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そして、息を吸い込んだ。
いよいよ、海人さんのことを聞けるんだ、って思ったのに思いっきりはぁーっとため息を吐かれる。
――え?
あまりに続きすぎる溜め息、それに不信感を募らせて先輩をじっと見つめると、あからさまに嫌な顔をして吐き捨てるように言った。
「ごめんね、マジで。あのクソ馬鹿のせいで」
鬼の形相、って言葉がしっくりきそうな程かつてない怖い顔をして、周囲の空気が冷えていくのを感じさせるほど低い声が先輩の口から聞こえてきた。
胸元辺りにまで掲げられた拳を見ると、かなり握り込んでいて爪が食い込んでいる気がする。その握りこまれた拳が、今にも壁を叩いて破壊しそうなほどで、ヒッ、と叫んでしまいそうになって慌てて口を塞いだ。
――海人さん、一体どうなってるの!?
と心の中で叫びながら予想できたのは、恐らく海人さんは危機的状況ではないんだろうっていうこと。そして、八重子先輩が物凄く怒っているのは、その海人さんが理由だってことだ。
――私、最悪の状況でこの人の傍にいんじゃないの?
真田君もいない。肝心の海人さんは多分大丈夫なんだろうけど、この場にはいない。
そしてその海人さん絡みで、一触即発ぐらいの域に達している八重子さん。普段はそこまでじゃないけれど、ブチ切れた八重子さんだけは半端なく怖い。
夏季合宿の時も鬼のようにキレたことがあって、私たち後輩の中には怖すぎて目も合わせられないと思っている子までいるほどだ。いや、ほんとはすっごく優しくてあったかい人だって私は知ってるんだけど……でも、とりあえず今は逃げだしたい!
そう思いながら目をキョロキョロさせて周囲を確認してみても、目に映るのは待合室のベンチのみ。
海人さんに会ったら絶対何か詫びを入れさせようって心に決めて、八重子さんの怒りを受け止める覚悟を決めて顔を上げたその時――
「釜田。待たせた!」
キュッキュっと廊下に音を立てながら、八重子さんを呼ぶ声が私の後方から聞こえてきた。
――救世主だ!!
そう思ったと同時に、私の頭の中に2つのことが浮かんだ。
一つはこの人はもしかしてトキ兄なんじゃないか? ということ。私がO型の血液型候補に挙げて、真田君は八重子さんに聞いてみるって言ってたから来てくれる可能性はある。
そしてもう一つがとても不思議で仕方ない。だって私、この声を知ってる気がする。
すごーくこの声を、聞いたことが……いや、聞いている気がするの。それも、毎日。
そしてその答えについて、私が振り向くよりも先に一つ解決した。
「トキ兄! 来てくれたんだっ」
目の前に立つ八重子先輩が、私の後方に向かって手をあげて振っている。その声はさっきのどす黒さを一気に吹き飛ばした感じで、とても元気で明るくなった気がした。
それにはっきりと『トキ兄』と言ったから、私の一つ目の疑問は解決した。
――うわ、本当にトキ兄来ちゃったんだ
もしかしたら会えるのかもしれないって期待が現実になって、まだ顔も見ていないのに心臓がバクバクし始める。それは、さっきまでの海人さんの安否が気になってた時のドキドキとは違っていて、トキ兄にもう一度会えるという喜びのドキドキだ。
言葉にはし難いいろんな想いがごちゃごちゃになって、すっかり海人さんのことなんて吹き飛んだ私は、ただただ後方から走ってくる存在に胸を躍らせながら、何かに祈るような気持ちで両手を合わせて握りしめた。走ってくる気配が近づいて、背後に立つのを感じる。
そうして私はゆっくりと身体を反転させて顔をあげると、その人を見て凍りついた。
「ほんと待たせた」
目の前に立つその人は、走ってきたのが分かるほどハァハァと息を吐いている。
額に少し汗を滲ませ、とても慌てて来たんだろうなって全身でそう言っているのが分かった。
年は30くらいで、キリリとした表情は仕事が出来そうな感じだ。着ているスーツ姿もしっくりきている。響く声が心地よくて、出てくる言葉は優しい。八重子さんを見つめる目も優しくて、でも不安を滲ませているのも十分に見て取れた。
すぐに分かる。この人の表情一つで、何を求めてるのか。何を考えているのか。
ほかの人よりはずっと、私はこの人のことをよく見つめ、毎日考えているから――
「補佐……どうして?」
凍りついた心臓がまた緩やかに鼓動を再開したかと思ったら、今度はまた激しく打ち始めた。
「萌優?」
目を見開いて呆然とする私に、横でこの状況を見ている先輩が不思議そうな声を上げた。
そしてそんな私たちを見ながら、目の前の人は合点がいったという表情で「やっぱりな」と納得の声を上げる。トキ兄と呼ばれたその人は、私の初恋の人で、今は私の上司である課長補佐。
永友刻也であるその人は、今私たちの目の前に立っていて、いつもとはどこか違う表情を私に見せていた。
「やっぱりって、どういうこ」「江藤、話は後だ。釜田、説明しろ。あいつはどうなってるんだ?」
私の話を遮って、補佐は話を八重子さんに尋ねた。
補佐が人の話を遮ることは珍しいけれど、状況から見て尤もだと納得した私は口を閉ざし、先ほどから気になっていた話題である海人先輩の安否についての答えを待った。
じっと八重子先輩を見つめる私と補佐の4つの目。
顔面を片手で覆いながら、先ほどと同じようにはぁーとため息を漏らして先輩はそれを受け止めた。




