ボクタチノセカイ
この物語を始める前に一つ、自問自答してみる。
はたして、こいつはどういうジャンルに分類していいものやら?
歴史、恋愛、推理、ファンタジー、コメディー、SF、エッセイ等など、小説には様々なジャンル分けができる。当然のことながら。
だが、自分で書いといてなんだが、この作品はどうにも前述したどのジャンルにも当てはめられそうにないのだ。とりあえず自分自身では。
まず、歴史や推理物、SFなどでないのは確かだ。
面白く読んでもらうためにコメディーや恋愛の要素を多少は取り入れたつもりだが、それがこの物語の本質というわけでは決してない。
ある程度の実体験は基にはしてはいるがエッセイというほどではない。というかこの話が全部実体験ならこんなところでのうのうと投稿なんぞできないだろうな。
では、ファンタジーか?
まあ、話のぶっ飛び具合からしてファンタジーと言っていいのかもしれないが・・・別に異世界に行くわけでも魔法や超能力を使う訳でもない、当たり前の現代を舞台にした物語なので、まあ違うのだろうな。
どうやらジャンルのタグの中に、当てはまるモノが見つかりそうにない・・・
作品を書く前に哲学書や心理学書の類をそれなりに読み漁って参考にしているので哲学心理小説とでも呼んでみるか?
うーん、どうも堅苦し過ぎる。
読む人にはもっと気軽にこの作品に触れてほしいし、だからこそ物語の体裁を採っているつもりなのだ。
なんだろう・・・?
そもそもこれは小説なのか?
文章でもって物語を綴るのだから、それは小説なのだろう。
一般的には。
だけど少なくとも筆者自身にとってはそうでないように思える。
あえて言葉にするなら、この物語は世の中に対する一つの提言、といったところか。
それもかなりのカウンターパンチのつもりだ。
だからこの話を読む人は、まずは気軽に楽しんでもらいたい。同時に頭を抱えてもらいたいのだ。そしてそれから、思いを馳せてほしい。
世の中に、
誰かに、
自分自身に、
そんな話を、それでは始めよう。
「ルサンチマン」、
こんな言葉を知っているだろうか?
それは十九世紀のデンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールが確立した思想であり、同じく哲学者のフリードリッヒ・ニーチェが、この言葉を自身の著書に使用したことでも有名である。
この言葉は、およそ人類というものが、「文明」というものを持ち、「社会」とやらを作り上げてからつねにつきまとっているであろう、大きな問題を表しているのだ。少なくとも人が集団化し、その集団が拡大化する過程で、その構造を一部の権力をもった人間が大多数の人間を支配するという、いわば、ピラミッド形式が完成した時点からこの問題は必然的に発生してしまったのである。
このピラミッド構造は自分たちの身の周りに様々な形で存在している。国家や会社、宗教団体から暴走族、はたまた学校のクラブ活動まで、一定の人数を超えた組織は必ずと言っていいほどこの形態を作り出す。
何故か?
それを問う前に、なぜ人が集団化するのかを考えてみたい。
もし、個人、あるいはごく少数で人間が生きるためのすべて、衣・食・住をまかなえたとしたら?必要以上に集団化する必要はない。しかしそれで可能なのはおそらくごく原始的な生活だ。
たとえば一切の食料も道具もなく、裸一貫で無人島に放り出された状況を想像してほしい。
文字通りパンツ一丁裸一貫の状態あるいはそれに近ければ、まずは着るものを作らなくてはならない。裸で岩場や森林を歩けばケガをしてしまうし、体が冷えると病気になる恐れもある。大きめの葉っぱを継ぎ合わせるか捕まえた動物の毛皮を利用する方法がある。
衣の次は食、なんといっても生きるためには食わなくてはならない。次は食料を確保だ。海に入って魚を捕まえるか、森林に入って野生動物を捕まえるか、食べられそうな木の実を集めるか、であろう。
集めた食料が生で食べられるものならいいが、そうでない場合は火をおこして焼くなり煮るなり調理しなければならない。マッチやライターを持っていなければ、乾いた木をこすり合わせるしかないだろう。この作業は筆者も経験した事があるが、見かけは簡単な事のように見えるが実際やってみるととてつもない重労働だった憶えがある。確かに木と木をこすり合わせるだけの単純な作業なのだが、当然激しくこすり合わせなければ熱は上がらない。普段からそんな事をしているならともかく、こんな激しい動きを続ければすぐに腕が疲れてしまう。が、かといって動きを緩めたりすれば一向に火は点かない。おまけに木が少しでも湿っていればもうその時点でアウトだ。今までの苦労は徒労に終わる。現代社会では気軽に使える火も、マッチやライターが無ければとてつもない労力を使うのだ。
