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何もかも信じられない気持ちでいっぱいで、私の口は半開きで固まったまま声も出ない。
差し出したスプーンの先を見つめたま動かない私に気付いてか、はたまた気付かないままなのか「ちょっと外すわ」と軽く言って補佐は外に出て行った。どうやらタバコらしく、ジャケットから煙草とライターだけ抜き取って行ったようだ。
会社では吸ってるの見たことないけど……そういえば吸ってたなぁって、昔のことを思い出す。
少し離れた喫煙スペースにいる補佐を目で追うと、煙草に火をつけてそれを銜える姿が見えた。どこか遠くを見つめながら煙を吐き出す姿を見て、過去の残像とカチリ合うのを感じる。
――あ、やっぱりトキ兄なんだ……
今さらながらの事実を思い出すと、また急にそわそわと落ち着かなくなってきてパッと視線をチョコケーキとチーズケーキに戻す。
だって、トキ兄はずっと会いたくてたまらなくて、私の初恋の人には違いないから。今さら上司だって言われて、どうしていいのか戸惑う気持ちを隠せない。ケーキを見つめながらそんなことをモヤモヤ考えて、でもこれって……と、恐るべき事実に気が付く。
二十歳過ぎて言うのも恥ずかしいけれど、あれだよね。
間接、何チャラって言う、ね?
補佐が……トキ兄があんなことするから、同じスプーンで食べることがものすごく恥ずかしくなる。
でも今さら新しいスプーンに変えるのも嫌らしいよね? とか葛藤を繰り広げた末に、思い切って目を閉じたままカプッとチョコケーキを掬って食べた。
食べる度に思い出すのは、補佐の大きな手に包まれた感触と温かさ。
すっかり味は分からなくなったケーキを残念に思いながらも、手の温もりと包まれた感覚が忘れられないと思っているうちに、気が付けば全部食べ終えていた。初恋の人であり、尊敬する上司がまさか同一人物だなんて――私はどうしたらいいんだろう……
「ごちそうさまでした」
補佐が戻ってきたのと同じころ合掌して食事の終了を告げた。
でもケーキのお皿はあまり見れないし、補佐の顔を見るのも恥ずかしくて顔を上げられない。
そんな風にもじもじしている私を余所に、補佐はいつの間にか呼出しボタンを押してお会計をしていた。店員さんから伝票を渡されて立ち上がると、さっさと会計に歩いていくのを私は慌てて追いかけた。
「どうした?」
追いかけて、会計に伝票を出す寸前で私が補佐の持つ伝票に手をかけると、ひょいと眉をあげて怪訝そうな顔で尋ねられた。でも、それくらいで怯むようでは補佐の補助なんて毎日やっていられない。
「あの、私自分の食事代くらいは自分で」払います、そう言おうとしていた。けれど補佐はまた伝票で私の額をベちりと叩く。
「ここは奢られとけ」
たったその一言で私とのやりとりは終了。もう私の方には背を向けてさっさと会計に居る定員さんに、伝票を渡してお金を払っている。
ここで揉めるのは、補佐に恥をかかせることになるって社会人3年目にもなれば、それくらいは私にも分かる。お店を出てから改めて「ご馳走様でしたっ」と頭を下げると、またぐしゃぐしゃに乱すように頭を混ぜられた。
「ちょ、乱れるじゃないですか!」
「短いから大丈夫だ」
「ひどいっ」
そんな他愛もないやり取りをしつつも、私の気持ちは急上昇していって、少しでも触れられて嬉しい……なんて思ってしまっては、慌ててその想いを打ち消すのに躍起になった。
駄目なんだ、本当に。
仮にもしこれが恋だとしたって、絶対にうまくいかないから。
だから傷つくだけなんだから、ダメだって何度も自分に言い聞かせる。
もう、傷つくのは怖い。
堪らなく怖いから、だから。
もうこれ以上、私の心を乱さないでほしい――
そんな自分勝手で我儘なことを、隣で笑う上司を見つめながら、ほんの少し思っていた。
「それにしても海人のやつは……」
私が心の中で葛藤していると、すっかり陰に押しやられていた話題を補佐が振ってくれて、私もようやく気持ちを落ち着けることが出来た。
海人の奴は、と言いながらも声も表情も優しすぎですよ? って内心ツッコみながら「ふふっ、私今日、今年度初の有休ですよ」とおどけて言った。すると補佐もニヤリと笑って「俺もだ」と言う。
勿論お互いにそのことは知っている。知っていてあえてそれを口にすることが、細やかな海人さんへの虐めみたいな感じになって2人で目を合わせるとまた笑った。
海人先輩が事故に遭ったことは、事実で間違いのないことだった。
ただし、頭に衝撃はあったらしいけれど体はかすり傷程度で、奇跡的と言えるほどに海人さんはほぼ無傷であることを除けば、の話だ。
海人さんのために輸血騒ぎまでが起きる事態が発生して、私や補佐はもちろんのこと、真田君や八重子先輩といろんな人が振り回された。
まぁそのことは私も補佐も恨んでも居なければ、無事でよかったって気持ちが大きい。けれどつい海人さんを虐めてしまうのには理由がある。
それと言うのも、海人さんが事故をした直後に八重子先輩がちょうど電話かけたようで、その電話で海人さんが『事故って病院に運ばれる。もう死にそうだ』と言ったらしい。
その電話が切れた後、実際に救急車で運ばれ脳の検査などに入った海人さんは八重子先輩と音信不通。それでパニックになった先輩は、後輩である真田君に電話した。そしてそれを聞いた真田君が、最近見たテレビで輸血してくれる友人がすぐに集まってくれたおかげで助かっただとか何とかいうドキュメント番組を見たらしく、事故=輸血なんて言う信じられない方程式を安直にも思い描いたせいで私に電話を掛けてきた。
そうして話は大きく広がって以下略、現在に至る――となっている。
 




