19
でも、泣くわけにはいかない。
俯きたくもなくて、目が赤くなっているのを感じながらも、私も精いっぱい笑って言った。
「私、石田さんが萌優ちゃんって呼んでくれたのが、すごく嬉しかったです。だから――」
それ以上の言葉を言うと、涙が零れそうで言葉が詰まる。そんな私を察してか、石田さんは私の左手をとってギュッと握ると、ただ「ありがとう」ってもう一度言ってくれた。
ポーン
エレベーターの到着音がして、石田さんの手がパッと離れる。扉が開いて私が中に乗り込むのに、石田さんはエレベーターには乗らずにただ立っていた。
「石田さん?」
そう呼びかけると、俺は階段で行くよ、って笑いながら手を振っている。
それに戸惑いながらおどおどしていると
「ずっと俺は、萌優ちゃんって呼ぶから」
そう笑って言ってくれたから、もう何も言わずに頭を下げた。
扉が閉まった後、石田さんが居ない空間で涙がポタリと流れて床に落ちた。
今だけ、だから。今だけ少しの間だから――石田さんを想い浮かべて泣いても許される?
そう言い訳をすると、後から後から零れる涙が止まらなくて、エレベーターが止まるまで泣いた。
『完敗だ、俺』
私と石田さんが会えるようにセッティングした補佐に対して、石田さんはそう言っていた。でも私は――笑ってありがとうって言ってくれた石田さんも、補佐に負けてないって思った。
石田さんには言えないけれど、好きになってくれて本当にありがとうって、心から感謝したい気持ちでいっぱいだった。
「只今戻りましたっ」
涙を必死に拭いてガチャリとドアを開けると「遅い」と一喝。泣いていたのを誤魔化すようにぺろりと舌を出し、すみませんと言いながら扉を背にして立つ刻也さんに近づくと、腕を掴んで引き寄せられた。ぎゅうっと抱きしめられて、私の視界一面は彼のYシャツになる。
急激にドキドキしながら、目を閉じてその胸にもたれた。今一番会いたくなくて、でも一番会いたかった人。その人に包まれて、私の涙腺がまた刺激される。
「珈琲、お前のも買って来たか?」
「いえ、私のは……」
「買ってもらったな」
「う、いや、その、まぁ」
「だから買って来いって言ったのに」
アイツに借りが出来るだろ、なんてボソボソとムスッとした声でそう言う刻也さんに、フッと笑ってしまう。少し腕を緩めて私を見下ろすと、私の頬についていた涙を拭ってくれた。
「今日だけ、だからな」
「え?」
「俺以外の人間に泣かされて戻ってくるなんて、許さない」
そう言うと、こつんと額をぶつけられた。近すぎる距離に、また私の心臓は早鐘を打つ。
ココは会議室だって分かっているのに、離れたくない気持ちが強くなって彼の背に腕をまわしてギュッと抱きしめた。
「刻也さんなら、いいんですか?」
何と言っていいのか分からなくてそう尋ねると、フッと笑われた。
「萌優はやっぱり、男の事情を分かってない」
「え?」
「いや……変わるなよ、ずっと」
そのまま顔が近づいたと思ったら、彼の柔らかで温かい唇が私の唇に落ちてきた。優しく何度も触れるそれは、ただ心地よくて、止めて欲しくなくなる。
ガチャン
後ろ手に刻也さんがカギを掛けたことに驚いて閉じていた目を開くと、少しだけ唇を離して彼は言う。
「もう少しだけ」
後頭部に回された手が、短い私の髪の間に指が入り込むのを感じた。
――もっと触れたいのは、私だけじゃない?
同じ気持ちを持ってくれていることが嬉しくて、私の踵がゆっくりと上がる。より一層引き寄せられると、私たちのキスは少しだけ深みを増した。
――金曜日。
予定通り刻也さんの家にDVD鑑賞のためにお邪魔した。今まではDVDを観るため……だったけれど、今日ならデートって言えるのかな? なんて思いながらにやけてしまう。
それに今日は、初めて手料理をご馳走した。今まではキッチンを使わせてほしいと言えなくて、お弁当を買ってきたりデリバリーの注文をしていたけれど、彼女にしてもらった今なら、使いたいって言っても許されるかと思って申し出たら、照れながら喜んでくれた。
前に出した卵粥の時以降だし、晩御飯の方が料理作りました! って感じだから、食べてもらうのはとても緊張する。
「食べにくい」
食べてる姿をドキドキしながら見つめていたらそう言われて、慌てて目を逸らすと笑われた。笑いながら口に放り込んだご飯を「美味い」って言いながら食べてくれたことが嬉しくて、私の頬は上がりっぱなしだ。
一人暮らしを始めた当初、そんなにご飯のレパートリーはなかったけれど、例の彼がご飯を美味しいと言ってくれたのをきっかけに、料理をするのが好きになった。嫌な思い出ばかりが募っていたけれど、身になったこともあったんだと気づく。
過去のいろんなことは、無駄なことばかりでもなかったんだなって思うと、なんとなく過去の失態を消化できた気がした。
1人目の彼のことも――ずっと嫌な思い出として残っていたけれど、軽々しい女にならずに済んだと思えば、案外良かったのかもしれない。
人間単純なもので、マイナスだと思えば思うほどマイナスに感じてしまうけれど、私の隣で笑ってくれる刻也さんを見ていると、マイナスは決してマイナスばかりでもないのではと考えるようになった。
物事を別の側面から見ると、考え方も価値も変わるってすごく不思議だって思えるようになった。




