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決意はした、けど……現実はそんなに甘くない。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
思い立ったからと言って何かすぐに解決できるわけでは当然なくて、上司と部下の関係を崩すことなど勿論出来ない。そもそも平社員の私と課長補佐では、とてつもない距離があるのだ。物理的なものではなくて、なんというか……心の距離と言うか、階級的距離と言うか。
たまたま、偶然にその距離が縮まっていたけれど、本来なら一日数回の会話で終了するほどの関係なのだ。同じ部署だから話すことはあっても、本来補佐がすることと私が担っている業務はまるで違う。
それを裏付けるかのように、最近は主任や係長の仕事が落ち着いたせいか、それとも補佐が避けているせいなのかは分からないけれど……補佐が直接、私に仕事を頼むこともなくなってしまった。からかわれ続けた会社妻なんてあだ名もすっかり消えてしまうほど、私と補佐の間には距離が出来ていた。
一歩踏み出すってどうすればいいんだろう?
デスクからチラリと補佐を見ては思ってしまう。仕事で頑張ったり、何かアピールできることがあればいいのに……と思っても、何もない。
だから、そんな私にようやく声がかかった時、嬉しさのあまり飛び跳ねてしまいそうだった。
「江藤、ちょっといいか?」
「はいっ!」
まるで、待て、が終わった犬みたいに元気よく返事をしてしまう。もしかしたら瞳も輝いていたかもしれない。
「ククッ、お前は元気だな」
少し口角を上げて笑む補佐。
その表情が、江藤が元気になって良かった、とでも言っているようで、急激に気持ちが落ち込んで胸が痛んだ。
「あ、……す、すみません」
そんな補佐を前にして、急激にトーンダウンして私は頭を下げた。
急に変化した私を見て補佐は訝しんでいたけれど、特に気に留めた様子もなく仕事の内容について話し始める。
「今度の会議のことで何点か頼みたいことがある」
つらつらと語られる仕事の話。
今まではどうしてこんなに仕事があるの!? って、泣きそうになりながら補佐からだされる指示を聞いていた。でも今は――例え仕事のことだけでも、補佐が普通に話しかけてくれて、それで私に仕事をさせてくれることが嬉しい。
私に向かって話しかけてくれることだけでも、嬉しかった。内容が仕事のことだけだとしても……
「それから、会議室のセッティングは金曜日の夕方にするから、それまでに準備頼む」
「分かりました」
資料を見ながら私にあれこれ指示を出していた補佐が、私の返事を聞いて顔を上げた。私を射るようにじっと見つめる瞳が熱くて、思わず目を逸らしたくなる。
――どうして? どうしてそんな風に見つめるの?
逸らしたいのに、だけど逸らせなくて私もジッと見つめ返す。数秒経った頃「江藤」って、スッと耳に馴染む声で名前を呼ばれた。
「はい」
私もただそれだけ返事をする。ただ仕事の話を、誰もが居る職場でしているだけなのに……補佐以外の声も雑音も耳に届かなくて、補佐の声だけが私の耳に響く。
「あ……いや、なんでもない。悪かった」
絡んで逸らせなくなっていた視線を、悪かったと言いながら解かれ、私の胸はギュッと痛くなる。逸らせずに困っていたくせに、逸らされると堪らなく苦しかった。
「……いえ」
補佐の様子が明らかにおかしいと思ったけれど、それだけしか私には言えない。余計に口を開くと、自分でも何を言い出してしまうのか怖かった。
「あー、そうだ。コレ」
「え?」
コレと言う前に、引き出しを開けて小さな袋を取り出した補佐は、何かを掴むと手をスッと前に突き出した。それに戸惑いながら補佐を見ると、小さく頷かれ、おずおずと左手をさし出す。
「長井から、お前の分もって預かったんだ」
「え……?」
「貰ってやってくれ」
差し出した私の手にその小さな袋を乗せると、補佐の指先が私の手に触れた。それだけでもドキドキして止まらないのに、そのまま補佐の指がゆっくりと折られて……きゅっと指先だけで私の手を握りしめる。そのことにびっくりして、思わず目を見開いた。
私に補佐が触れるのは久しぶりだ。
それも明らかに仕事外のことで。
加速する心臓の音が止まらなくて、ドクドク鳴ってるのが耳に聞こえる気がする。そのくらいドキドキして止まないのに、その手はパッと呆気なく解かれた。
「悪い。戻ってくれ」
はい、とも何とも声にならなくて、私はただ無言で頭を下げると足早に補佐の元を去った。補佐の射るように見つめる目も、触れた指先も……私の名前を呼んだ声も。どれもが私を揺さぶるのに、それに意味を持たせてくれない補佐。
変な期待、させないで――
叫びたいほどの気持ちが湧いてくるのに、それでも少しだけ回復した今の関係も壊したくなくて、私は唇を噛みしめた。
自分の机に戻って、握りしめた指先をゆっくりと解すと、補佐から受け取った袋が顔を出す。
「……こんぺい、とう」
中身はお馴染みになりつつある金平糖。
袋の中でカラフルに光るそれが鮮やか過ぎて、なぜか私にはその輝きが痛かった。
 