そんなわけで体はすっかり疲れてしまってそろそろ休みたいが屋外で寝れば風邪をひいてしまうかもしれないし、野生動物に襲われてしまうかもしれない。適当な洞窟を探すか、木の上にハックルベリーよろしくツリーハウスでも造って安全を確保しなければ命の保障は無い。
こうしてようやく一日が終わる。そして次の日からまた見つけられるか分からない食糧を探さなければならないのだ・・・・・
無人島における日常、それは夜の寒さに凍え、食べ物を得るために必死で走りまわり、野生動物の恐怖におびえる毎日。けがや病気になっても病院も薬もなく自力で治すしかない・・・・常に死と隣り合わせだ。おまけにたった一人の生活は常に孤独による心の不安がつきまとう。
その代りこの無人島世界では自分が何をしようと自由だ。なにせ個人を咎め、縛るどんなルールもこの場所には存在しない。寝ようが遊ぼうが好きな事をやりたいようにやればいい。ただその行為の責任はすべて自分に跳ね返ってくる、それだけの話である。
どうだろう、本当の意味での個人で生きる、というのはつまりこういうことなのである。
現代の日本に生きる筆者にとってはこの生活は・・・はっきり言って、辛い。しんどい。不便だ。やってられるものじゃない、三日も持てば上等だろう。こんなものは文化的な生活とは呼べるものではないではないか。しかし、こんなアンナ―ブな無人島生活も人が集まる事で状況は劇的に変化する。
食料の確保一つとってもその効率は大いに向上する。たとえば片方が罠をしかけ、片方がその罠に向かって獲物を追い込む、といった作戦を使えば獲物を捕まえる確率は一人よりもずっと高まる。住居や生活必需品を作るにおいても、材料を確保する者、製作する者など役割をそれぞれに分担すれば限られた時間を効率的に使うことができるだろう。交替で見張りをすれば夜も安心して眠れるし、暇であれば互いに話などをして時間をつぶすことで精神的にも安定と潤いをもたらす事もできる。
このように生きるためには一人よりも二人、二人よりも三人、三人よりもさらにより大勢で集まるほうがより便利で効率的で豊かなのである。
こうしたプロセスを経て人間は集団化し、「社会」というものが構成される。つまり「社会」とは人間が生活する上で必要な作業を細分化し、分担するシステムである。たとえばあるものは生産を担当し、あるものは治安を担当し、また、あるものは娯楽や福祉を担当する。人間同士がお互いに依存することで生活をよりよく生きられる。
もし無人島にナイフ一本、ライター一つ、ロープ一本あれば生活は劇的に向上するだろう。だがそれはナイフを作った人間、ライターを作った人間、ロープを編んだ人間に依存しているということなのだ。そして集団化が拡大し依存と分担が細分化することで「社会」は発展し、さらに便利な生活を送れる。
むろんこの集団化による発展には地域によっての差異がある。たとえば自然の恩恵が豊かで農業や牧畜をしなくても十分に食料を確保できる場所に住んでいるのなら、集団化が大きくなることはない。どういうことか?
たとえば歴史の授業で必ず習う「四大文明」を思い出してほしい。エジプト文明、チグリス、ユーフラテス文明、インダス文明、黄河文明。これら四つの古代文明を、地図を開いて見てほしい。どうだろう。二つの共通点が浮かび上がってくることが解るだろうか。一つはもちろん名前の由来にもあるように大きな河があるということだ。だがもう一つ大きな共通点がある。
それはこれらの地域が砂漠か乾燥地帯である、ということである。
これは何を意味しているか、つまりそのままそこに住んだのでは暮らしづらいが、知恵と工夫次第でいくらでも生活を豊かにできる要素がある、ということなのだ。
大河の氾濫を抑えるために治水をし、枯れた土地を潤すために水を引き、作物を作るために畑を耕し、さらにはこれらの作業が高率よく行えるような道具を開発し、生産の補助のために家畜を飼いならす。むろんこれらの作業は個人よりも大勢で行うほうがより大規模でより効率的になるということは言うまでもない。
この知恵と工夫こそが「文明」を生み出した。そしてより知恵を絞り工夫を凝らしたものが「高度な文明」と呼ばれるのである。「文明」とは、不便な環境をどうにかしたい、という必然的な願望から生まれたものなのだ。
だから自然から十分な恩恵を受けている地域は集団化が少なく、「社会」や「文明」が発達しない。単に生きていくのにそこまでする必要がないからである。
十六世紀以後のヨーロッパの大航海時代アメリカやアフリカなどに乗り込んだ西欧人は彼らを「未開人」とか「野蛮人」呼ばわりした。確かに、当時の西欧社会は文化や技術では進歩していて一見理想的に思える、がしかし一方で「文明人」たる西欧社会の人々は「未開人」「野蛮人」の世界に、ユートピアを重ね合わせたのである。
これはどういうことなのだろう?
