27
このまま隣に座っていたいような、でもこれ以上一緒にいるのが怖いような……そんな釈然としない心のまま、気が付けば家の前に到着していた。
静かに停車すると、補佐は淡々と「着いたぞ。遅くなって悪かったな」と言った。こう言われてしまえば、私に残された選択肢は帰宅の一つしかない。
それは分かってる。
分かっているけれど、もう今この場を離れたら二度と補佐ではないトキ兄には会えない気がして、鞄をギュウッと握りしめた。
「江藤?」
黙ってしまった私を訝しむように覗き込んできた補佐に気が付いて、私は気持ちを切り替えて慌てて顔を上げる。
本心なんて、この人にバレるわけにはいかない。私にだってまだ、分からないんだから……
「ほ、ほんとですよ! すっごく遅くなっちゃいました。……なんて嘘、です。えと……本当に今日は、有難う、ございました」
勢いつけて、明るく冗談を言ったけれど、やっぱり寂しい気持ちが隠せなくて、たどたどしくお礼の言葉を付けた。
座りながら横向きに頭を下げると、見えるのはサイドレバーだけ。だけど、それすらも補佐の車のモノだと思うとギュっと胸が痛む気がした。もう見ることは、無いと思うから――
顔を上げると、月の光で逆光になっている補佐と目があった気がした……けれど、その表情がこちらからは見えない。何か感情を隠されているような気がして、私は戸惑う。
スッと横に視線を移すと、目に入ったデジタル時計が0時30分を指していることに気が付き、日を跨いでしまった、なんてぼんやり思っていたら大事なことを思いだして慌てて私はまた頭を下げた。
「あのっ、海人さんのこと! その……すみません、でした。と、有難うございました」
なんだか車から降りるのを引き延ばしているような気もするけれど、それでもこれだけはちゃんと言っておかなくてはならない。
私がトキ兄がO型なんてことを言わなければ、補佐は午後から休暇を取る必要もなければ、こうやって私を送って夜中に外出することもなかったはずだ。そりゃあ補佐が引き留めたから遅くなったんだけれど、きっと私も引き留めて欲しそうな顔をしていたんだと思う。
今日のことすべてが私のせいとは言えないけれど、少なくとも私が深く考えずに発した言葉によって、補佐が振り回されたコトは事実。急遽、有休取ってもらうだなんて本来あり得ない事態なだけに、申し訳なかったなって思う。もっと真田君に状況を聞いていれば、私だって安易に輸血が必要だなんて考えなかったかもしれない。
そんな反省を頭を下げながらしていたら、不意に頭にドンと重たいものが乗った。もう何度目か分からないその「重いモノ」が私は何かを知っている。
「ぅわっ! ほ、補佐!?」
重いけれど、コレが乗せられるときは悪い時じゃない。
温かくて、私の頭をすっぽりと納めてしまうその手は、私の気持ちを絶対に引っ張り上げてくれるものだ。
「それは、お前の謝ることじゃない」
低くて重い、そして深い声音でそう言われて私はギュッと胸を抑える。
トクトクと心臓が早鐘を打って、静かな車内に響きそうだ。
「……でも」
補佐ならそう言うだろう、そう思っていたけれど私はやっぱり少し罪悪感を持っていてただ謝りたかった。けれど、そんな私の気持ちを受け止めるだけの補佐じゃない、ってことを私は分かっていなかった。乗せられた手がスッと表面を滑って優しく髪が撫でつけられる。
私の髪の毛が、補佐の指の間に通るのを感じてびくりと震えた。
「俺にとって海人は大事な後輩だ。いざと言う時に声を掛けてもらえて良かった」
「でも、仕事が」
「でもじゃない」
顔を上げて思い切り否定の言葉を口にした瞬間、撫でつけていたはずの手が額にベちりと飛んできた。その手は退けられることが無いまま、私の視界を覆い隠す。
「ま、悪かったと思うなら来週空けとけ」
「……え?」
言われた意味が分からなくて混乱するのに、補佐の顔が見えなくて余計に困惑する。両手で掴んで補佐の顔を見ると、緩く口端が弧を描くのが見えた。
「お前が悪いと思ってるなら、来週も舞台鑑賞につきあえよ」
「えっと、それって……」
「プティキャラ、続きまだあるからな。俺一人だと観ないし。だからお前が来週も付き合えよ」
そう言うと掴んでいた私の手を払って、補佐の指先が私の頬を辿った。
「っ――!?」
突然触れた指先が、あまりにも熱い気がして顔に血が上る。
逆光で見えないと思っていた補佐の顔が近づいて、私の顔に影が出来た。逆光ではなくなって見えた補佐の顔はあまりにも切なげで、私の心臓が激しくまた音を立てる。
「いいな?」
否は受け付けない、と断定の言葉を吐きながら瞳までもが笑っていない。
その顔に引き込まれそうになって、ひゅっと息を飲んだ。私の瞳の先には、ただ補佐の眼しか映らない。レンズ越しのそれは、とても遠いように感じていたはずなのに、今は堪らなく近くて……それが嬉しくて、でも怖かった。
まるで、私たちの何かが崩れてしまうようで――
「は……い」
返事をしても逸らされず絡む視線が熱い。それをどうしたらいいのか分からなくて、ただジッと見返しているとようやくふいと反らされた。
同時に頬に少しだけ触れていた指先が、スッと離れる。
また逆光に戻った補佐の顔は、もうどんな表情を浮かべているのか分からなかった。




