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「でもね」
八重子先輩が私に何かフォローを入れようとしてくれたその時、
「もっぷちゃん」
封印したいあだ名を思い切り当たり前に呼びつける声が頭上からした。
久しぶりに聞くそのあだ名に、一瞬顔が引きつりそうになりながらそろりと顔を上げると、そこには補佐の隣で座っていたはずの長井さんが立っていた。
「長井さん……お久しぶり、です」
柔らかく優しく微笑んでいるけれど、少し焦った表情の長井さんが私を見下ろしている。トキ兄が好きだった私は、いつも隣にいた彼のこともちゃんと覚えていた。だからって私のことをもっぷちゃんと呼ぶのはいただけないけれど。
「あ、そうか。久しぶりだね。でもごめん、それどころじゃなくて。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、来てくれる?」
「あ、はいっ」
長井さんが一体私に何の用があるのかと疑問に思いながら、八重子先輩と真子に断って私は席を立った。
「多分、君に任せるのがいいと思うから」
意味深な言葉をポツリと落とされて、長井さんの向かう先を見つめると……そこには信じがたい光景があった。
「補佐……!!」
この場ではあまり大きな声で補佐って呼ばないようにしようって気を付けていたけれど、この姿を見てしまったらそんな配慮もどこかに吹き飛んでしまっていた。
「補佐、補佐っ。大丈夫ですか!?」
一瞬で駆け寄ってさっきまで長井さんが占拠していた場所に座ると、補佐と呼んで肩を小さく揺すった。私が焦って声をかけるその人は……額をテーブルにくっ付けて突っ伏している。さっきまでちゃんと起きていたし、談笑していたはずだ。それがこうなっているんだから、何がどうなったの!? とパニックになるのも無理はないと思う。
軽く揺さぶるものの全く動かない彼に、私は顔を青くした。
「動かさない方がいいと思うよ」
「……え?」
「ちょっと酔ってるだけだと思うし」
「どうして!?」
背後から聞こえる声が長井さんだと分かりつつも、敬語もかなぐり捨てて声を荒げてしまう。けれどそんな私の態度を気にした様子もなく、長井さんは平然と恐ろしいことを言ってのけた。
「水だと思って一気に飲んだのが焼酎だったみたいでさ」
「はぁ!?」
返ってきた言葉に呆れて口が塞がらない。補佐を見下ろすと、依然くったりしたまま動く気配がない。私は額に手を当てると、堪らずにはぁ……とため息を吐いていた。
どうすればいいかなんて、誰が見ても明らかだ。そしてさっき長井さんの言った言葉が脳裏に蘇ってくる。
――君に任せるのがいい、……多分そういうことでしょ?
「連れて帰ります」
「悪いね。俺も家に帰んなきゃいけないし」
全然悪いと思ってない表情で長井さんは綺麗なウインクを私に送ってくれた。あんなに綺麗なウインク初めて見ちゃったよ、なんてどうでもいい感想を持つほどのウインクを。
一先ず突っ伏したままの補佐はどうしようもないのでそのままにして、私は自分の荷物を取りに席に戻った。
「八重子先輩、真子。ごめん、私帰るね」
「「え?」」
戻った私が突然帰ると言い出したので、二人は驚いて私を見上げた。
「補佐が……あー、と。トキ兄が、ちょっと倒れちゃって」
「はぁ? トキ兄が倒れたぁ?」
素っ頓狂な声を上げて八重子さんがそう言った。
気持ちはよく分かる。私だって叫びそうだった。いや、知らないうちに叫んでいたに違いない。
「ちょっと調子が悪いみたいだから、家まで送ってきます」
あえて、焼酎を間違って一気に飲んだから倒れてしまったという事実は伏せておいた。みんなのトキ兄なのにかっこ悪いとこは言いたくない、なんて勝手に思っただけなんだけど。
「そっか……萌優」
「はい」
頷いた後、鋭い視線で私を呼ぶ八重子先輩。なんとなく、次に出てくる言葉が怖くて構えてしまう。
「あんた、大丈夫なの?」
ただそう尋ねられ、私はびくりと勝手に体が震えた。
何に対しての問いかけかは分からない。だけど、感覚的に尋ねられている気がした。
補佐と……トキ兄と帰ることじゃなくて、もっと私の気持ちとか、そんな言葉にできないいろんなことを含めた何か。
「……大丈夫」
だけど私はそう言って、ぎこちなく笑った。
「そ、か。分かった」
私の大丈夫に意味がないように、先輩の返事についても何が分かったのか分からない。
でも、きっと――何かが、私と先輩の間では伝わった気がした。
「萌優」
「ん?」
柔らかい声で私を呼ぶ真子に顔を向ける。
「私は、あんたの味方だから。一番に応援してるからね」
そう言って優しいウインクをしてくれた。今日はなんだかウインクオンパレードだな……なんて思いながらクスリと笑う。
そうだ、私にはこの二人が居る。やっぱり大丈夫だ。
さっきより気持ちがほぐれると、ぎこちなさの取れた笑みを浮かべてありがとうと言った。
二人はきっと分かってる。補佐の……トキ兄の過去がなんだろうと、私の気持ちが変わることがないことを。そして、傷つくのが分かっていても、もう私を止められないだろうことも。
恋は盲目だと言うけれど……私は自分で盲目になっていることに気が付きながら、自分の目を塞いだ。初めての恋を、捨てずに温める決意をした。
例えそれが実らなくても――それでもいいから、捨てずに心の中で温め続けると。