その答えを解くカギは、一定以上に集団化した人々が必ずと言っていいほど形作る共同体のシステム、一部の権力者が多数を支配するピラミッド構造にある。ここに「社会」というものの落とし穴があり「ルサンチマン」はここから生まれるのだ。
次に、この構造がなぜ出来てしまうかしまうのかを考えることで前述の疑問を解いていきたい。
精神学者のジークムント・フロイトは著書で述べている。
人間に文化的な仕事を強制しなければならないのと同じに、大衆を少数者の支配にしたがわせるようにしなければならない。大衆は怠慢で、洞察力に欠けた生き物だからだ。そして大衆は欲動を放棄したがらず、欲動を放棄する必要性を議論で説得できない。だれもがたがいに放埓にしたい放題をするばかりである。
(フロイト著『幻想の未来』訳 中山元)
悲しいかな、基本的に人間はエゴの塊だ。誰だってウマいメシを食ってイイ女を抱いて遊んで暮らしたいものである。集団の全員の欲求に対して供給が不足すれば、当然そこには利害の衝突が生まれる。
集団の人数が少なければ話し合いなり個人同士で殴り合いをするなりで解決すればいいが、これが多数になってくると話がややこしくなってくる。人数が多いということは、それだけ個々の欲求も複雑多岐になり、話し合いで全員を納得させるのは時間がかかるしやっかいだ。また、利害の衝突も多くなりそこから生まれる争いの規模も、ささやかなものではなくなってしまう。郎党を組んでいさかい事でも起こされた日には、集団暴行からひどければ殺人にまで発展してしまうことがあるだろう。そうなるとあとは連鎖である。憎しみが憎しみを生み、果てることなき争いを引き起こしてしまう。
まさにカオス。
これではせっかく便利に生きるために集団化し「社会」を作り上げた意味がすべてフイになってしまう。無駄・・・無法・・・・無意味・・・・・・
というわけで「社会」をまとめる役割を担当するものが必要になってくる。統治者の誕生である。バラバラの欲望を持つ個人をまとめるためには何かしらの「力」が必要になってくる。ではその統治するための「力」とはなんだろう?
人間には、少なくとも身体能力においては明確な優劣がある。腕力や走る速さは実際に競って比べてみれば一目瞭然だ。集団の規模が小さければ身体の優劣でリーダーを決めるのは珍しい話ではない。原始的な農耕社会や狩猟社会あるいは子供同士のコミィニティにおいては腕力というものは絶対的な価値を持つ。しかし個人の腕力では制御できる範囲はたかが知れているし、年をとったり病気になったりすれば制御する能力が著しく低下してしまう。個人の腕力もまた小さな集団しか統治できない方法だろう。
では他に「社会」をまとめる方法はないだろうか?たとえば卓越した判断力と決断力、つまり頭脳的なアビリティなどが有効になるのではないか。
大勢の人間をまとめ上げるための仕組みを作り出しそのシステムの上に人々を乗っければいいのではないか?こうして出来上がったのが具体的にいえば、大きいところでは憲法とか法律とかで、細かく言えば社則だの校則だの家訓といった、つまりはルールである。
今現在我々の生活は大なり小なりのルールによって固められている。というかルールによって生活が形作られていると言っても過言ではないし、多分多くの人間もそう解釈しているような節があるが、これらの成り立ちを見てみると、本来はルールの下に人が集うのではなく、人が集った結果としてルールが出来上がるというのが解る。鶏が先か卵が先かの論議がある。どちらが先なのかはわからないという話なのだが、少なくとも人とルールどちらが先かといえば人のほうが先なのだ。
話がそれてしまった。ではすばらしいルールを作れば誰もがそれに従うのか、現実は否だ。
どんなルールでもそれを運用するのは統治者である人間である。
いかにすばらしいルールを、いかに頭脳が天才的で優れている人間が提唱したとしても、そいつが、例えばとてつもなく嫌な奴なら、誰もそいつの言うことなんかを聞きやしない。
では誰にでも慕われる人格者が統治者になればいいのか?たしかに歴史を紐解けば優れたリーダーと呼ばれる者たちは人間的魅力を兼ね備えた人物が多い。中には、能力的に優れていなくともほとんど人たらしの術だけで組織のトップに上り詰めた人物もいる。歴史上の具体例を挙げれば、たとえば漢の高祖・劉邦などがそうだと言われている。
しかし人間的魅力もまた大勢の集団を治める決定打にはならない。
なぜか、少なくとも理由は二つある。
一つは、こうした人間の内面的なアビリティは確かに、他者に対して畏敬を抱かせることもできるが、それを肌で実感できる人間の範囲は限られている。
もう一つは、腕力と違い強制力がないということである。(たぶん?)誰だって痛いのは嫌だ。腕力は暴力の行使という手段によって相手を従わせることができるが、人間の魅力に従うかは個人の自由決定でしかない。
では、集団をまとめるためにはどうすればいいのか?
