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「あ、ごめん」
鳴り響いたチャイムに声を止めてから、3人の視線が絡む。そのあとバツの悪そうな顔をして、悪くもないのに海人さんが私と先輩に一言謝って、バタバタと玄関へ走って行った。その後ろ姿を見送ってから、私と先輩は顔を合わせてクスリと笑った。
今日は海人さんの両親が出かけてるらしくて、騒がしくしてもいいって言われたそうだけれど。玄関まで遠い海人さんは、毎度リビングからの往復に辟易すると言っていた。それを如実に感じるバタバタと走る音が、妙におかしくて笑ってしまう。それにしても大きい家ならではの発言に、羨ましいと思う反面実情を知ってその気持ちは小さい。
私はやっぱり、あんまり大きなお家はいらないかも。いつでも人の温もりを感じるような……刻也さんが見えるような、そんな家が……って、何考えてるんだろう私。
一人でつっぱしった妄想にぶんぶん頭を振っていると、先輩が申し訳なさそうに声をかけてくれた。
「ごめんね。落ち着いてからにしよっか?」
「あ、えと……はい」
今の今考えていたことが恥ずかしくなって、私は俯く。さっきまで落ち込んでいたくせに、そのくせ彼を思って妄想してしまう自分が馬鹿みたいだ。どこまで私は――あの人をすきなんだろうか。
『あけましておめでとうございまーす!』
騒がしい声が遠くから聞こえてきて、落ち込んでいきそうになっていた私の気持ちを散らしていく。声の数からして、真子と真田君そして椎名先輩の3人が一緒に来たのが分かった。相変わらずバカみたいに大きい真田君の声に、八重子先輩と顔を見合わせて笑ってしまう。こうやって何でもないのに笑わせてしまう真田君が、私は有難くもあり、好きだって思う。勿論、友達としてだけど。
「さー、飲むわよーっ」
ニヤリと笑ってビールを手に持った八重子さんに、さらに笑わせてもらった。いつもいつも思う。
――本当にありがとうって。
『あけましておめでとー!』
そんなこんなで、新年の挨拶をしてから乾杯をしたのはいつだったか……軽くみんながほろ酔いになってきた頃、八重子先輩が向かいのテーブルから私にお酒を渡しながら言った。
「で? そろそろ話しなさいよ」
「……え?」
同じく、ほろ酔いになっている私。突然の先輩の言葉に頭が回らなくて、赤い顔を誤魔化すこともできないほどの状態で、半眼のまま先輩を仰いだ。
「ほらー、トキ兄のはなしー」
「あ、あぁ……」
話が盛り上がってすっかり刻也さんのことを忘れはじめていた私は……突然振られた、トキ兄、の言葉でまた胸に苦いものが広がった。せっかく忘れていたのに、と思う気持ちまで湧いてしまう私は、本当に最悪だって思って、先輩を見ることが出来ずに俯いた。
「みんないるときには、まずい話だった?」
「いや、そんなことは……」
そう言いながらも、口はもごもごして言い淀んでしまう。みんながいるから、とかそんなんじゃなくて、ただあんまり話をしたくない気持ちが胸を占めている。だって話をしていたら、なんだか泣いてしまいそうだから。
「え、何々!? トキ兄の話って」
けれどそんな私の気持ちを慮ることなく、はいはーいと明るい口調で手を上げてそう言うのはもちろん真田君。
「あんたは黙ってなよ」
そんな真田君に、呆れてツッコんだのはもちろん真子だ。真子に窘められてすぐに口を真田君は噤んだ。けど……
「トキ兄って誰?」
当たり前のように始まった会話に、椎名先輩一人が首を傾げる。その一言で一瞬部屋は鎮まって、椎名先輩に視線が集中した後、みんな見つめ合って、あぁそうか、と言わんばかりに頷いた。
――そっか、知らないんだ。
「え、何? 有名人なの?」
「や、そんなことないっすよ先輩」
すかさずフォローを入れる真田君。それに被せて、海人さんが付け加えた。
「あー、椎名知らないか。俺の4年上だから……椎名の6年上の先輩、上中の」
「そうなんすか」
先輩はその一言で納得したようだけれど、続けてまた疑問を吐き出す。
「その人が、何かあるの?」
やはり首を傾げた椎名先輩。それに苦い顔をしながら、私はどう自分で説明しようかと思案していたら――
「いや、萌優の彼氏なんだってば」
さらりと八重子先輩が言ってのけてくれた。それがやけにはずかしいやら、落ち着かないやらで、両手をぶんぶんと振りながら、思わずお尻を浮かして抗議の声を上げた。
「せ、先輩!!」
自分の中で「彼氏」と言う単語はまだしっくりこなくて、自分から言い出すことはおろか、まだ他人からも言われるとドキドキしてしまう。
私にとって彼は、永友刻也その人で……彼氏という感覚とはまだ違う。
私の好きな人には違いないんだけど。ずっと一緒に居てくれる人なんだけど……その関係を上手く表現する言葉が私の中では見つからない。
だから彼氏だと言われると、なぜか戸惑った。
「違うの?」
そのやり取りに顔を顰めたのは、椎名先輩。
「え? もゆっぺもう別れたの?」
信じられないことをさらりと言う真田君。
瞬間に背中をバシンと叩く音が響いたから、多分真子の仕業だろう。
「うぐっ」
咽た真田君に、失礼ながらも笑ってしまう。それでいて、どうしても反論だけはしたくて「別れてないよ」とだけはツッコんだ。それからしばらく誰も口を開けずに、間を誤魔化すようにちびちびと何かを飲んだあたりで、これは私が何とかすべきなんだろうなと思って、重くなってきていた口を開いた。
「あの……いいです、か?」
一息吸ってから切り出した言葉に、みんなコクリと頷いてくれる。隣に座る椎名先輩も少し面白くなさそうな顔をしている気がするけれど、小さく顎を引いたように見えた。
実際のところ、ちょっぴち緊張している。椎名先輩……には、元々憧れていたからだ。
見た目は王子様系の爽やかさで。だけど話すと気さくだし普通で、頼りになる先輩。演劇に対する情熱はすごくて、1年の合宿で一緒になった時、その熱意も込みで『かっこいいー』って思った。
それからも幾度か会ったし、劇団でもやり取りがあったけれど、先輩はやっぱり他の人と一線を画すようなオーラがあって華やかだった。今では舞台役者として少しずつ世間に認知され始めてきた彼が、私なんかの隣に居るということそのものも緊張する。
そんな憧れでもあるその人に、刻也さんの話をすると考えるとちょっぴり気まずい気もした。もちろん気まずいと思ってるのは私一人なんだろうけれど……
それでもここまで来て何も話さない、なんてことをしてしまう気にはなれなくて、ふぅーと息を吐いてから私は静かに切り出した。




