11.
運命の七月十四日を迎え、放課後に校舎裏に呼び出された茜は、翔大から告白を受けた。全てが現実に変わり、これに魅了された茜は毎日のように視聴覚室に通い始めた。怪しまれないように少しずつ成績を上げたり、道端で財布を拾ってお礼にお金を頂いたり、周囲から疑いの目を持たれないように細々とした幸福をテキストファイルに書き連ねていった。そして書いたことは全て現実へと変わっていった。
七月も二十日を過ぎてもうすぐ夏休みというある日のこと、由紀が茜の肩を叩いた。茜の手によって期末テストの成績を下げられたり、イジメにあったり、不幸な人生を歩み始めていた茜は、悲しそうな顔で訴えた。
「最近、視聴覚室で何してるの?」
茜は思わずたじろぐ。
「別に、何も」
知らないふりをして、由紀が茜の肩に伸ばした手を振りほどき、教室を出ていこうとする。
「ねえ、アカネ!」
呼び止められて、茜は歩みを止めた。大きく息を吸って、吐く。後ろは振り返らなかった。
「私が苦しい目にあってるって……知ってるでしょ? どうして、助けてくれないの……」
涙声で、由紀が零した。泣いているのだろうか。嗚咽が聞こえて、茜は胸が苦しくなった。チクリと刺が胸を刺す。由紀の問いかけに答えることなく、茜は教室を飛び出した。職員室へ行き、この日も視聴覚室の鍵を借りる。
「今日は、何の用事だ?」
山本が訝しげな表情で茜を見る。
「調べ事です」
鍵を奪うようにして受け取ると、茜はすぐに視聴覚室を目指した。パソコンを起動させ、二年三組のフォルダを開ける。さて、今日は何を書こうか。村上由紀のファイルを選び、右クリックをする。現れたメニューをみて、そしてふと手を止める。「開く」「名前を変える」などの他にひとつ、「削除」という欄がひとつあることに気付く。削除。これを押したら、一体、どうなってしまうのだろう。削除すると、何が起きるのだろう。鼓動がドクドクと速くなり、額を汗が伝った。
『どうして、助けてくれないの……』
泣き顔で俯く由紀の表情が脳裏に浮かんで、茜はハッと我に返る。私は、どうしてしまったのだろう。なんでこんなひどいことをしていたのだろう。親友のはずなのに、どうして親友の幸せを願ってやることができないのだろう。どうして、自分はこんなにも嫌なやつなのだろう。自己嫌悪に陥り、瞳から涙が溢れる。謝らなきゃ。そして、書きなおしてあげよう。由紀の、幸せな未来を。そう思った時、不意に視聴覚室の扉がガタリと揺れた。
「アカネ、いるんでしょ? 話を聞いて!」
「開けるな!」
思わず茜がそう叫んだ時、カチリ、と右手が何かに触れたのを感じた。ガラリ、と勢い良く開く扉。今のは、確かに由紀の声だった。しかし、そこに由紀の姿はない。キン、と、何かが落ちる音がした。そこには、誰も、いない。
ふと、パソコンの画面を見やる。
『村上由紀 を 削除しました』
パソコンの電源を元から消して、由紀は鞄を拾って抱えると視聴覚室を飛び出した。開いたままの扉を閉めて、鍵を掛ける。ふと、足元に見覚えのあるブレスレットが落ちているのに気付いた。
『ねえねえ、見てこれ、可愛くない!』
『いいね、私も欲しい!』
『じゃあ、お揃いで買おう! 親友の証!』
いつか駅前のファッションショップで交わした会話が蘇る。鍵を握った右手でそっと左手首を握り締めると、そこに落ちているのと同じ、金属製のブレスレットが触れた。思い出したように、廊下を駆けて階段を降りていく。職員室で山本を見つけると、今度は押し付けるようにして鍵を返した。
「なんだなんだ、もう帰るのか」
「すみません、用事を思い出して」
ペコリと頭を下げ、職員室を飛び出そうとしたところで、山本が呼び止めた。
「何ですか?」
焦ったように茜が問うと、山本は顎鬚を撫でながら静かに言った。
「お前、なんか変なことしてないだろうな」
ドキリとして、茜はそれに答えることなく職員室を飛び出した。廊下を駆け抜けて、グランドへ行き、野球部を探す。キャッチボールをしている翔大を見つけ、茜は駆け寄った。
「おお、アカネ、どうした?」
茜は、思わず翔大を抱きしめた。
「おいおい、どうしたんだよ、練習中だぞ」
「ユキが……ユキが、消えたの……」
「は? 何言ってるんだ落ち着けよ」
「だって、だって……」
「大体、ユキって誰だよ」
茜が手に持っている鞄が、ドサリと落ちた。
『村上由紀 を 削除しました』
そうか。消えたんだ。由紀は、この世から消えてしまったのだ。
「いててて、あれ……なんだ、急に」
翔大が、突然頭を抱える。
「ユキって……俺、本当はそいつが好きだったのに……あれ、なんで俺、アカネと付き合ってるんだ……あれ、ユキって誰だっけ……」
思い出せない記憶に頭を痛める、翔大。茜は怖くなって、その場から逃げ出した。
「おい、アカネ!」
駅に向かって、ただがむしゃらに走る。怖い。怖い、怖い。何がどうなっている。由紀のことを忘れてしまった、翔大。でも、覚えていた、そして好きだと言った。どういうことだ。何がどうなっている。由紀の情報は削除してしまったというのに。何故、翔大は覚えている。いや、そういえば、前にも由紀が交通事故に遭ったことを、翔大だけは覚えていた。どういうことだ。いや、彼だけではない。正確に言えば、茜自身も覚えている。でも、それは茜自身が翔大の過去を改竄したからであって――。
『俺、本当はそいつが好きだったのに』
まさか。まさか、彼も由紀の記録を改竄していた? それで覚えていた? 翔大が由紀と付き合うために、その一文を翔大が書き換えたから? もしかすると、翔大自身も彼女が怪我をする未来を知っていたのかもしれない。だから、その部分だけ記憶が消えなくて――。
『気を付けて帰れよ、一日に二人も事故を起こしたらたまらんからな』
茜はハッと顔を上げた。なんだ。どういうことだ。あれは確か、茜が交通事故の記録を削除した直後のことだった。あいつは、確かにそう言った。なぜ、覚えている。由紀が、交通事故に遭ったことを、あいつは、どうして、覚えている。
『お前、なんか変なことしてないだろうな』
『村上由紀 を 削除しました』
「もしかして……」
茜の意識は、そこで途切れた。キン、と金属音が辺りに響く。とは言っても、その音は茜の耳に届くことはなかった。ワシャワシャと、クマゼミがけたたましく泣き叫んだ。
日の光は、道路に落ちたそのブレスレットを照らしている。