はたしてその方法は存在するのか?
そのために必要な力とは?
もちろんそれは確かに存在する。現に我々の世界はまがりなりにもさまざまな形で集団「社会」を作り上げている。
それらに共通するファクターを抽出して見えてくる統制の決定打とは?
それは、対価と強制である。
対価とは何か?
たとえば会社を例に挙げてみれば労働に対し、賃金を支払うということである。
集団は収入を得るために会社に属し、その方針に従い行動して利益を上げることでことで正当な対価である賃金を受け取る。集団が個人の意志や意見を抑え一つにまとまることによってそのペイを受け取る、ということである。
このペイは賃金など物質的なモノばかりだとは限らない。
たとえば、ある種の宗教において対価となるは、天国である。
教義を信仰し、お布施を納めることで神の代理人である教祖より「死後の安定」を保障されるのである。
こういった多分に精神的な事もまた、対価として通用するのだ。
では対して強制とは?
集団を運用するにあたって、規律に従わない者や乱した者に対し何らかの罰則や制裁を設けることである。
会社においては降格や減棒、最悪は解雇ということになる。精神的なコンテンツは言うまでもなく地獄という形で用意されている。また一昔前ならタタリなどというものまであった。
この強制の執行機関として現在最も威力のある存在を挙げるとすればそれは軍隊であろう。この存在は言うなれば腕力の究極の集団化である。個の腕力が及ぼす影響の範囲には限界がある、とはすでに述べたが、それでも集団化すれば話が違ってくる。多数に組織化され十分な訓練を積み強力な兵器を準備した軍隊が持つ強制力はこの世のなにものにも勝る。
何しろ人間を殺す能力に特化した集団である。人にとって「死」が最も不幸であるのならば、軍隊はそこに存在するだけで強制力があり、その影響力は自らの集団はもちろん他の集団にさえ絶大だ。
どのような形にしてもこの対価と強制の二つが、より多数に集った人々にある程度の秩序と統制をもたらしているのは間違いない。統率者がもつ腕力、知力、魅力これらは、いずれも集団に対価と強制を潤滑に与えるための手段なのである。
そして故に、集団のトップには対価と強制を与えるための具体的な「力」が集まる。
今現在、集団の単位として一番大きな単位、それは「国家」である。どんなに小さくても数万から最大になれば十数億ともなる超ド級の枠組みの単位である。これを統率する政府という機関には莫大な資金が税金という形で集積される。さらには先ほど最強の強制執行機関と述べた、軍隊。ほとんどの「国家」はこれを運用可能だ。さらには警察などの内部治安組織も多くが備えている。
これらを使って対価と強制を「国民」に与える。
基本的には、自「国民」に。
時には、他「国民」にまで。
ここで我々の住む「国家」、日本について考察してみたい。
日本の「国家」という枠組みに入るためには基本的にはまず当たり前のことだが日本に生まれればいい。すると「国民」という形でほぼ自動的に参加することができる。参入にはこれでいいが、脱退をするとなると難しい。日本では他の「国家」に移籍することは不可能ではないが、その手続きは実にややこしい。またその手続きをクリアし他の国に籍を移したとしてもその先では「日本から移住してきた人」というレッテルを張られて生きる事を覚悟しなければならない。まあ国によっては他国への移住すら認めない国すらあるのに比べればまだ開放的ではあるが、自国であれ他国であれ国籍を持たない人間は認めようとしない。役所に「国籍も行政サービスも公的幇助もいりませんから一切税金を払わないようにしてもらえませんか?」と申請したとしても鼻で笑われて追い返されるだけだろう。頭がおかしい人間と思われるかもしれない。(個人的にはそういうお願いもアリでいいんじゃないかと思うが)
なんにせよ我々日本人は日本の大地に住む限り「日本人」をやめたくてもやめることはできない。「日本」という「国家」を動かしている政府が、それを許さないのだ。
その代りに「日本人」に与えられる対価と強制は?
