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永遠に触れたくて  作者: 桜倉ちひろ
転:絡まる恋
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 ―――――


 近くの居酒屋で18時半から開始と連絡が来た金曜日の朝。

 やっぱり中止、なんてことないかなって思っていたけれど、どうやらそんな事態は起きなかったらしい。行きたくないわけじゃないけど、どうしてもまだ引きずる想いがあって素直に乗り切れない。

 ……何て思っていたら駄目だよね。

 いつもの調子で元気に行かなくちゃ、そう思いながら一日中出来るだけ何も考えないようにして仕事を続けた。

 けれど補佐と話をするのが気まずくて、昨日あれからあまり話をしていない。

 今日も、特に質問したりすることもなくて、届いた書類を渡した程度で後は目も合わせずに一日を過ごしていた。このまま今日は補佐と話すこともないのかもしれない、そんな思いを脳の片隅で感じながら、その想いを振り切る勢いで集中して仕事をしていたら、横から名前を呼ばれた。

 「江藤」

 顔を上げなくたってすぐに分かる、補佐の声。少し低めで、でも低すぎずにすっと通るこの声が私はやっぱり好きだ。

 なんてことを改めて感じながら、キーボードに乗せたままの手を止めて横を向くと、案の定補佐が私の横に立っていて私を見下ろしていた。

 「はい、なんでしょうか」

 「今日、飲み会じゃなかったのか? 仕事、急ぎじゃないなら終われよ」

 ……一体、どういうことなんだろうか?

 私のことを追い出したいのかな?

 ここのところ、金曜日は他の人が帰る頃に退社していた。

 それは補佐と一緒に帰っていたからなんだけれど……ほら、出来れば誤解されたくもないし、人目が無い方が良いかなっていうのもあったりして。忙しかったという事情もそこには勿論あったけれど。今日は特別に急ぐ仕事はない。

 確かに終わろうと思えばいつでも終われるし、飲み会なんだから終わっていいぞっていう配慮は有難い気もする。

 けれど、わざわざ上司からそんなこと言うモノ?

 今まで補佐からそんなこと一度も言われたことが無いし、私はどう答えていいものか戸惑いながらまた、はい、とだけ返事をした。

 顔を上げると、まだ補佐は私を見つめていて、その表情からは何か読み取れないもどかしいものを感じる。何だろう、何を言いたいんだろう?

 すっかり仕事上のことだったら分かると思っていたのに、昨日から補佐のことが全然わからない。

 プライベートかと思ったら仕事のことを言うし、今だって仕事の話かと思ったのにプライベートな話題を持ち込んでいる。

 補佐は私に何を言いたいんだろう?

 読み取れなくてさらにジッと瞳の奥を覗き込む気持ちで見つめると、補佐はなぜか目を逸らした。

 ――補佐、どうしたの?

 って心の中で問いかけたその時。すっと何かがデスクの上に差し出された。

 「登録、しとけ」

 ぶっきらぼうなその言い方は、補佐の時にはしない。素のトキ兄な感じの補佐だ。

 トキ兄な感じって言うのも変だけれど、私にとって補佐は補佐であってもうトキ兄じゃないから、そんな微妙な表現しか出来なくなっている。でも、そんな素の部分をこんな場所で見せられるとドキリとして心臓が跳ねる。ドキドキしたまま、補佐から視線を外してデスクに置かれたモノを視界に入れた。

 四角い黄色の紙は、普段使っている付箋紙でペタリと貼りつけられているようだ。ぺりっと剥がして手のひらに取って見ると、明らかに携帯の電話番号とアドレスだった。

 「……え?」

 驚きのあまり見上げると補佐の手が私の前髪辺りを押さえつけて、顔を上げさせてくれない。

 ガクッと俯かされたまま、渡された付箋を見つめていたら「何かあったら、いつでも連絡しろ」って頭に向かって言われた。

 直後に離れる手の重み。慌てて顔を上げたけれど、補佐はもう私に背を向けて歩き出していた。

 その背を見て、ぎゅーっと胸が痛くなる。もう一度手の中の付箋を見て、私は潰さないようにそれを握りしめて足をバタバタさせた。

 仕事を一緒にし始めて数ヶ月。

 個人的に電話でやりとりなんてしたこともないし、困ったこともない。でも私にこうやって個人情報を提示してくれたことはやっぱり嬉しい。

 今まで何度かアドレス聞きたいなって思ったことはある。けれどその度に聞けるほどの理由が見つからなくて、尋ねないままになっていた。だから補佐から教えてもらえたことが素直に嬉しい。

 けど……なんで今日?

 補佐の真意が分からない。

 『何かあったら連絡しろ』って言った意味はどこにあるんだろう?

 気になることはいっぱいある。けれどどれ一つ怖くて聞けない。でも、聞かなくても分かることが一つだけある。

 補佐が、少しずつ私にプライベートも委ねてくれているという事実だ。

 まだ補佐にとって、もっぷちゃんでもいい。少しでも、補佐との距離が近づいているならそれでいい。そう考えて切なくなる。

 ツキンと痛む胸を抑えてフルフルと頭を振りながら、一瞬浮かんだ悲しい気持ちを振り落とす。

 私と補佐は遠い見知らぬ他人じゃない。部下としても大事にしてもらっているんだから、それより欲をかいちゃ駄目だ。そう言い聞かせてからもう一度個人情報の書かれた付箋を見て、にやにやした。

 ――やっぱり今は素直に嬉しいかも

 どことなくそわそわしながらパソコンの電源を落としてロッカールームへと急ぐと、焦る気持ちを抑えながら携帯電話を取り出した。

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