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「もう諦めますから、これ以上言わないでください!」
「諦めるのは止めてくれ!」
私が叫ぶように返事をしたと同時に、補佐も大声で言葉を発した。
…………え?
……あれ?
私、聞き間違い――?
気持ちが高ぶり過ぎてぼろぼろ零れる涙。でもそれを拭うことも出来ない程、握りしめたままの手。
顔を上げると補佐の手も扉についたまま握りこまれていて、ギュッと力が入っていた。
「え、と……あの、え?」
言われた意味が理解できなくて、私は混乱しながら扉を見つめた。そしてそんな私を見かねてか、補佐は小さく息を吸ってから、もう一度私に同じ言葉を告げた。
「俺を諦めるのは止めてくれ、江藤」
切なさを滲ませて、補佐の口から深みのあるかすれた声がそう言った。それは一体、どういう意味なんだろうか。
「え、あの、だって。迷惑なんじゃ……困らせたり、とか」
混乱し過ぎて、上手く言葉が出てこない。でも思ってたことがグルグル回って、自分でも無意識にぽろぽろと零れた。
「江藤、違うだろ? 本当はお前、他の奴と付き合うことにしたんだろ?」
「……へ?」
「でも、止めてくれないか」
さらに一歩詰められて、私の背後に立つ補佐。近づいた温もりと香りに、ドキドキするのが止まらない。
「いや、あの、補佐? 私」
「頼む。お前だけは失いたくないっ」
「補佐っ、ちが……っ」
耐えられなくて振り返ろうとしたけれど、扉についていたはずの補佐の手が伸びてきて、私の両肩に乗せられていた。その手が強く私を振り返るのを押しとどめる。
「顔、見せてください」
「ダメだ。こっち見るな。俺は、まだ――上司だから」
「それってどういう」「お前と目が合ったら、抱きしめてしまう」
――は……、なん、て……!?
混乱し過ぎて、頭がショートしそうになる。補佐の漏らす言葉一つ一つが、よく分からなくなってきた。
「どこにも行くなって言いそうになる。だから……こっち向くな」
「えと、えーと。だって、私って、迷惑なんじゃ……」
ここ1時間、自分を責めて、ひたすら落ち込んでいた私には補佐の言葉一つ一つが全く掴めずにいる。
抱きしめたくなるって何?
どこにも行くなって、誰が?
ただ一つ分かるのは。今私の後ろで、私を捕えて離さない人が――上司である課長補佐じゃなくて。
私が求めて止まない、永友刻也その人だってことだ。
それに不慣れな私は、激しい鼓動に耐えられなくて、顔がどんどん熱くなる。
「……俺は、そんなこと言った覚えはない」
「だって、止めろって」
「言った。けど、撤回する」
「私、諦められなくて、だから、わたし。ど、していいか、分かんなく、てっ!」
混乱と同時に引っ込んだはずの涙がまた零れだした。しゃくり上げるのを必死で押さえながら、言葉を紡ぐ。零れる涙を拭う余裕なんてないほど混乱中の私に、右肩から手が離れて濡れた頬を拭われた。
大きな手が、私を包んで温かい。
触れてくれなくて切なかった温もりが、今、私に触れてくれた。
それだけでまた、涙が零れ落ちた。
「江藤……俺が逃げてばかりだったせいで、傷つけて悪かった。俺はお前が居なくなったら、困る。でも今は……これ以上のことは言えない」
「補、佐……」
いろんな思いがこみ上げてきて、補佐と呼ぶ以上の言葉が出てこない。
今はってどういうことなんだろうか。考え出したらまた余計に落ち込みそうで、苦しくなる。
折角拭ってくれた涙が零れそうで、それを必死で止めた。
「江藤」
「はい」
「今日、会社終わったら、お前の時間を俺にくれるか?」
優しく、耳の奥深くまで響くようにゆっくりと言われた。
――お前の時間を俺にくれるか?
そんなの、いつでもどうぞだ。私の時間、全部補佐に費やしてもいい。
「はいっ」
補佐には見えないだろうけど。まだ目尻は濡れたままだけれど……私は多分、最高の笑みを浮かべて返事をした。
「俺とお前の答え合わせ、しよう」
そう言って補佐は、両手を私から離すと「もうしばらくしてから来い」って、私の頭をクシャリと撫でて、目も合わせずに会議室を先に出て行った。