65歳を超えたら年金がもらえるとか健康保険を受けられるとかそういうものもあるが(最近はそれも危うい気配がするが。)もっと精神的でかつ象徴的な(という他に表現しようがない)ものがある。
「日本国民」という保障である。
日本に生まれ日本で育ち日本に暮らし日本語を話す。そのことに共同感と特別の感慨をいだくということ。
それはナショナリズムという形でしばしば現れる。
もちろんこれは日本に限った事ではなく近代国家がほぼ全世界で成立して以後は世界各国の国民が同様の意識を持っている。むしろ日本人はナショナリズムが他国に比べ薄いといわれているのだ。
これを読んでナショナリズムだの何だのとピンとこない人もいるかもしれない。確かに常日頃から「日本国バンザーイ」などと言っていると、そいつは確実に右翼扱いされる。アメリカ大統領選の報道などを見ると、人々が集って「アメリカ万歳」と唱えているのを目にするが、それに比べると我が国はどうも冷めたものである。しかし、そんな日本人が日本中で「日本」を強く意識する瞬間が確かに存在する。ここにその具体的例を挙げてみよう。
例えばオリンピック。サッカーのワールドカップなどでもいいだろう。
思い起こしてもらいたい。我々は日本選手の活躍をテレビやラジオ、あるいは現地に行って直接見ながら、一生懸命に応援しその結果に一喜一憂する。この瞬間はあらゆるメディアが日本中を巻き込んで熱くなる。テレビの実況中継を見た日には、メダルを取ろうものならリポーターの、なにを言っているのかまったく解らない絶叫が部屋中に反響する羽目になってしまい、いくらなんでも熱くなりすぎじゃないかと思ってしまうが、まあ別にテレビ中継の在り方に対しどうこう言いたいわけではないのでそれは横に置いといて、ちょっと考えてほしい。友人や親類、関係者ならともかく、多数の観客にとっては出場している選手は会ったことも話したこともない赤の他人であるはずだ。であるのに選手が活躍し、勝利すればまるで我が事のように大喜びする。
もちろん外国の選手が世界記録を出したりしても大いに感動する事はあるが、感動の質はまったく異なったものになる。外国人選手の活躍から起こる感動は感嘆や驚嘆、すなわち「すごい」である。一方自国の選手の活躍や勝利には観客は歓喜、つまり「やった」という感情を起こすのである。
冷静になって考えれば疑問に思えないだろうか?基本的には両者とも赤の他人である。自国の選手が活躍しても大半の人には直接の利害はない。せいぜい次の日の会話のネタが一つ増えるぐらいだろう。しかし、一方ではあくまで他人事、片や一方ではあたかも我が事。
実は、これこそがナショナリズムなのである。
この心理は幼児が特撮ヒーロー等に感情移入する事と似ている。
子供のころ「○×レンジャー頑張れ」と言い、悪者をやっつけると、大喜びしながらテレビにかじりついていた憶えはないだろうか?多分、今でもご家庭でよく見かける光景だと思うが、そういう子供の中には将来の夢を問われて、「○×マンになりたい」と答えるようなのもいると思う。もちろんある程度大人になってからは、こういったものはフィクションだと分かりきっているから、よくできているストーリーを面白いと思うことはあってもさすがにテレビに向かって応援はしないだろう。だがヒーローを夢見る子供達にとって特撮ヒーローはテレビの向こう側だけのキャラクターではなくリアルに存在すると思っている。まだ幼く、お話と現実の区分けができていない子供にとって、特撮ヒーローはごく身近にいるあこがれであり、自己を投影する存在なのだ。
どうだろう?先述の構図とよく似てはいないだろうか。
だがオリンピック選手は、特撮ヒーローと違って実在するじゃないか、というかもしれない。確かに彼らは現実に存在する人物である。しかし彼らに身近に関われる者が観客の中ではたしてどれだけいるかという事を考えれば、やはり彼らもテレビのモニターの向こう側の存在と言えないだろうか?
オリンピックやワールドカップ等に出場する選手は「国家」を代表する、いわばヒーローヒロインである。
我々観客たる「国民」は選手たちの活躍に自己を投影する。そして選手と観客が同じ「国」に生まれ育った、ということに強い共有感を抱き、感情移入して自分に重ね合わせて応援することで、選手の勝利に対し観喜する。
その投影の媒体として「国」が介在するのだ。
オリンピックしかり、ワールドカップしかり、国政選挙しかり、戦争しかり、「国家」というモノを掲げて行うドラスッティクなイベントに対し多くの「国民」が自己を重ね合わせる。
なぜそのような事をするのか?もちろん単純な郷土愛から起こる部分もあるだろうが、それだけでは、たとえば戦争などに高揚する民衆の心理は説明しきれない。いくら自分の生まれた土地が愛しくとも、人を殺し殺される行為を容認できるだろうか?
根本的な理由を一言で言い切ってしまえば、優越感が欲しいからであろう。
たとえば有名人と同じ学校の出身である事をやたらと自慢したりするような人はよくいるが、有名人や偉人などと共通する何ものかを他者にひけらかすことで、あたかも自分が優れているように思う。あるいはそう思い込む。
たしかに人は誰でも優れていたいと思うものだ。そのために自らのスキルを高めるよう努力するが、それが常に報われるとは限らない。
しかし、勝ったもの、強いもの、価値のあるもの、大多数のものに共同感を持ったり身につけたりすることで、自らのスキルを向上させなくとも、自己の優位性を仕立て上げることができる。
そう感じる!
そう思い込む!!
そう信じる!!!
そうに決まってる!!!!
