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「総合市民病院。分かる?」
「分かる」
「俺、今から行くから」
「分かった。私、仕事片付けて出るからすぐじゃないけど、必ず行くから」
「頼む。……あっ」
切ろうとしたその時、真田君が電話を止めるような声を出した。
今すぐにでも走り出しそうな気持ちで、心が逸っている私はそれに対してついイライラしてしまう。
「何?」
自分でも随分感じが悪いなって思って、言った後に駄目だって反省してひと呼吸した。海人さんの事故と聞いて、気が動転しすぎている。
――落ち着かなきゃ
「もゆっぺ。他にO型の人知らね? この連絡八重子先輩から来たんだけど先輩はABなんだって。椎名さんと泰史さんはBらしくて、俺Aなんだよな」
演劇関係の面々の名前を上げられ、一人一人の顔を思い浮かべた。先輩達、Oじゃないのか……誰か、誰かO型っていないかな?
真田君に挙げられた面々の顔を思い浮かべた後、その他の人の顔を思い描いていく。そうして一人、ぱちりと思い当る人に気が付いた。
――あっ、いる!
「知ってる! でも、連絡先分かんないけど」
「何それどういうこと? っていうか誰?」
「トキ兄だよ、トキ兄!」
久しぶりに思いだしたその人のことを、ドキドキしながら思い浮かべて名前を口にした。
たった一度だけ。夏季合宿に来てくれた、大先輩のOB。
わずか3日しか一緒にいなかったけれど、私が今でもなお大事にしている初恋の人。真田君にとっては、うっすら遠い存在だろうけど、私にとっては今も鮮明なその人。
演劇仲間ばかりの名前を連ねられて、ついその中から必死に探した結果……今まですっかり封印していたはずのその名前を、無意識に近い状態で口にしていた。
「ときにい? ……あ、あぁあ! ときにいって、トキ兄か!? お前懐かしい名前出し過ぎじゃね?」
「いや、そうなんだけどさ。O型って聞いたことあるの、本人から。絶対合ってる。でも、あれから会ったこともないし、連絡先知らない」
当時中学生だった私は、携帯はおろかPHSすらも持っていなかった。それなのに、わずか3日その合宿で出会ったトキ兄のことを覚えてるだけでも凄い。でも真田君も思い出してくれたみたいで、私はホッとした。
だって8年前のこと――なんだ、もう。
「んー、八重子さんなら知ってる気がする。仲良いってどっかで聞いた気がするんだよな。じゃ、後でな」
「分かった!」
勢いよく返事をすると、今度こそ私達は同時に電話を切った。
……この時の私は、この私の発言が後々の自分の人生を大きく変えていくことなど気付きもしなかったけれど。
電話を切ってパーテ―ションから出た私は、午後からの休暇申請の準備をしてから、残りの資料作りに昼休み全てを投入した。ぶつくさ言いたくなるほど分厚い資料も、なんとか勢いで片付けられる気がする。とにかく早く行きたい一心で、電話からわずか30分後に仕事を片付けると、急ぎ足で補佐の前へと急いだ。
昼休み終了目前。補佐が自分の席に座っていてくれることに安堵して、そっと近づいて正面に立つ。
「休憩時間中にすみませんが、今よろしいですか?」
「あぁ」
手に文庫本を持ってじっと読んでいるのが伺えたけれど、それに申し訳なさを感じている余裕はない。すぐさまパタンと本を閉じてくれたことに感謝しつつすっと息を吸った。
目が合って少しドキリとする。
いつでもこっちの目を真っ直ぐと見つめる補佐に、何かを持って行かれそうになるのを必死で押さえながら、作り上げたばかりの資料を手渡した。
「先日頼まれていた資料、作成できました」
資料を受け取った補佐がすぐさまパラリと一瞥する。パラリ、パラリと捲る表情は真剣で、一番怖い時間だ。何かミスが見つかるのではないかと、緊張感がマックスになる。
けれど今はサッと見るだけで、細かく確認するようなことはしなかった。
「お疲れ様。助かったよ江藤」
少しだけ口角を上げて微笑まれ、それだけで達成感を感じる。
何気ない一言。
だけど、その一言を付けてくれる補佐が素敵だと思う。だって、助かった――なんて言われたら、次も頑張ろうって思えるでしょ?
――って、そんな感慨に浸ってる場合じゃなくて。
「あの、突然申し訳ないのですが」
「ん?」
「今から、休暇頂いてもよろしいですか」
おずおずとそう切り出すと、補佐が心底ビックリした顔で私を見上げた。
「どうした?」
普段滅多に動揺したりしない補佐が、かなり驚いている。私が休むっていうだけで、そんなに驚いてくれるのかって、そのことにこちらもびっくりしてしまうしちょっと嬉しく思ったりした。
でも、考えてみれば無理もないかもしれない。4月に総務課に異動してきて以降、私はずっと指定された休日だけしか休まず、元気に働き続けてきた。それが突然、今から休みたいなんて言われたら何事かと思うかもしれない。
なんて言おうか……そのことに一瞬詰まったけれど、この上司になら包み隠さず言った方が早いと思いなおす。だって補佐は、きちんと私の事情を受け止めてくれる人だから。
「友人が……事故に遭って大変な状態らしくて。お願いしますっ。今から行かせてください!」
ガバリと頭を下げてそうお願いする。
こんなに大声出したら目立つとか、補佐が悪者に思われたりするとか、そんなことに頭が回らず必死で言ってしまった。そのせいで昼休みに何事だ? って思いの視線が自然と周りから集まり、私は後からそれに気が付いて緊張する。




