睡蓮(2)
二話 どこまでも深く
頭の奥で流れるメロディ。
異国の歌。
何と歌っているのか分からない。
けれど、その歌声を覚えている。
優しい、女の人の歌声。
どこかで覚えている。
懐かしい曲。
深く、深く落ちていくような歌。
泣きたくなるほど優しく儚い。
どこで聞いたのだろうか?
ずっと昔?
まだ自分が幼かった頃?
歌っていたのは?
どこで、聞いた?
歌っていたのは、誰?
ごそり、と何かが動く気配を感じて彼女は目を覚ました。
すぐに武器を手に取ったのはこの職業に就いてから身に付いた癖だった。
警戒する。
自分が誰かを狙うように自分を狙う者もまたいるからだ。
死ぬわけにはいかない。
まだ護るべき物がある。
「起きているかい、姉さん」
呼びかけられて、彼女はほっと胸をなで下ろす。
自分を狙ってきた奴ではない。馴染みの「つなぎ屋」の男だった。
彼女はドア近くに鎌を置いて僅かに彼の姿が見える位に戸を開く。
彼はハギと呼ばれている。茶髪に碧眼の男。三十代くらいだろうか。柔和な顔立ちをし、とてもそんな職業に就いているようにはみえな。それが彼の武器なのだろう。彼は国にも認められている仲介屋が切り捨てた仕事を斡旋することを生業としている。
見た目は優しそうに見えるがなかなか侮れない。しかし、シュリーにとっては信頼できる数少ない人間だった。
「何の用ですの、ハギ」
「ん、姉さんに手紙。急ぎだと悪いんで届けに来た」
「それはご苦労様。・・・二通あるわね」
受け取って、彼女は彼を見上げる。
「一通はこの宿のオヤジについでだからって頼まれた。何でも黒髪の男があんたにって持ってきたらしいよ」
「黒髪の、男?」
彼女は訝しげに封書を見る。
一通は蓮の花の紋章で封緘されているものだった。
それは弟が自分だと示すために使うもの。アス帝国の南の方へ留学してから年に一度くらい届く手紙だ。
彼女は封筒を爪先で破り中を取り出す。
弟の神経質そうな文字で「もうすぐシェランに帰る」とだけ書かれていた。それ以外の記述はない。
数ヶ月ぶりの手紙だというのに酷く簡単な内容だが、それは彼らしいことだ。
「何か良いことでも?」
「ええ、弟がこちらに戻ってきますの」
「へぇ、あんたに弟なんかいたんだ?」
「可愛いもんじゃありませんよ。頭の出来はよろしいですけど、小生意気で憎たらしい弟ですわよ」
ハギはくすりと笑う。
「仲がいいんだなぁ」
「ええ、二人きりで生きてきましたからね」
シュリーは笑う。
ただ一人の肉親。今は、夢の為に違う土地にいる。離れて暮らしているけれど片時も忘れる事はなかった。
両親を殺され、住み慣れた場所を追い出されるように逃げてきて、その時握っていたのは幼い弟の手。長時間歩き続けても、空腹でも、泣き言一つ言わなかった弟。
弟が留学をしたいと言い出すまで、彼女たちは二人で生きてきた。
彼女自身もまだ幼かったし、辛い事の方が多く、何度も死のうと思ったけれど、幼い弟の寝顔を見るたびに、それだけはすまいと何度も励まされた。きっと、支えていたのは自分ではなく弟の方だったのだろう。
弟を守るという使命感が彼女に全てを忘れさせていた。
辛いことも、悲しみも。
だから彼がいなくなった時、蘇ってきた感情は、復讐心。
それから犯罪者を‘狩る’のを止め、民衆を煽り目立つやり方で王侯貴族達を殺してきた。
それは両親を殺した男と同じやり方。
そうしていればいずれ相手の方から接触してくるはずだと思ったのだ。
直感的に。
「で、そっちの手紙は誰から?」
問いかけられシュリーははっと顔を上げた。
「ああ、そうでしたわね」
「姉さんのいい人から?」
「そんな人、いませんわよ」
「へぇ、じゃあ俺にもチャンス有り、かな?」
にやりと面白そうに笑う彼は、明らかにからかっている様子だ。
「馬鹿なこと言っているんじゃありません」
ぴしゃりと言って彼女はもう一通の手紙に目を落とす。
一体誰からなのだろう。
黒髪の男と言われて心当たりがあるとすれば、遠くで微かに覚えているあの男。
彼女は封筒におかしな細工がされていないのを確かめてから注意深く封書を開いた。一般的に良く使われる上質とは言えない紙に癖を感じない無機質な文字が並ぶ。
内容を読んで背筋がざわめいた。
(・・・・これは)
内容としては簡単なものだった。
話をしたいことがあるから、指定した場所まで来て欲しいと。それだけの内容だ。しかし、そこに記されている名前は同業者のものだ。
(カナリア、ですって?)
会ったことはない。だが、彼女もその名を聞いたことがあった。レバン周辺で活動をする便利屋。同業者の間では「黒鳥」という二つ名で通っている男だ。二つ名のあるのは有能であるか、あるいは噂になるほど無能かのどちらか。
黒鳥は前者の方。
その黒鳥が何の目的で自分と接触しようとしているのだろうか。
(まさか、あの男が・・・?)
ぎゅっと彼女は手紙を握りしめた。
「どうしたんだい、姉さん?」
「あなた、カナリアという男を知っています?」
「黒鳥の? 俺は会ったこと無いけど、噂は良く聞くな。何でも金次第で人捜しから人殺しまでするって言う‘掃除屋’だよ。まさか、彼から?」
シュリーは頷く。
彼女の聞いていた噂と大差がない。
依頼の大小、難易に構わず依頼を請け、誰も手を付けないようなものまでこなすのが掃除屋だ。彼らは時には同業者の失敗の処理にさえ回る。規模の大きい仲介酒場になれば、常駐している掃除屋が何人かいるものだ。
おそらく彼はレバンどこかの酒場の‘掃除屋’なのだろう。
あの男だろうか。
あるいは関係者か。
どちらにしても、相手から接触を求めてきた以上、会うのが礼儀だ。
「気を付けてね、姉さん。酒場を介している便利屋達は、俺たちみたいなのを嫌っているから」
「分かっていますわ。・・・心配して下さってありがとう、ハギ」
 




