Story4 心臓のない少年(12)
12 ネセセアの神
朱赤色の瞳の男はゼルの身体の前で膝を折った。
その手がゆっくりと灰を掴む。
「・・・ムスカリ・・」
呟かれた声はもう随分と喋っていない印象を受けるほど静かで不慣れなものだった。感情が含まれていないだけにぞっとするような声だった。
男はカナリアの姿も、ゼルの姿も見ることなく、灰の山の上に手をかざす。
ぼんやりと彼の手が光を放った。
「私はお前達の入山を許可した覚えはないよ」
「・・・・」
男が顔を上げる。
霧の中に女がいた。
ふわふわとした癖のある赤い髪を短くまとめた二十代くらいの女。夜空に輝く青い星のような不思議な瞳。
恐ろしい程輝いているのに、穏やかだった。
「それの空けた穴を利用して入り込んだようだね。そこまでしてそれを取り戻したかったのか、それともトーアで保護している亜精霊の子供が目的かい?」
口調は強かったが、彼女は面白いものでも発見したかのように微笑んでいた。
「どちらにしても私はお前がここにいることをよしとしないよ、アナナス」
「・・・!」
「名乗った覚えはない」
驚くカナリアとは対照的に彼は冷静に答えた。
生を感じさせないほどの動きで立ち上がり、女と向かい合う。その目にはやはり感情らしきものは見あたらなかった。
「名乗らずとも知れるよ、お前ほどの強い名前は。ここは私の守る場所だからね」
女はそう言ってカナリアの前で膝を付いた。彼女はカナリアを見て一瞬だけ不快そうに眉をひそめた。
だがすぐに彼女は笑う。笑って、カナリアの肺に突き刺さった刃を抜いた。
鞘から剣を抜き去るよりも簡単に。
傷口から血は吹き出さなかった。それどころか先刻まで地獄の責め苦のように痛んでいた傷が嘘のように何も感じなくなった。代わりに来る感覚はまるで夢を見ているかのような、熱に浮かされているような奇妙な高揚感。
これは現実だろうか、それとも痛みのあまり見えた幻覚だろうか。
それすらも分からないまま彼は息を吐く。
身体は相変わらず動くことを知らない。
「太古の契約により、お前達は私の域に立ち入る事は許されていない。禁を破り、その上さらにここから持ち去ろうとしている。それならば相応の覚悟があるだろうね?」
「許してやる代わりに何かをよこせということか」
いくら何でも意訳しすぎだろう! とカナリアは心の中で突っ込みを入れる。
確かに話の流れではそれっぽくもとれないこともないが、この場合は命、あるいは魂を差し出すだけの覚悟があるかと問われているのだと思う。
そう、この人はおそらく・・・・。
「今流行の等価交換というやつだよ」
女は本気で盗賊的な発想の言葉を口にした。
この人は「もしかして」って思ったけどカナリアには自信がなくなった。
「灰は置いていく」
「足りないね。上の子供を持っていくつもりなのだろう?」
「ならば言葉を」
「私を口説くなんて十年早い」
「シェラン王が守っていた竜王の言葉を」
ぴくり、と女の表情が動く。
「・・・それはお前達が命がけで集めていたものだろう?」
「欠けた言葉では間に合わない」
「五つのうち一つは回収に失敗し、もう一つは行方知れず。まさか王が生まれてもいなかったシェリル王女に言葉を託しているとは思っていなかったんだね。回収を待っていれば蝕の日には間に合わない。そのために言葉を使うことは諦めた。・・・私に説明させるとはいい度胸をしている」
「・・・・」
女は立ち上がって男の方に手をかざした。
「いいだろう。かの者は好きにするといい。ただし、私の民に手を出したならば目的を果たす前に朽ちることを覚悟しておく事だね」
彼女の手がぼんやりと光を帯びた。
アナナスの喉元が同じ光を帯びる。ゆっくりと球体が生まれ、彼女の手のひらに吸い寄せられるように消える。
「感謝を」
言い残して、アナナスは踵を返す。
灰を落とした緑の髪はやはり生きていることを感じさせない動きで霧の中に消えた。カナリアはぼんやりとその様子を眺める。
何故か、涙がこぼれた。
さて、と女が呟く。
「お前のことは、どうしたものかね」
「・・・・」
「半分は別の血を流すとはいえ、使命に逆らい生きるのは苦痛だろう。精神が蝕まれるような力を持ちながら正気を保つのはさすがシェラン王家の血を引く者というところか」
「・・・・何故」
「ここは私の場所だと言っただろう? お前の持つ力と血は匂いで分かるよ」
「俺、そんなに臭くねーよ」
「随分と余裕があるようだね。元来ならばお前も招かれざる者として裁かれるべきなのだが・・・」
彼女はちらりと遠くを見やる。
霧の向こうに何か見えているかのような素振りだった。
「?」
「私の血に連なる者がお前の幸せを祈っている。だから私はお前を裁くことはしない」
「血に連なる者?」
女は自分の目尻を伸ばして細い目を作る。
「こーんな目をした老人だ。あれで世の中が見えているのかね」
その容姿に合致する人は一人しか知らない。
「・・・・ルースが?」
大好きな若様に顔が似ているからというだけで?
カナリアは複雑な気持ちになる。彼とは仕事のために旅をしただけだ。キスはしたけれど、それ以上の関係はない。あ、いや、キス自体も言葉を移すだけで別に好意あってのものではなかったはずだ。
そんな彼が何故自分の幸せを祈るのだろう。
「彼はお前に感謝をしているのだよ。だから私はお前に慈悲と赦しを与える」
ぼう、と彼女の手のひらが光った。
戦闘で傷ついた身体と腕がみるみるうちに回復していく。魔法で治されているのとは違う感覚だった。そう、元々回復能力の高いカナリアの体質がさらに加速されたかのような感覚。彼女の力で治したわけではなく、カナリア自信が本来持っている力を引き出したのだろう。
彼女の手から光の球体がこぼれる。
それは口から入り、喉に落ち、胃の腑に染みこんでいった。
言葉だった。
アナナスから彼女の手に渡った王の言葉だ。
それが、カナリアの中に染みこんでいった。
「・・・・どうして」
「それはシェラン王が持つべきもの。今の王が亡ければ、お前が持っていても構わないものだ。だが、ハーレルはまだ玉座にある。お前の手で返しに行くといい」
「・・・ひょっとして貰ったのはいいけど、ハーレルに返すべきだって気付いて、返しに向かうのが面倒だから俺に託す、とか?」
女は満面の笑みを浮かべる。
カナリアは身体を起こしながら溜息をつく。
あの人ではないかと見当付けたけれど、何か本当にこの人があの伝承の人なのか自信がない。ここの主を名乗り、霧の中で平気で力を使える人物と言ったらそのくらいしかいないのだろうと思うのだが。
カナリアは意を決して彼女を見る。
「言いたいことは色々あるけど、取り敢えず感謝します。・・・・ネセセア様」
女は否定も肯定もせずに笑った。
その後、カナリアは気を失ったままのゼルを連れてトーアの街に戻った。相変わらず霧は深かったものの、何故かどの道を進んで良いのかが彼にはよく分かった。それはおそらく、彼女が与えた赦しなのだろう。
戻った彼はマリンからラネルが緑色の髪の男にさらわれた事を聞かされる。それは彼女とアナナスの会話から予測が付いたことだった。
だが、もう一つの事実は彼に衝撃を与えた。それはラネルが男にさらわれた後に飛んできたアンナの伝書鳩が伝えてきたという。
レバンが襲撃に遭い、エリアードが連れ去られた。
Story5に 続く




