そんなつもりじゃなかった
リッププレートに押し当てられた唇から息が糸のように紡がれた。唄口に流入した吐息が角に当てられ、陽光に煌めく銀製の円筒内で渦を巻く。反ってきた気流に抵抗を感じるや否や、丸みのある音が発され、雨上がりの雲一つない青空へ吸い込まれていった。
よくよく耳を欹てれば、僅かに音がかすれていることに気付くだろう。が、少女はその不完全さ、加工されていない生の音をこよなく愛していた。
緩やかに下降するかと思えば階段状に上り詰める音階。継ぎ目の殆ど感じられない洗練された演奏に、荷を背負った商人が足を止め、露店に並ぶ野菜と睨めっこしていた主婦が顔を起こし、広場の片隅に視線を送る。
高さが3mはありそうな赤煉瓦の壁を背景にして、少女は凛と立っていた。肩にかからぬくらいに切り揃えられた黒髪がそよ風に靡いている。左側頭部には四葉のクローバーを象ったヘアピンを付けていた。目を閉じているため瞳の色合いまではわからないが、整った眉に長い睫毛はそれだけで衆目を惹く。
白いブラウスにストライプ入りのチェックスカートという清楚な佇まい。背はさほど高くなく、幼さの残る容貌であるが、銀色に輝く横笛が発する音色からは大人に負けぬ呼気のしなやかさが感じ取れた。
ややあって、笛の音にチャリチャリと、硬質な音が混じるようになった。が、少女はそれを気にする素振りなど一切見せず、目を閉じたまま上半身を左右に揺らし、頭の中に浮かぶ旋律を一心不乱になぞっている。
高い音色が軽快なリズムを刻みながら未だ地面の乾き切っていない正方形の広場に響き渡る。そこから少し離れた通りでは鎖に繋がれていた茶色いむく犬が耳慣れぬ高音に応じ、負けじと息の長い遠吠えを上げ始めた。
耳をくすぐる旋律に心惹かれた者が小さかった人だかりに一人、また一人と加わっていく。大人もいれば子供もいる。ついには聴衆達の何人かが小刻みに頷き、或いは握った拳を軽く振ってリズムを取り始める。
細い指先がなめらかに動き、爪先を捉えられぬくらいの速さでリングキーを叩く。クライマックス。高音域へと誘われた長音が段々とか細くなっていき、広場にいる者達の耳道に微かな余韻を残して消えてゆく。少女は顎を上げてリッププレートから下唇を放し、深呼吸と共に薄らと目を開けた。
目の前に人垣が出来ているのにきょとんとした瞬間、周りから拍手喝采が沸き起こった。少女は一瞬細い肩を震わせたが、惜しみない称賛の声が耳に入ったのだろう。きょろきょろと周りを見ると少し照れ臭そうにこめかみの辺りを掻いた。
ふと、上品な身なりをした背丈の低い老婆が何かを下手投げしたのを視界の下端に見止めた。つられて落下点に視線を下ろし、びしっと身体を硬直させる。
知らぬ間に、開きっ放しになっていた赤いカバーのケースにはたくさんの銅貨と少しの銀貨が入っていた。少女が口を半開きにしている最中にも、硬貨の山に更なる硬貨が投げ入れられ、チンと澄んだ音を立てている。ようやく己のうかつさを悟ったのだろう、小麦色の小さな顔が顎から耳まで赤く染まった。
――あわわわ。ど、どうしよう、これ。
実に四日振りの晴天。屋内よりはもっと広々とした所でやりたい。あわよくば新鮮な空気を吸いながら日当たりの良さそうな場所で笛の練習を、とただそれだけのつもりだった。
慌てて周囲を見回すも時既に遅し。そもそも目を瞑っていたのであるからして、誰がどれくらいの硬貨を投げ入れたかなんてわかるはずがない。今更『そんなつもりはありませんでした』と言ったところで小銭の山を一人一人に返すことなど不可能だった。
ややあって、返却を断念した少女はチップを弾んでくれた聴衆達に恥じらいながらも深々とお辞儀をした。鳴り止まぬ拍手に混じって甲高い指笛が、そこかしこで鳴り響いた。