「国家」は我々を「国民」という圧倒的大多数の集団の一員であるという価値観の保障を与えてくれる。
「国家」が与えるドラマの一員にしてくれる。
だからこそ「やった」なのである。
集団の枠組みの一つにすぎない、「国家」から与えられる対価の最たるものはこのこととではないだろうか。であるからこそ国の執行機関である政府の在り方に疑問を持つことはあっても「国」という、概念というに等しいモノに、人々がとらわれ続けるように思う。
どうも「国家」についての話が長くなった。しかしルサンチマンを語る上でこの「国家」というモノは最も重要だと思い長々と語らせていただいた次第である。
ここまで人が集団化し、社会をつくり、それを運用するシステムを考察してきた。
そしていよいよ本題にはいらなければならない。
ルサンチンマンとは何か?
それはどうやって生まれるものなのか?
まず結論から言わせてもらうと、ルサンチマンとは社会や集団からもたらされる怒り、恨み、怨念といった意味である。
今現在までにつながる多岐に亘る社会構造。集団が多数になればごく一部少数の者がその他大多数を統括するピラミッド構造を作るということはすでに述べた通りだ。
一見この構造は非常に堅牢のように見える。
事実この機能が上手く運用されればルサンチマンの少ない社会が出来上がっている。どうもここにポイントがあるようだ。
ならば、ここで「社会」を運営する統治者について考えなければなるまい
集団が大きくなればなるほど分配されるべき対価は膨大になり、強制力は堅牢かつ強力になる。それに伴い社会は複雑多岐になる。そうしなければ統治ができないからだ。
もちろんそうなれば多くの人間が巨大なピラミッド社会のトップに立ちたいと願い努力する。
対価を自由にコントロールできるということは、自己にその対価を向けるようにシステムを書き換えることができるということだし、対価や強制を他者に与えることができるという立場は「権威」というものを付属させるらしく、その他者に対する優越感はどうもかえがたいほどに魅力的に映るようだ。
しかし、現実にはそういった立場に立てる人間はごく一部である。
ならば社会の全員が統治者になれば上手くいくのではないか、という考えはどうだろうか?確かにそれは究極の民主主義かもしれない。現在では大多数の国家が選挙などによって統治者を選べるシステムを取り入れているし、会社などでも労働組合などで一般社員が社長や役員に意見することができる。ただこれらのシステムはあくまで集団ピラミッドの下部の人間が上部の人間を監視、選択できるというだけであって、社会における役割分担とはまた違ったものである。
大多数の個々のエゴがぶつかるから統治者という役割が必要になる訳であって統治者が多数になってしまえばそこでまたエゴの衝突が起こってしまう。第一、全員が統治者になれば誰が生産や流通、治安や福祉娯楽を担当するのか?
社会を実質的に動かしているのはこうした大多数の被統治者であり統治者の本来の役割とは被統治者のエゴを抑え社会を潤滑に運営することである。以上のことから統治者という立場は個人か、もしくは集団に対しごく少数でなければならない。今現在の社会の実情では全員が統治者という考えはナンセンスだろう。
そして一個人もしくはごく少数だからこそ統治者には多くの富と名誉が集まる。
ゼロから頂点に立つには他者との競争に勝ち残らなければならない。勝ち残れば残った者同士でまた競争が始まる。こうした繰り返しの果てに、ほんのごく一部の勝利者が、巨大集団の統治者となるのである。
その競争に敗れたものは、ピラミッドの下辺で我慢するか、小さなピラミッドを作ってその上で満足するしかない。彼らは、その「社会」の価値観の中で生きる限り敗者として統治者に従うことを宿命づけられるのだ。
ピラミッドの頂点に立つ少数の者たちは、己が持つ「力」によって大多数の下辺にいる者を支配し、搾取する。
時には莫大な資金を使って。
時には強大な武力によって。
時には堅牢な法でもって。
こうして「社会」の統治者の一丁あがりである。
なんと・・抗し難い・・
だが、我々はこの事を忘れてはならない。
どのような集団であれピラミッドの頂点に立つ者はやはり人間だということである。
何度も述べたとおり大衆がエゴの塊だからこそ統治者が必要になるのだが、彼らが社会全体をよく把握し少しでも不満が生まれないように裁量できればいい。
だが彼らとて絶対でも完璧でもない。ミスもするだろうし、できればそのミスを隠したいという下心もある。集団を運営する上で生まれる様々な矛盾に対して妥協したり、変節することだって十分にありえる。組織ができた当初は清廉潔白でもそれが肥大化するに伴ってエゴをむき出しにする統治者の話など枚挙にいとまがない。
また統治者が交替するにあたって、能力度外視で親近者を後継者にするということなど、永田町を筆頭にどの世界でも今でも当たり前に行われている。ゼロからだと這い上がるのが大変な統治者への道も、持って生まれた地盤によってはその過程を大きくショートカットできてしまうのが現実だ。もちろんそれがすべて悪いとはいわないが、巨大組織の親族経営が様々な矛盾を生むことが多いということもまた現実としてある。
あえてもう一度言う。大衆が人間なら統治者もまた、同じ人間なのである。
しかしそれが私利私欲に走ったり己の独善を他者に押し付けたりをすれば当然のことながら社会に歪みが出てくるだろう。
いわれなき制裁、富の独占化、派閥の形成化とそれらの不和、対立等々・・・挙句の果てに統治者が本来の役割を放棄し、自己の保身のみに没頭してしまえば、後はエゴとエゴの混在するカオスである。
そしてそれはさらなる歪みを生みだす。大きなピラミッドの中にいくつも混在する小さなピラミッド。数知れない弊害が大から小へ、そして小のなかのさらに下のほうへと伝染していく。
なんというリアルだろう・・
その中で人々は迷い、葛藤し、切望する。
人より、多少なりとも優れていたい。
世間から取り残されたくない。
流れに逸れたくない。
負け組と呼ばれたくない。
勝ち組と呼ばれたい
たとえクソみたいな現実の中でも、少しでもいいから優越感が欲しい。
でもピラミッドの頂点に昇る実力も、立ち向かう度胸もない。
ならばどうする?
