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これをどうして置いてくれたのかと不思議に思って補佐を見上げると「やるよ」とだけ言って、最後にもう一つパシっと私の頭を叩いてから補佐は自分の席に戻って行った。
残されたのは――叩かれた頭に少しだけ残る補佐の手の感触と、苦いコーヒーと、甘い、こんぺいとう……私、ブラックなんて飲まないのに、なんて感想はお口チャック。
補佐が私に対してそんな配慮をしてくれたことがただ嬉しくて、小さくニヤけながら金平糖を一粒口の中で転がした。そして苦いコーヒーを一口流し込む。
「頑張ろうっと」
またにやけそうになる口元を両手で隠しながらにんまりする。ペちり、と両手で頬を叩いて気合を入れると、また分厚い資料に挑んだ。
そんな私を遠くから補佐が見ているとも知らずに、その日は一日、ブラックコーヒー片手にパソコンにへばりついていた。
――――――
そんなこんなで週末がやって来た。
残業したり、時には他の人に手伝ってもらったり、先輩に教えてもらったりしながら、私はなんとか補佐から頼まれたこの分厚い資料との格闘を終えられそうな状態に辿りついた。昼休憩の12時が来て10分経過した頃に、そろそろ昼ごはんに私もありつけそうだって思った矢先。珍しく携帯が着信を知らせていることに気がついた。
バイブレーションの震え方からして、メールじゃないことが明らかに分かり、パーテーションで仕切られた奥の総務課のロッカースペースへと逃げた私は、そこで受話ボタンを押した。
相手は珍しいことに、真田くん。
――どうしたの?
彼からのこんな時間の連絡があまりに不自然に思えて、何か良くないことを言われそうなそんな予感に、震えそうになる声を押さえながら口を開いた。
「もしもし」
シンプルにそう出た私に、真田君は焦った感じで、勢いよく喋り出した。
「もゆっぺ!? 俺、今いい?」
「う、うん」
あまりの勢いにたじろぎそうになりながら相槌を打つ。一体何をそんなに慌てているんだろうか?
真田君のその態度だけで、さらに不安を煽られる。
「もゆっぺ、Oだよな?」
「……へ?」
「だーっ! 血ぃ!! 血だよ、血!!」
「ち? あー血、ね。血液型とか言ってよ」
「んなこと言ってる場合じゃねえよ。で、Oだろ!?」
捲し立てるように話す真田君に、押されて私はもごもごと答えた。
「そ、うだけど」
すると状況についていけていない私を余所に、真田君はおかしなお願いを始めた。
「血ぃ、くれ! 頼む!!」
その言葉を聞きながら私は一体何事かと首を傾げた。
真田君とは中学からの知り合いで、所謂、演劇仲間だ。中学卒業後、仲良しメンバーで集まって地域の演劇の催しなどに参加したりしていた。一緒に劇団を組んでやってた劇団員の一人が真田くんだ。
真田君と知り合ったきっかけは、上煬帝中、下涼城中、そして私の通った中咲園中の合同夏季合宿。
昔から、この3校(単純にかみ中・なか中・しも中と呼ばれているけれど)で合同演劇夏季合宿というものを行っていて、大自然に囲まれた中2泊3日の演劇活動をする。
3校ごちゃまぜでチームを作り、それぞれのチームごとに作品作りをする。最終日にはそれを上演して、演劇を楽しむのが目的の活動だ。そこで偶然にも、私と2年連続同じチームになったのが真田君だった。
作品作りの最中にはケンカしたこともあったけれど、最初からウマの合った私達は卒業後演劇活動を続けて、今でも連絡を取り合っている仲だ。
残念なことに、私は短大を出てすぐに就職したのをきっかけに劇団を離れ、今はもう当時のメンバーは誰も活動していない。先輩一人が芸能界入りしたけれど、後はそれぞれ就職して、何となく疎遠になりつつあった。
そして連絡先は知っていて、ごくたまにとは言え連絡を取り合う真田君から電話があることはそこまで不自然ではない。ただ、勤務時間中に電話をしてくることなんて今までには当然なかったし、こんな意味不明なお願いをするような奴じゃないって私は分かってる。
だから怖いのだ。一体、どんな真実を隠しているのかって。
「真田君、血をどうするの?」
他人が横で電話聞いてたら一体何の話だ!? なんて思われるだろうな、とか思いながら小声で尋ねると、一呼吸分の間があってから真田君は観念したかのようにふぅと息を吐いた。
「悪い。最初から話すわ」
「うん」
「落ち着いて聞けよ」
「……うん」
二度の前置きに、心臓が嫌な鼓動の速さでドクドクというのを感じる。
それに目を背けるようにギュッと目を瞑ると、想像もしなかった事実を突きつけられた。
「海人さんが、事故ったって」
そう言われた瞬間、頭が真っ白になった。
海人さんが、事故――?
いっつもおちゃらけて、ニヤニヤしっぱなしの、あの、海人さんが?
「うそ」
「イヤ、マジで」
「……じゃあ、もしかして」
「うん、海人さんO型なんだけど、輸血いるかもしれないって。だから……」
「分かった。どこ行けばいい?」
指先が恐怖で震えるのを感じながら、しっかりしろ自分! と頭の片隅で叱咤する。
叱咤しながら、何を聞かなければいけないのか、これから自分がどう動くべきなのかを脳内で整理した。




