41
どれもに一喜一憂してしまうことも。
頑張りたいのに、どうやって頑張ったらいいのか分からないことも。
全部がぐちゃぐちゃになってきて、逃げたくなってきてた。
もし、もしも今。
戦う以外のコマンドが用意されていて、そこに『逃げる』があるんだとしたら。私は逃げるという道を選んで、戦いをずっと避け続けたいかもしれない。そう思ってしまう程度には、限界を感じていた。
大きすぎる想いは、自分自身で支えきれずに……倒れかけていて、もう立ち向かえる気力を失いかけていた。
「お待たせ萌優ちゃん。何飲む?」
久しぶりに来た喫煙場所でもあるそこで、自販機の前に立った石田さんはふわっと笑って私に問いかけてくれた。
「あ、い、いやっ。自分で買いますから!」
特に買うつもりはなかったけれど、とりあえず少しだけポケットに小銭を持ったままだったので、慌てて取り出そうとした。けれど取り出した手をやんわりと押しのけられる。
「いいのいいの! 俺のために時間取らせたし……あ、カフェオレとか飲む?」
さり気に飲み物まで決めて尋ねる石田さん。一見騒がしい人だけど、石田さんは気配りのできる優しい人だなってやっぱり思った。
「じゃあ、ご馳走になります」
小銭をポケットに戻して手を合わせてお願いすると、温かな笑顔を向けてカップに注がれたカフェオレを渡してくれた。
飲み物を手にした私たちは、いつかの時を彷彿させるような位置で座った。
灰皿の隣。
その場所は、前に私がここに来た時には補佐が座った。それを思い出すだけでも、ズキズキと胸が痛む。切ない瞳で私を見つめた補佐が思い出されて、私はきゅっとカップを持つ手に力を入れた。
――違う。彼は石田さん。補佐じゃ、ない。
自分自身を脳内で言い含めて、落ち着かせるようにカフェオレを飲んだ。
「それで……話、なんだけど」
私が一人で過去の補佐と戦っていたら、隣から石田さんの声が聞こえた。
「うぁっ、はい」
慌てて返事をして隣を見ると、なぜかハニかんだ様子の石田さん。その表情に、逆に私の方が恥ずかしさを感じてしまいそうだった。
「時間ないから手短に話すけど……彼氏とか、いないって言ってたでしょ?」
「え、と……はい」
「じゃあ、好きな奴とかいる?」
何の前ふりもなく始まった話題に戸惑いを感じて顔を上げると、バチリと視線が絡んだ。それを外したい、と瞬時に思った。それなのに、逸らすことは憚られるほどの強い視線。
その強さに怯んで、でもあまりの強さに少しずつ視線をずらして答えた。
「それ、は……」
嘘でも『いない』なんて言えなくて、躊躇した。
好きで好きで、たまらなく抱きしめてあげたい人がいるんです、なんて。そんなこと言えない。本音を言うことが恥ずかしいこともあるし、こんな場所だし……何と言っても、想い人が上司だったりする。
それに……さっきあんなこと考えてたくせに、逃げ道があるなら逃げたいとか思っていたくせに、そんな意識が全然持てない。頭にあるのはただ、補佐が――永友刻也が好きって気持ちだけ。
石田さんの話の終点は、現時点では見えないけれど……本当に逃げるつもりなら、好きな人なんていないって言えばいいはずなんだ。それなのに私の目には、補佐以外の人なんて全く映らない。
今、石田さんとこんな話をしていてドキドキしてる。
でもそれは――石田さんから告白とかされるんじゃないか、なんていう限りなく勝手な妄想のせいではない。こんな状況なのに、私の心を占めて止まない補佐のことを思い出してばかりだからだ。
「萌優ちゃん……?」
あまりに返事をしないまま無言だった私に業を煮やしたのか、はたまた心配したのか。俯いたまま動かなかった頭をゆっくりあげると、不安げに瞳を揺らす石田さんが目に入った。
「あ、えと、その」
答えたいのに言えなくて。どうしていいのかと焦る私。もしイエスと答えたら、誰と聞かれて嘘をつく自信が、ナイ。
「もしかして、いとこって奴?」
「い、いとこ!?」
全く想像もしてなかった切り返しに、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
いとこって、何!? ……って、私が言ったんだ!
金曜日一緒に居たのはいとこだって。
ここで嘘つけないどころか、思いっきり端から嘘ついてるじゃん私!!
青ざめた顔をして視線をキョロキョロと彷徨わせる。まさか過去についた中途半端な嘘のせいで、今になって焦ると思わなかった。
「えと、いや、あのいとこ、とかじゃなくて……」
「そうなの? それじゃ他の人とか?」
「いや、あの……」
「あのさ」
まだしどろもどろの私に、少しずつ瞳に力を取り戻した石田さんが、ちょっとだけ強めの口調で私の言葉を止めた。
「相手が俺にならないかな……なんて、期待抱いたりしたらダメ?」
「は……」
「えと、だからさ」
歯切れ悪そうに、恥ずかしそうに、でも意を決して言葉にしよう……そんな感じで口を開いた石田さん。だから私もぐっと拳を握りこんで、口を結んだ。
石田さんの言葉を聞く覚悟を決めようって、そう思った。
けれどその瞬間――遠くから階段を駆け下りてくる音が響いてきて、その靴音がどんどんと近づいて大きな音になり……目の前まで走ってきた靴音を鳴らす人が止まったかと思ったら「江藤」ってハァハァと肩で息をつきながら、私の好きな深くて通る声を掠らせて、名前を呼んだ。