どうすればいい?
このままじゃ、耐えきれない、自分で自分を支え切れなくなる。自我が・・崩壊する!
ならば・・ならば・・・・
下を見ればいいじゃないか!
見た目だろうが仕事だろうが勉強だろうが、何だろうが、自分達より弱い奴、劣る奴、少数の奴、考えが違う奴、はみ出している奴を見下せばいい!
徹底的に馬鹿にして、コケにして、疎外して、へこましてやればいい。
自分たちが「正義」である理由を探し出せ!
奴らこそ存在する意味がないと決めつけろ!
そうすれば、少なくとも連中より自分は優れた人間であるという実感が手に入るじゃないか!耐えきれない現状を直視しなくても済むじゃないか!
こうやって歪みの中で真っ先に被害者となるのは大半がピラミッドの下辺に位置する者や少数に属する者たちなのである。
これが悪意でなくて何と言おう・・・
その悪意は具体的なカタチで襲いかかる。
減給、降格、リストラ、いじめ、村八分、リンチ、粛清、総括、魔女裁判、侵略、虐殺、植民地支配!
集団の規模が大きくなればなるほどその被害者は増え、より悪質に、より残虐になる。会社や学校に生殺与奪権は(たぶん)ないが、恐るべきことに国家にはそれがあるのだ。
しかも、タチの悪いことに自己をいくらでも正当化してくる。
統治者を批判することは「国家」そのものをも否定することだと決めつけることができる。
自分が正義だという規定ができる。
だから行為にためらいが無い!
「弱い者」になす術をあたえない!
ボクタチハ・・・ナニモデキナイ・・・
タダ・・・ソンザイヲヒテイサレルダケ・・・・・。
こうして抑圧され虐げられた、弱き者たち、不満を持つ者たちの恨み、つらみ、妬み、嫉み・・・・。
何故?
本来、便利で豊かな生活を送るために人と人は集まったはずなのに、どうしてこんな目に逢わなければならないのか?
頂点に立つ者強大で、時に殺人的なほどの暴力性を持った「社会」。そこから生まれるさまざまな負の感情。
ルサンチマンとはこうして生まれるのである。
「社会」の歪みが連鎖的にルサンチマンを増殖させる。ルサンチマンを与える側もまた多くがルサンチマンを抱え込んでいるのである。
確かに、世の中は不条理なことが多い。不慮な事故や病気で不幸に陥ってしまう人もいるだろう。
だがこれは、ただの身の不幸と処理できるのだろうか?していいのだろうか?
どう納得すればいい?
ルサンチマンの連鎖の到達点には何があるのか?
抱え込んでしまった負の感情はどう処理されるのか?
人は、ここにいたってどんな行動を起こすか?
