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「ヒック……」
刻也さんに抱きとめられながら、そんなつもりもなかったのに人前で泣いてしまっていた。
――どうしてこんなことになったんだろう。そう思うのに、涙が止まらなくなってきて、嗚咽にならないように必死で口元を両手で押さえる。
いきなり泣き始めた私に、萌優? と、少しだけ棘を抜いた声で私を呼ぶ声が聞こえたけれど……頭の中、いろんな言葉が、感情がぐるぐる取り巻いていて、返事なんて出来なくなっていた。
「あーあ。トキ兄のばーか」
という八重子先輩の声と。
「トキ兄意外とダメですね」
海人さんの声と。
「やっぱこの人嫌い」
爽やかに毒を吐く椎名先輩。
「今日のトキ兄は減点ですね」
冷たい声の真子に。
「トキ兄、あんま泣かさないでくださいよもゆっぺのことー」
唯一、場を和ませるように緩い声を上げる真田君。
そんな皆の声に、またぽろぽろと涙が零れる。
「――ゴメン」
少し置いてから、刻也さんがゴメンと囁く声が耳の奥深くに響いた。何からゴメンか、どれにゴメンかなんて分からないけど、泣きながらぎゅっと抱き着くと少し安心した。
どんなに憧れていて素敵な人でも……椎名先輩じゃない、この人が私はいいなって感じてまた涙が出てしまう。
「ゴメン」
さっきよりも情けないような、それでいて心の底から反省してるって声でそう言われながら頭を撫でてもらって、やっぱり泣けてきて止まらなくなった。
「ハイ。じゃあそろそろ帰ってくださいね?」
突然私たちの空気を壊す如く、パンッと手を叩いて立ち上がった八重子先輩が、私たちに――いや、正確には刻也さんにそう言った。
「あ、……え?」
「すぐ飛んできたから、まぁよしってことで」
「は?」
「ね、海人?」
八重子先輩が海人さんに尋ねると、にこやかな表情で海人さんがそれに許諾の意を示した。
……一体、どういうこと?
顔を上げて振り向いた私も、さっぱり訳が分からなくて首を傾げていると、私と同様に訝しげな表情を刻也さんも浮かべているのに気が付く。2人で目を見合わせてから、もう一度視線を先輩に移すと、にんまりと笑みを浮かべて毒を吐かれた。
「可愛い彼女泣かしといて、新年早々出かけたりするからよ」
立ち上がって私たちの前まで歩いて来ると、彼から私を引きはがして私の頭を撫でながら続けた。
「トキ兄の事情はあるんだろうけど、ただ泣いてる萌優、私は耐えられない。だから、ちゃんと連れて帰って話してください」
先輩の温かな手の平に、また涙腺が緩みそうになりながら八重子先輩を見つめる。どうしてこの人はこう……私のことを、こんなにも大事にしてくれるんだろう。そう気が付いたら、止まりかけた涙がじわりと込み上げてきて、また涙袋が熱くなる。
「萌優。我慢してばっかじゃダメよ」
ぎゅっと抱きしめてから私を離して、トンと背中を押される。その止めの一言に、声にならないままコクコクと頷くと、最後にドンっと力強く刻也さんに押し付けるように飛ばされた。
「ってわけでー、お帰り下さいませ」
「は?」
「トキ兄。これ以上いたら、萌優のこと椎名に取られますけどいいんですか?」
ニヤリと笑う八重子先輩に、それはないとブンブン頭を振る。けれどそんな私の意思は伝わらないのか、酷く態度の悪い声が頭上から聞こえてきた。
「帰る」
刻也さんは私の肩に手を回して、即断した。それは会社では見られることのない、自分の我儘を通しますって、ただただ駄々っ子のような言い草だった。
***
無言で手を掴まれたまま、慌てて靴を履いた私を見届けて。けれど私の様子を慮るでもなく自分の速度でそのまま刻也さんは歩きはじめた。それはいつもの彼には絶対にない態度で、だから余計に怖くて不安で何も言えない。掴まれた手は熱いのに、冬の寒さと二人の間の沈黙が冷たすぎて心がどんどん冷えていく気がした。
大通りに出て手を上げた刻也さんと私の前に、タクシーが早々に停まってくれて無言で見つめられて乗り込んだ。言われなくても、乗るんだってことくらい分かるけど。それでも一言くらい何か言ってほしいなって……そんなことを思うのは、我儘? それとも、今私の気持ちが揺れてるからそんな風に思うだけ?
不安な気持ちを隠せずに行先を告げる彼を見ながら、視線の合うことがないその瞳に悲しい気持ちで俯いた。私は、ずっと……あなたのことだけ待ってたのにな、なんて。
言ったら重いのだろうか?
そんなことをぐるぐると頭で考えて、それでも一言も漏らせずに新しいスカートの裾を握りしめて、唇を噛みしめ続けていた。
マンションに着いてからも、終始無言で手を掴まれたまま先ほど玄関前に辿りついた。がちゃがちゃと荒々しく鍵を開ける彼に複雑な思いが広がって、逃げ出したくなってくる。靴は脱いだけど、このまま私、上がってしまってそれでいいのだろうか。
いっそ……今、この手が離れてる間に、走って逃げてしまおうか?
