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――――――
気がついたときには、ベッドでただ泣いていた。
ぽとぽとと布団の上にシミを作っていくのは分かっているけれど、それを拭う気力も湧かずに、ただ流れるままだ。でも、どうやって帰ってきたのか分からない――なんてことはない。
ちゃんと家に着くまでどういう経路で返ってきたかも覚えているし、家の鍵を鞄から取り出して鍵穴に差し込んだことも記憶してる。でもそこからお風呂に入って、着替えてお水飲んで……それからベッドの上で三角座りして涙が流れるまでの経緯については曖昧。
ただもう気がついたらボロボロだった。顔も心も、何もかも。外界から遮断されて、なんの武装もしなくて良いんだって感じた瞬間、気が付いた時にはボロボロになってた。
この涙が、何の涙かなんて私にはよく分からない。ただ分かっていることは――補佐にとって、木橋恵さんとのことは全く過去になってなくて、まだ輝いたままの存在として補佐の中にあるっていう事実だけだ。そこに私が入れるのかなんて想像することもままならない。
でもそれが悲しいのか悔しいのか、どうでもいいのかなんてことも分からない。もう一つ言えることは、だからと言って補佐に対する気持ちが全く無くなってないこと。
いろんなことがいっぺんに起きると人間もショートするんだな、なんて他人事のような感想が浮かんで時計を見るともう夜の7時だった。補佐の家を飛び出したのが、遅くとも2時だったとして……そこから5時間の記憶が曖昧だ。
何か食べたいという欲もなくて、立ち上がって何かしたいという意思も持てない。けど、涙は出尽くしたからただ座ってるだけは苦痛になってしまった。それなのに動けない。
初めてのことに戸惑いながら、ぼんやりとカーテンを閉めていない窓を見ると、さっきつけた家の明かりに反射して瞼の腫れた酷い顔の自分が写っていた。
「きったない顔」
フッと自分の顔に笑ってしまって訳もなく口角が上がると、面白くもなんともないけれど少しだけ気持ちが浮上した。
目、冷やさなくちゃ……
立ち上がる気力なんて湧かないけれど、明日こんな顔で会社に行ったら補佐がどう思うかと想像したらこのままにするわけにもいかないって思った。どうしてこんなになってまだ、浮かぶのが補佐のことなんだろう。自分でも馬鹿だなって笑ってしまう。
私は勢いよくベッドから立ち上がった。冷蔵庫に向かって歩くうちに、昔真子にもらったアイマスクを冷蔵庫に冷やしたままだったことを思い出す。目が疲れてる……なんて感じたこともない私は、貰ったままに放ったらかしだったけれど、今こそ役立つ時かもと思いながら冷蔵庫の奥底に眠らせたままだったアイマスクを引っ張り出した。
「つっめたー」
早速ベッドに寝転がってアイマスクを付けると冷たさにギュッと目を閉じた。ラベンダーのいい香りが漂ってきて、リラクゼーション効果を感じる。真子が折角くれたのに、蔑にしたまんまで悪かったな――なんてどうでもいいことを思っていたら静寂を切り裂く音が鳴り響いた。
「携帯……」
多分、リビングに放りっぱなしになってる鞄の中に入ったままの携帯電話。今リラックス中なのに、電話を取りに立ち上がることがとてつもなく面倒くさい。今日くらい無視したって罰もあたらないでしょ?
それに――ガッツリふられた私に、これ以上の厄災も起きようがないって自虐的に思う自分もいた。
だから無視を決め込んだんだけど……
「しつこっっ」
鳴り止まない携帯電話に根負けして、渋々立ち上がった。立ち上がってしまえば、今度は急いで取らなくちゃと思うのが人間だったりする。もしかして補佐なんじゃないか? なんて馬鹿な期待まで湧いてきてしまった。
一度湧いてしまった期待は消せるはずもなくって、そうなると1秒でも早くと、気持ちが急いてくる。慌てて鞄を漁り、携帯電話の液晶画面を見る一瞬前になって気づく。
もしこれが補佐だったとして、私は何を言えばいいんだろうか――なんてことを。
言いたいことも、聞きたいことも、今は全く何もない。むしろ顔を合わせることも声を聴くことも、どれも怖い。ギュッと目を瞑ったけれど、その一瞬で鳴り止むこともない携帯電話を意を決して見てみると、私はほっとして受話ボタンを押した。
「萌優、今いい?」
それは昨日と全く変わらない優しさを孕んだ、今はドS降臨中ではない様子の八重子先輩からの電話だった。
「せん、ぱ……」
一人で泣いたままだった私は、上手く声が出せずに『ぱ』の言葉で声が掠ってしまう。でも私の声を気に留めた様子もない八重子先輩は「あんた今、家に居る?」って続けた。
「は、い。居ます、けど」
「ん、了解」
ツーツー……
――ん!? 切れました!? なんで!?
意味不明だと思って液晶画面を見るも、明らかにそこは待ち受け画面に切り替わっていて、どうやら八重子先輩との通信が絶たれたのは、間違いではないようだった。
――なんだったんだろう、一体。
と思った直後、着信音よりは優しめの音色が室内に広がった。
ピンポーン、ピンポーン
明らかに、ドアベルが鳴っている。
「まさか、ね?」
ベルの音にビクッと震えながら玄関の方に視線を向ける。
けれど今の不細工な顔を理解しているからこそ、誰とも見当がつかない相手のために立ち上がれない。
 




