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「戻りました」
鍵を補佐のデスクに置きながらそう言って、顔も見ずにそそくさと自分のデスクに戻った。
私だって……今は、補佐の目を見る自信、ナイ。
抱きしめたくなるなんて言われて、今は上司以外の何者でもないって分かっていても、その目を見つめることが出来るほど大胆な人間じゃない。
さっき補佐から言われた一言一句が脳内を駆け巡ってしまっていて、心臓が小躍りしちゃってるから補佐を見つめたら倒れるかもしれない。
雑念を振り切って、早く終わらせなくちゃって思いながら仕事をしていたら、集中しすぎていた。
「江藤」
私を呼ぶ声に顔を上げると、なぜか少し固い表情の補佐。見渡すと総務課には私と補佐しか残っていなかった。
「あ、すみません。もう終わります」
カタカタカタッ
最後の入力を終えて、パソコンの電源を落とし、ロッカーから鞄を取って慌てて出る。
「先、下行ってろ」
先ほどより少しだけ固さを崩した表情で、私にそう告げて補佐は総務課に鍵を掛けた。恐らく、鍵を保管庫に返してから駐車場に来るんだろう。
私はぺこっと頭を下げて、言われた通り下に――補佐の車があるだろう場所へと向かった。
いつも車なわけじゃないみたいだけど……今日は車だったんだ。なんてことを考えながら車の傍に立ってると「待たせた」って言いながら補佐が走ってきた。
それだけですごく温かい気持ちになる。今日はだって――悪い話じゃないんだよね?
嬉しくてにやけてしまいそうな口元を隠して俯くと、くしゃっと頭を撫でられた。
「行くぞ」
どこへとも、何とも言わずに補佐は車に乗れと促したから、私は黙って助手席に乗り込む。たったそれだけのことだけど、ここ数週間の暗い毎日が一気に吹き飛んで、私はもう幸せだって思った。
久しぶりに補佐の隣に座るのは、ドキドキしすぎて心臓が痛くて窓の外を見ていた。
答え合わせをしよう……ってことは、恐らくどこかで食事するとか、補佐の家かな? なんて心躍らせながら。
それなのに……
「うち?」
車が到着したのは、私の住んでいるマンションの前。もしかして、私の家で話し合いの予定だったのだろうか?
補佐が相手の都合も聞かずに人の家に上がろうとするなんて、意外だな――なんて考えは、随分あさっての方向を向いていたようだ。
「江藤。10分だ」
「え?」
「泊まる準備して10分で出て来い」
「はい!?」
「ほら、時間ないぞ」
無理矢理シートベルトを外され、肩を押されてしまい慌て気味に車外に出た。
――ちょ、ちょちょっと待って? 泊りって何?
混乱する頭を整理できないまま駆け足で家へ入る。
よく分からないけれど、着替えてる時間もないだろうと思い、宿泊セットを持ち出して大き目の鞄に放り込み、寝間着と明日の服だけ適当に上から突っ込んだ。
「ヤバいっ、あと1分くらい!?」
よく分からない10分という制限時間に駆り立てられて、私は慌てて自分の家を飛び出した。
「お、お待たせっ、しましたっ。ハァッ、ハァッ」
小さな家の中とは言え、ドタバタと慌ただしく走り回ったせいで息切れしながら助手席に乗り込んだ。
「悪いな急がせて」
悪いとは思っていなさそうな声でそう言って、少し苦みを含んだ笑顔を補佐は浮かべた。
行先は……? と不安に思っていたら、今度は補佐の家に到着した。
――なぁんだ、補佐の家に行くんだ。……って、補佐の家!?
私のお泊りセットはどこで使うの!?
頭の中がさらにごった煮状態になって、クワンクワンと回っている気がする。
車から降りると補佐が無言でスタスタ歩いていくから、突っ込みたいことはいっぱいあるのに、何一つ言葉に出来ないまま追いかけているうちに補佐の家の前に立っていた。
玄関の扉を前にして一息吐いた補佐は扉を見つめたまま、背後に立つ私に最後通牒だとばかりに一言突きつける。
「戻るなら、今にしてくれ」
「え……?」
一体、どういう意味なんだろう?
もしかして、会社での話はやっぱり嘘だってこと?
理解が及ばず混乱しているのに、補佐は私が理解することを望んでいないようだった。
「いや、戻らせる気なんてないけどな。悪いな江藤」
「えっと……」
「逃がさない、そう言ってるんだよ」
そう言いながら、補佐は鍵を鍵穴に差し込んだ。私はただどう反応したらいいのか分からなくて、何の言葉も出てこない。ただ、会社でのことは嘘じゃないんだってことと、私はもう――覚悟を決めるしかないみたいだってことは分かった。
「家に入ったら……お前の上司である肩書は捨てるからな」
「どういう意味、ですか?」
補佐の背を見つめても、扉を見つめたまま私を振り向きもしない。
でもカラカラ乾いていく喉のせいか、それ以上の質問が口から出てくることを許してくれない。
「いや。いいよ分からなくて」
そう言って補佐は、鍵をゆっくりと捻ってドアロックを解除した。言われた言葉の意味が分からなくてドキドキが増していく。心臓がおかしな動きを取り過ぎていて、今日一日で寿命がどんどん縮まってるような気さえする。
ゆっくりと開かれる扉。
それがやけにゆっくりで、その扉が開かれることが怖くなるほどにスローモーションに見える。
怖くなって後じさりそうになる足。
逃げ出しそうな私の気持ちに気づいたかのようなタイミングで「どうぞ」と促された。
上司の肩書を捨てる――その意味がいまだ掴みきれないまま、3週間前飛び出したこの場所にそろりと足を踏み入れる。
そこは全く変わっていなくて、私が最後に見たのと同じ補佐の家。
まるで別世界にでも連れて行かれるような心地がしていたけれど、来たのは以前と変わらない補佐の家であることに少しだけ安堵してふっと力を抜いた瞬間、ガチャリと扉が施錠された音が響いた。直後、ふわりと風が揺らめいたと思ったら……私の腕が引っ張られて、自分の体が空を切っていた。
え……?
と思った時にはもう、力強くて温かな腕に閉じ込められていて、私は息も出来なくなった。
私の大好きな人の香りと、その人についたタバコの香りが鼻孔をくすぐって、目の前に広がるYシャツにようやく抱きしめられているって理解できた。
けれど、こんなこと人生でされた記憶がない。
逃げ出せないほど強く、私の存在を力いっぱいその腕で感じるかのように体に巻き付いた腕。すっぽりと収まったその中は、温かいけれどたまらなくドキドキして、おかしくなりそうだ。
そんな私の耳元に補佐の唇が近づいてきたかと思ったら―――
「好きだ」
って、ただ一言。
私の大好きな……スッと耳の奥まで届く深い声で、補佐がそう囁いた。