汚い感情が一瞬脳裏を過った。けれど……
「入って」
足を一歩後ろに引くよりも先に、彼がドアを開けた方が早かった。――って、それは言い訳だ。
本当は逃げるつもりなんて微塵もなかったって思い知らされる。私は笑うことも出来ず、少し顔を歪ませて彼を見ずに扉を潜った。
バタン
背後で扉が閉まる音がして
ガチッ
ロックする音が聞こえると、閉じ込められた気がした。
逃げられない……って思った瞬間。
「もう、逃げられるかと思った」
不安そうに私の耳元で囁く彼に、抱きしめられていた。大きな腕で、暖かい温もりで、力いっぱいぎゅっと。
震えそうなその声に、私はなぜかまた涙が出てきた。
「に、逃げられ、ない、ですよぉっっ」
「ゴメン」
叫ぶような声で、ようやく心を吐露した私をさらにきつく抱きしめて、刻也さんは流れる涙を拭ってくれる。頬に触れる唇が冷たくて、だけど優しくて。私は一瞬でまた、彼に落ちた。
ずるい、酷い。
そう詰ってしまいたいのに、それが叶わない程に、私は彼が好きだと思った。
ボロボロの顔を見られたくなくて、両手で塞いだけれどそれはすぐに阻まれた。
「萌優こっち向いて」
体ごと反転させられそうになって、慌てて身体を固くする。首を振ってノーを訴えると、ため息の後に恐ろしい声が降って落ちてきた。
「お前が悪いからな」
何が、と答える間もないまま、私の身体は重力を無くした。ふわ、と何か体に感じ大変に、抱き上げられてしまったと遅れて気が付いて、堪らず叫ぶ。
「ひゃああっ」
突然の浮遊感に焦ったけれど、刻也さんは我関せず。腕の中の私を見下ろしもせず、目的を急くようにすぐに近くの部屋に入って、私の身体をどさりと下した。
柔らかなその上に身体が倒れた直後――
「どこにも行くな」
彼の唇が私の唇に重なった。
「ん……っ」
たった一日ぶりのキスが、やけに久しぶりな気がして戸惑う。
昨日もたくさん触れたはずの唇が、なんだかとても長い間触れてなかったみたいで、離れそうになった瞬間、無意識に追いかけてしまった。それに気が付いた彼の唇が、また私のところに戻ってきて、ギシリと音を立てて体をさらに沈められながら深さを増した口づけに変えられる。
「……ん、んっ」
息継ぎの隙間に漏れてしまった自分の声が恥ずかしくて、頬が朱に染まる。それに気が付かれてか、冷えた手の平が頬を包んで顔を正面に捉えられた。けれど冷たい手の平は少しずつぬるくなって、私の頬は少しずつまた温度を上昇させていく。
混濁する思考と、彼の重みに意識が遠のいて夢中でその行為に溺れていると、スルリと冷たかったはずの手が頬から離れて私のニットの裾に入って来たのに気が付いた。
「待っ……て、やっ」
慌てて手で体を突っぱねてそう言うと、彼はハッとして手を止め、私を見つめた。
「うやむやなままじゃ、やだぁ……」
子供っぽいなって自分でも思うくらいの言い方でそれだけ言うと、ぽたぽたとまた目じりから滴が垂れた。もう、それ以上の言葉が出てこなくて、ただぼろぼろと零れる涙を、がむしゃらに手のひらで拭う。
「うん」
彼は頷いてから私の手のひらを退けると、涙が零れる目尻にキスを落として、傷つけないようにとでも言わんばかりの優しさで、そっと親指の腹で瞼を撫でてくれた。
そうして何度か擦って、私の瞳から零れる滴が落ち着いた頃、ぽつりと告げられた。
「恵の話、してもいいか?」
昨日とは違った、スッキリした表情で私に尋ねる。その表情に私は安堵して小さく頷いた。
正直、彼の口からもたらされる彼女の名前を聞くのは耳が痛い。でもその話題を選んだのは自分で、それに向き合ってくれようとする彼に、水を差すことはしたくない。
きゅうっと手を握って、ゆっくり開いた手をそっと彼の顔に伸ばす。
「話して、下さい」
両手で頬に触れると、直に触れる体温が新鮮で少しだけ顔が綻んでしまった。そんな私を見つめる彼も、今までの固かった表情が少しだけ砕けて、小さく頷いた。
背中に手を添えて起こすと、私の正面に刻也さんが座る。ベッドの上で、ただ向かい合って、手を取り合って。それでも今この状態が、一番二人が繋がっている気がしてホッとした。
だって、その表情はやっぱり昨日と違ってすっきりしていて、私を見つめる瞳も優しげだから。
いや、いっつも優しいんだけど。それ以上の何かを、感じる気がした。
「会って、驚くくらい何も変わってなかったよ、アイツは」
「……」
「うーん、なんて言ったらいいんだろう。俺に会いたいって言ったのに、深い意味はないというか」
「え?」
「ただの旧友として元気かなーくらいの気持ちだったというか」
「は、はぁ……」
「ごめんな」
「いえ」
なんとなく気まずくなって、少しだけ合わない視線をどうしようかとキョロキョロする。言われてることの意味が、分かるような分からないような。
「まぁ……いつまでも過去好きだった女という認識のままで居たのは俺だけで、アイツにとっては単なる同級生になってたって話」
「なる、ほど」
分からないような、分かるような説明にとりあえず相槌を打つしかなくて、とりあえず同調するしかない。