多くの者は、ただひたすら耐えている。
あるものは耐えきれなくなり「社会」から逃げ出してしまう。新しい価値観の中で生きようとする者もいれば、絶望し、自ら「世界」に別れを告げる者もいる。自分の家で布団にくるまってひたすらリアルから目を逸らしている者もいる。
だが・・・しかし・・
ごく少数だが、闘うことを選択するものが出現する。
既存の「社会」や価値観をリロードしようと立ち上がるものが現れる。
彼らは同じルサンチンマンを抱え込んでいる者たちに訴える。
「社会」を変革しよう、と。
だがもちろん、こうした働きかけは「社会」の秩序を乱すものとして真っ先に弾圧の対象になる。
大半は、蟻の如く無残に踏み潰されて、はかなく消えてしまう。
個人の一代で変革を成し遂げられないケースもある。
しかし、「社会」に住む多くの人が、ルサンチマンに耐えきれなくなり、心の底から変革を望むようになれば・・・新しい世界を、今とは違う価値観を受け入れる覚悟ができれば・・・
革命が、起こる。
天地をひっくり返すことができる。
今までただルサンチマンを与えられるだけの人間が、ピラミッドの頂点に立つことができるのだ。
そう、ルサンチマンは社会そのものを変える力の根源ともなりうる。
人の、変わりたいという願望の源泉は、現状、あるいはそこから予想される将来に対する不満や不安である。勝負に負けたことが悔しいから、次に勝てるように努力する、貧乏が嫌だから金持ちになれるよう一生懸命に働く、喧嘩に負けたくないから体を鍛える、将来落ちぶれたくないから必死に勉強する。
もし、現在に不満も不安も感じなければ、人は変化を望んだりはしないだろう。変わって良くなるよりも、悪くなるほうを恐れる。現状の保守を望むだろう。
不満や不安といった負の感情を「社会」に属する人間すべてが抱えこみ、不満のはけぐちが全て塞がってしまった時、それはとてつもない逆流を起こす。
それは、あたかも水のように。
貯水槽が飽和限界を超え逆流を起こすとき、その容量が大きければ大きいほど勢いは激しくなる。
それと同じようにルサンチマン逆流も集団の規模が大きければより激しくより苛烈になる。その舞台が国家規模になると大量の血が流れることも珍しくない。
こうなると統治者にはどうにもできない。そもそも統治能力が優秀あればこういった事態には至らないはずであり、こうした「不測の事態」を処理する能力など最初からありはしない。強制力でもってこの流れを抑え込もうにも強制執行機関そのものまでもがルサンチマンの逆流に乗ってしまえば、もう統治者など丸裸も同然である。まさか素手でもって全ての敵に立ち向かうことなどできまい。素直に己の立場を明け渡すか、とっととトンズラするか、最後まで権力の座に固執し、制裁を受けるか、である。
そして、それまでのルサンチマンを代表する者が新たなる統治者の座に就く。
こうして「社会」はリロードされ、新たなる価値観のもとで人は生活することになる。
だが、果たしてこれですべてめでたしめでたしで終わるのだろうか。
ルサンチマンの代表者が統治者になったところで、ピラミッド構造の社会の基本原理まで変わるわけではない。
もちろん新たなる統治者の大半は、ルサンチマンの苦しみや怒り悲しみは理解を示し、以前の反省を基に新たなるシステムで「社会」を上手く統治しようと努力する。
その結果、一時的にルサンチマンの少ない「社会」が出現することも多い。
だがこれまでの歴史の結果から見る限り、それはあくまでも一時的にすぎない、と言うしかない。
たとえどんなシステムをつくりあげても、その抜け目をかいくぐって不正を行い、富を独占しようとする者が現れてくる。
また統治者自身も年月を重ね、代替わりするに連れ、当初のルサンチマンを忘れ、私利私欲のため権力を行使するようになってしまう。中には権力を握ったとたんに豹変し、横暴になる者も歴史上少なくない。
こうしてどうなるかはすでに述べたので、改めて 語る必要はないだろう。
人が、「社会」というモノを作り出して以来、現在までこの繰り返しを数え切れないほど繰り返してきた。
「歴史は同じことの繰り返しだ」という者もいる。
ニーチェはこれを永劫回帰という言葉で表現した。繰り返される悲しみ・・・苦しみ・・・
しかし、果たしてそうなのだろうか。
もし、まったくその通りだとすれば、未だに我々はエジプト文明や黄河文明のような生活しているはずである。しかしこの数千年の人類の歴史において、幾度もの争いを繰り返しながらも文明を発達させ、「社会」同士が交じり合い、便利な道具を発明し、新しい「社会」のシステムを模索し続けた。
その結果現在、いくつもの大きな問題を抱えつつも、人類は暗い夜を明かりで満たし、飛行機で自由に空を行きかい、さまざまな難病を撲滅し、各地の食べ物を口にできるようになり、世界中の情報を交換できるネットワークを作り上げた。
人は同じことを繰り返しているようでいて、着実に世界を変化させているのである。
その全てはルサンチマンをこの世界から無くしたいという想いからではないだろうか。
果たして、それは可能なのか?
どうすればルサンチマンを克服できるのか?
答えは・・・存在するのか?
ここで、ひとつの物語を始めたいと思う。
この物語の主人公は、今の日本の社会の価値観から見ればごくありふれているだろうと思われる、一人の青年である。
あるいは彼を取り巻く世界そのものこそ主人公と言ってもいいかもしれない。
彼から見た世界は、まさにルサンチマンそのものだった。
そして彼もまた、心の中にルサンチマンを抱え込んでいた。
彼は今、世界に対して彼なりの答えを提示しようとしている。
この青年は、今まさに、電車に乗ろうとしていた。