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「江藤……ごめん、な」
そう言って補佐は少しだけ私の方に体を寄せると、手を伸ばして私の手を掴んで拳を開かせた。折角補佐から置いた距離も、呆気なく縮められて私は止めていた涙が零れそうになる。うっと言うのを堪えながら、補佐に握られた手を睨むように見つめた。
「手、痛めるから。握りこむな」
私の手を引き寄せると、補佐の右手に繋がれた私の左手がキュッと包まれる。大きな手が私を包んで、温かくてその温かさが余計に涙を誘った。
「痛みを与えるなら、俺にしろ」
どうしてなんだろう。
この人のこういうところが、カッコよくて……また好きになる。いっそ嫌いになれたらいいのに。さっきの話で、思い切り幻滅してしまえばいいのに。そうさせてくれないこの人が、好きすぎて嫌いだ。
それなのに握りしめられた手が解けなくて、そんな自分が情けない。情けないけれど、私はやっぱりこの人に恋をするしかないのかって、そんな風に想ってばかりだった。
「じゃあ、補佐の手を潰すくらい握りますね」
泣きそうな顔を無理やり歪めて笑いながら言うと、補佐は温かみのある笑い声をあげて「いいよ、江藤なら」なんて言った。その言い方があまりにも優しくて、私は流れ落ちそうな涙を止めるのが辛い。
「続き、どうぞ」
泣きそうなのを誤魔化すように補佐の言葉を受け流すと、それを気にも留めずまた過去の話が再開された。
「あぁ、そうだな」
言葉を紡ぎながら、ぎゅっと手に力を込められる。それだけで、温もりはより一層近くなった。
けれどそれに反比例して、心の距離は遠くなっていくような、そんな気持ちに蝕まれ始めた。
「ぎこちないまま季節が流れて、俺たちが3回生の冬を迎えたころ、アイツは信じられないことを言い始めた。アメリカ行くって」
「アメリカ……ですか?」
「そう。秋の旅行者の少ない時期を狙って行ったアメリカの舞台で、強烈に影響されたみたいでさ。卒業待たずに行くって言い出した」
「すごい、ですね」
「そうだな」
補佐は相槌を打ちながら、私の手を握る。抱きしめてはあげられない。
けれどその分、この手だけでも――私は、この時初めて補佐の手を力を込めて握り返した。
軋む胸の痛みと同じ強さで。
「誰が止めても聞かなくて、アイツが旅立つ話は着々と決まった。恵が居なくなる、そう思うと俺は居てもたってもいられなくなって、もう一度告白しようと決意した」
遅すぎると言われて振られた補佐が、もう一度告白するってどれだけの想いだったんだろうか。恵さんへの深い思いが話からも伝わって、いっそ右から左に言葉が流れていけばいいのにと望むのに、私の気持ちとは裏腹に一言一句すり抜けていかずに私の脳に補佐の言葉が積もる。
「行くなって。俺はお前に居てほしいって。演劇はここでも出来るから、遠くへ行くなって。いろんな言葉を並べ立ててアイツを説得した。ただ俺は見ているだけだとしても、それでも恵に居てほしかったんだ」
見ているだけでもいいから――そのフレーズがまた胸を突き刺す。
握りしめられた手が私の涙腺を刺激するけれど、それでも涙は出なかった。ただ、補佐の気持ちが痛いほどに手を伝って流れてきて、苦しくて呼吸がまともに出来ない気がする。
「もう一度恵の隣に居たい、そう言うとアイツは薄く笑って言ったんだ……『あなたをおもうたびにいちばんじかに永遠をかんじる』って、智恵子抄の一説なんだけど、知ってる? って」
「それって……」
「あぁ。あいつに言われた言葉なんだ」
なんて残酷なんだろう。補佐の苦笑いは、私の心を黒く塗りつぶして、真っ黒に染め上げた。
補佐が世迷言のようにつぶやく永遠と言う言葉が、彼女の言葉だというだけで苦しくて悔しくて痛い。繋がれた手に力が込められなくなって抜け落ちそうになったのに、補佐がそれを止めたから、私の手は離れずに補佐に繋がったままだった。
もう離してほしいのに……それすらも叶えてくれないこの人は、あまりにも意地悪で、卑怯者で――それでも私は嫌いになれない。わずかの力で繋がるそれを、振りほどくことすらできない。
それほど私は臆病で、補佐の気づかぬうちに心も身体も補佐に支配されていた。
「『私には、あなたとの永遠が見えないから無理。そして、私の永遠はここにはないから』って言われて……当時の俺にはさっぱり意味が分からない言葉を吐いて行った。それを最後に、恵には一度も会ってない」
「じゃあ、今は全く……」
「アイツのことは知らない。でも結婚して、離婚したって噂には聞いたけど、な」
最後の言葉に苦い顔をして、補佐は空いた手でカップを持って冷めきったコーヒーを一口飲む。もう美味しくないそれを口につけることで、まるで自分にバツを与えているかのように見えた。
それはもう、ただ私が勝手にそう受け取っただけなんだろうけど――
「そんなことを聞いてさ。あいつが求めた永遠ってなんだったのかと思って。馬鹿なことをした償いじゃなくて……ただ、納得させたいんだ。自分を」
「自分を?」
「俺を振り切ってアメリカに行って、結婚したのに離婚した恵の……求めてた永遠ってなんだろうかって。それが分かったら、恵のこともそうだけど――」
そこまで言って言葉を切った補佐をじっと見る。そんな私の視線を逸らすことなく、補佐はじっと受け止めてくれた。
 




