1. コネクトーム/ミメクトーム
特定の個人に由来しない、人間のモデルDNAがある。ヒト・ゲノム・プロジェクトの成果であった。また、同様にモデル細胞もある。DNAデコーディングと、生物物理化学により、細胞から成体にいたるまでの細胞環境と生体環境のシミュレーションも可能となった。そのシミュレーションにより、多数の人間のDNAを継ぎはぎしたことによるバグも、そして細胞環境自体のバグもフィックスが完了した。
ここに、遺伝疾患をもたず、DNAや細胞環境が解析されているデータがあった。
DNAを含む細胞環境データにもとづく細胞環境シミュレータ、生体シミュレータにより、様々な条件下における発育のシミュレーションも得られた。
これにより、遺伝疾患や感染症に対しての対応が容易になった。
モデルDNAを参照し、個人のDNAや細胞環境に編集を加えれば、出生時において、あるいはそのすぐ後において、遺伝疾患や潜在的遺伝疾患は駆逐される。また、モデルDNAとモデル細胞環境にもとづいたシミュレーションをもとに、個人の細胞から四肢欠損その他への代替器官の生成も可能だった。
生体の浄化とニューロン新生、そして補助機能をもつ器官を個人の細胞から作ることにより、脳の寿命も伸びた。
だが、そこで問題があった。体も脳も不死ではなかった。いずれ寿命が、限界がきた。
ライフログ、つまり行動と思考・意思の記録サービスが発達し、ライフログからの人格の復元も試みられた。人間は考えておらず、状況に対して反応しているのみだという仮説は、その本丸、つまり自由意志にいたるまで、次々と外堀が埋められてきていた。そうして、ある個人らしさをもたらすのは、状況への対応のしかたにすぎず、その対応を言語化することにより自由意思という幻想が持たれているのだと言えるところまで、あとすこしとなった。
それでも、と、人は言う。脳こそが不可侵の個人であり、自由意志の座であり、魂の座であると。脳に補助機能を持った器官を既に導入しているにもかかわらず、脳は不可侵だと言った。
それらの人の生れ変り願望は、脳のコネクトームに寄せられていた。脳、あるいは神経細胞という媒体を前提としているコネクトームに。それこそが、ただの記録であるライフログ以上のものが人間にはあるという、最後の抵抗だった。
だが、ライフログによる生まれ変わりを考える人もいた。それらの人々は、ミメクトームという概念を推した。ミメクトーム、つまりミームという概念素の総体、概念素の間の結合も含めた総体、それが再現できなら脳や神経細胞を前提とした再現方法である必要はないと。
だが、人体の再生はまだ道半ばであり、コネクトームはモデル・コネクトームがあるのみだった。モデル・コネクトームの起動が試みされてはいるが必ずしも成功しているとは言えなかった。人体の他の部位のように簡略化しての実行が難しいというのも理由の一つだったが、それよりもコネクトームを起動することに対する嫌悪感が先立っていた。
ミメクトームもやはりまだ道半ばであった。概念素の扱いに困難があった。
結局、脳やそれに該当する部分の構築、あるいはそれらの中における表象が問題だった。補助脳であれば、外部からの誘導により必要な神経回路が構築できた。ならば、充分な機能を持つ脳も誘導により構築できるはずだった。誘導により、ある個人のコネクトームを再現することが可能なはずだった。そして、モデルDNAおよびモデル細胞環境からは、もしそれらから発生した個体を幼体から飼育するのであれば、誘導をせずとも人間と同程度の機能を持つ脳を含む成体を作れるだろうと予想されていた。
結局は予算の問題だった。モデルDNAとモデル細胞環境を用いるにせよ、ミメクトームによるものにせよ、結局は予算の問題だった。そして予算は、人々のそれらに対する嫌悪感から、充分にはなかった。モデルDNAとモデル細胞環境を参照した結果としての代替器官は実用になってはいても、それらを元にした成体は別の話だった。
そこで、すこし異なる方法が検討されはじめた。