も無いし、行くしかなさそうだ。
木の根元や草の根元を掴みながら這うようにして登り始める。降りた場所より藪が深くなっていて、かき分けていくうちに草に付いた水滴であっという間に服が濡れてくる。水だけじゃなく泥まで付いてきて、全身泥ネズミになりながら俺はひたすら上を目指して登る。
そう、ひたすら登る、登る、
クソッ、しんどいな・・・それでも登る、登る・・・
のぼ・・・る?
あれ?
これだけ登ったら、そろそろ山道に出てもいい頃だよな?
上の方を見渡しても山道らしいものは見つからない。それらしいような気配もない。
どうなってるんだ?
道が途中で違う方へ曲がってしまったのか?
それとももっと上に道があるのか?
わからない、わからないけど・・・これって・・・これって・・・
体中から血の気がサーっと引いていく
俺・・・もしかして・・・遭難したのか?
・・・・・・
やばい、やばいヤバイ、これはとてつもなくヤバイ
どうする?どうすればいいんだ、俺?
落ち着け、とにかく落ち着いて考えるんだよ、俺
斜面にへばりついたまま体が固まって動かない、いくら考えても考えがまとまらない、時間だけが、ひたすら過ぎていく
そうだよ、こんなとこにいてもどうしようもないだろ、とりあえず一度川まで降りてそれから、また考えるんだ
さっきまで必死に登ってきた道を再び降りだす。だけど体中がガクガクしてうまく体が動いてくれない。それでも一歩ずつ降りなくちゃ。でも、もしこのまま・・・うわっ!
足元の土が突然崩れる、
うわっ!うわっっっ!!うぎゃーーーー!!!
地面に腹ばいになったまま、一気に滑り落ちていく
死ぬ!死ぬ!とまれーーー!!
バサッ!
止まった・・・ようやく・・・どうなったんだ・・・頭の中がこんがらがってワケがわからなくなってるけど・・・・何か、まだ生きてる・・・
ゆっくり振り向くと、目の前にはさっきの川が流れてる。どうやら、ふりだしまで滑り落ちてしまったみたいだ。
なんか・・・尽きちまったのか・・・俺はそのまま、あお向けにぶっ倒れてしまった。
滑った時にすりむいたんだろうか、手や足のあちこちがズキズキと痛む。息が乱れて体が火照ったように熱い。
木の隙間から空が見えた。晴れてるような、曇ってるような、雲がすごい速さで動いてるように見える・・・
今度こそ・・・今度こそ本当に死ぬのか、俺
ポツッ、と顔に何かが当たる・・・
雨、か・・・また雨かよ・・・
そう思う間に、顔に二度三度と水滴が当たりだして、あっという間に激しい雨に変わる。
火照った体がどんどん冷めていって・・・
そして・・・段々・・・
寒い。
寒い・・・さむい・・・さむい・・・怖い・・・寒い怖い寒いこわい寒いさむい
怖い!
死ぬのは、怖い!!
ガバッと勝手に体が起き上った
いやだ、まだ死にたくない、もっと生きていたい、こんな所で死ねない!
体はまだ痛むけどどうにか動ける、動かなきゃ・・・動かなきゃ、死ぬんだ。だから動け!もっと動いて歩けよ俺の体!!
まだ動ける、動いてくれた、でもどうする?もう一回ここから登るか?いやそれより、確かこの川を遡れば橋があるはずだから、それを目指した方がいいんじゃないのか?
どっちだ?どうすりゃいいんだ・・・神様・・・神様?
何故か一瞬、長岡の顔が浮かんだけど、あわてて頭の中からかき消す
どうだってんだ・・・クソッ・・・橋を目指そう
あいまいなまま、それでも生き残るために俺は前へと歩き始める
雨でずぶ濡れになりながら、それでも進む。もがいて、足掻いて、這いつくばって
不意に頭の中に怖さと不安がチラつく。もし、もしも・・・とっくに橋を越えてたら、どうする?この雨で川が氾濫したら、どうなる?
チラついたものがムクムクと大きくなって、ドス黒く渦巻いてくる
ダメだ、今は考えるな、足を止めるな、とにかく進め!
どのくらい歩けばいいか分からないけど、そうすれば、そうすれば・・・あ、あった・・・橋が見えた!助かったんだ・・・俺
小さな、橋だった。丸太や木の板を合わせて作ったショボイ橋だけど、今の俺には希望のかたまりで出来てるように思える。ボロボロだった体からウソみたいに力がわいてきて自然と駆け足になる。そして抱きつくようにして橋の上までよじ登る。登った先には・・・前にも、後ろにも、道がある。
道があるんだ・・・ただそれだけが、こんなにも心強いなんて・・・
あとは、山小屋まで
体は確かに疲れてる。相変わらず体中痛いし足は棒みたいになってもう感覚が麻痺してる。全身雨と汗でグチョグチョだ、けど、不思議と休もうという気にはならない。
このまま山小屋まで、一気に歩き詰める。むしろここで休んだら二度と立ち上がれなくなってしまいそうで怖い。その恐怖感、さっき谷底で味わった絶望から逃げたいという思い、そんな気持ちが俺を前へと歩かせた。
今どこにいるのか?
あとどのくらいなのか?
今何時なのか?
そんな考えが浮かんでは渦巻いて消えていく。今はただひたすらに足元だけをみて歩く。
ゆっくりと、自分でも呆れるくらいゆっくりと、ひたすらに。
やれやれ、情けないよな・・・思わず苦笑いしてしまう。
もっと、俺に体力があれば・・・いや、それだけじゃない、もっと、賢ければ・・・もっと若ければ・・・もっと勉強してれば・・・もっと運があれば・・・もっと金があれば・・・もっと地位があれば・・・でも、今更仕方ないよな、それでも生きたいんだって思ってしまったんだからさ・・・木でできた看板に・・・あと200メートルだって・・・たとえグズグズでも・・・もう少しだけ頑張れよ・・・辛くたって・・・引きずって・・・あ、雨、いつの間にか止んでるんだ・・・風が吹いて・・・気持ちいいな・・・着いた。
山小屋に、着いた。
なんだろうか・・・意外と何の感動も起こらない。いや、そんなことより早く休みたい。扉を空けると中は真っ暗だ。思ってたよりも大きな建物だけど中には人の気配は無い。
部屋の真ん中に木でできた大きなテーブルがあって、脇に長椅子があって、俺はその長椅子に倒れこんで、途端に意識が遠くなっていって・・・ここで待ってれば・・・ああそういえば俺、会いに来たんだよな・・・誰にだっけ?
思い出せないまま、俺は目を閉じた。