挿話 睡蓮(1)
(注意:この話は本編の7年ほど前の話です。本編未読の方でも分かるように書いてあります。コメディ要素はほぼ皆無ですのでご了承下さい)
覚えているのは、男の独特な剣の構え方。
まるで闇を落としたように深い黒髪。
一話 毀すには必要ない
今更後戻りなんか出来ないし、するつもりもない。
この職業を選んだ時点で、自らの手を汚すことは覚悟していた。もちろん、もう既に自分の手は血で汚れている。
多分、この職業に就く前から。
「・・・だから何とも思いませんの。残念ですけど」
そう言って彼女は真紅の髪を揺らして笑った。
貴族のような巻き髪を横に垂らし、凄艶に微笑む女は赤いドレスを着ている。手には長い柄の付いた巨大な鎌。
彼女はその鎌を大きく振り上げた。
どん、と鈍い音が響く。
壁は血色に染まり、鉄錆を含んだような濃い血の匂いが垂れ込める。ごろり、と転がった丸い塊は、人間の・・・
ぞんざいな手つきで彼女はそれを拾い上げ、手近にあったテーブルクロスでそれを包み込む。
真っ白なクロスに赤い染みが広がった。
「依頼完了」
視線を上げた女と戸口にたたずむ子供の視線とがかち合った。
十歳を少し超えた位の少女。崩れかけの髪は美しくよく手入れされている。着ている服は贅沢なもので、所々宝石があしらわれていた。
今まで汚いものを見たことのないというような純白の少女。
その目が怯えと侮蔑に揺れる。
彼女は左手で布包みを持ち、右手で得物を構えた。
びく、と少女の方が震える。
「選びなさい。ここで死ぬか、それとも一人で生き延びるか。あなたを守る父親はもういません」
少女は気圧されるように後退った。
女の瞳が少女を真っ直ぐに見据える。
一歩一歩震える足で後退し、やがて壁に行き着いた少女はやがて震える声で答える。
「・・・いや・・・死ぬのは・・・いや」
その声はか細い。
弱々しく、誰かに助けを求めるような声。
不快そうに眉を寄せた女は小さく頷いた。
「ならば殺しません。その代わり、その目で見て覚えておきなさい。あなたの父が何故殺されたのかを。それでも私が許せないと言うのでしたら、私を捜して殺しなさい。生を選んだあなたにはその権利があるのですから」
言い放ち、真紅の女は少女の前で膝を折る。
涙に濡れた少女の瞳が困惑したように震えた。
「・・・この顔と名前を覚えておきなさい。私の名前はシュリーです」
彼女は少女の鳩尾に当て身を喰らわす。
少女は目を見開き、そして気を失った。
シュリーは落ちていたナイフで少女の髪をぞんざいに切り、衣服を引き裂いた。
まるで、浮民の子供に見えるように。城主が慰みにするために連れてきた少女のように見えるように、出来るだけ汚れて見えるように。
この屋敷は既に民衆がなだれ込んできている。暴動が起き、城主側と民衆側とで争い多くの血が流れている。
このまま少女を放置しておけば彼女は殺されるだろう。
それだけ恨みが強く、また子供も平気で殺せるほどに民衆は興奮している。
ここまでしておけば、後々彼女が娘だと分かったとしても、すぐに殺されることはないだろう。後は、彼女次第だ。
少女は自分を憎むだろう。
どんな親でも親は親。簡単に殺されるつもりはないが、自分を憎んで殺しに来るのならばそれで良いし、負の感情でも生きる望みに繋がるのであれば自分が敵役になるのも厭わない。
復讐など、自己満足以外の何にもならないとしても、生きる力になるのなら彼女にはそれが必要なのだ。
自分がそうであるように。
そのために、殺された親の復讐のために、全てを捨てられるのであればこの少女も自分と同じように追いかけてくる。
シュリーはそのために全てを捨てて、全く別のものを手に入れた。
捨てられなかったのは自身の存在と、後一つだけ。
「・・・だって、他のものなんて必要ありませんもの」
一人ごちて、鎌に付いた血を振り払った。
※ ※ ※ ※
男は、深く思案を巡らせながら息を吐いた。
「真紅のシュリー、か」
夕暮れを過ぎた酒場の中は、様々な職業の人々でにぎわっている。街の人間はもちろん、旅人達も思い思いに酒を飲み交わしている。
カウンター席に座る彼は癖のある黒髪を半端に伸ばした年齢不詳の男だった。
長い前髪が顔の半分を覆っているせいで、まだ十代の青年のようにも、三十を過ぎ後数年もすれば老いを見せ始めるほどの年代にも見える。瞳は夜を連想させる蒼。
酒に浮かれた店内の中で、彼だけが異質な存在だった。
そのくせ、誰も彼のことを気にかける者はない。まるでそこには存在しないかのように彼は気配を殺していた。
初老を少し過ぎた位の店主は薫製肉を薄くスライスしながら彼の呟きに答える。
「ここ数年で一気に有名になりましたね。元々は犯罪人を中心に‘狩り’をしていたハンターです。年の頃は二十代半ば。この稼業に就く前の経歴は一切不明。容貌や言葉遣いからおそらくバーグ公国の中流階級以上の出身でしょう」
「マスター、会ったことは?」
「ありません。ですが、相当な美女と噂されていますよ」
「へぇ、美女ね」
彼はちらりと笑う。
「その美女が何でまた王侯貴族を殺して回っているんだろうな」
彼女が関わって殺された要人は両手両足の指を使っても数え切れない程いる。それを専門にした殺し屋であれば、この業界内で名が知られるというのは少なくない。だが、彼女の噂は、殺し屋はおろか便利屋にでさえ無関係なところにいる人間から出さえ聞ける。
それはよほど目立った行動をとっている証拠だ。
悪名高い王侯貴族を中心に、民衆を扇動して弑逆する。
「良くないでしょうね」
「ああ、良くないな」
彼は頷く。
彼女のしている事は危険なことだ。おそらく彼女が思っている以上に。
「依頼をしてもよろしいですか?」
マスターが言うと、男は頷く。
短いつきあいではない。
お互いに何をとまで言わなくとも分かっているのだ。
「ああ、どっちにしても誰かがやらなきゃいけないだろう」
目の前にあったグラスを空けて、彼は立ち上がる。
黒い衣服がまるでカラスの羽のようだ。
マスターは戦地に向かう武人を送り出すかのように恭しく頭を垂れる。
「お気を付けて、カナリア」




