表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無常と不変  作者: SECRETS
2/2

第一章 癒えない傷



 約二年の月日が流れた。芯地、澪奈、朱音は中学校を卒業し、高校へと進学が決まった。


 この二年の間には沢山の壁があり、沢山の失敗を繰り返しながら少しでも大人への階段をのぼっていこう。そんな気持ちで、ようやく自身の人生において自分自身が主人公であると誰もが自覚をし始める時期である。

 自覚によって変わる気持ちと変らない決意もあるだろう。まだ舵をとるのに慣れていない彼等にはどんな困難も乗り切れるのだろうか。この二年の間にも様々な困難に舵を乱され、沢山の失敗をした三人だが……、その話については、またいつか綴る事にしよう。


 今は高校に無事に進学した時点での彼等の物語について筆を進める。




  ・  ・ ・


 2005年4月

 第一章 癒えない傷


 既に放課後。澪奈はクラスの係で日誌を書いていたが、手を休め、窓から外を見ていた。澪奈が高校に入学してから数日が経っていた。


 義父に中学二年生の頃に押し倒されて以来、同じ様な事は何一つされてはいない。だが、澪奈は中学校を卒業してから、苦痛で仕方が無かった。

 唯一、澪奈の心の傷を知っていてくれている芯地や、朱音が同じ高校では無いからだ。


 あの日、上に乗りかかり、押さえ付けてきた義父の表情を思い出すと、澪奈は心臓を鷲掴みにされる様な苦しい思いがする。


 丁度今も、義父の表情が脳裏を過ぎり、脈が速くなり、澪奈は机にうなだれ目を瞑り体内から来る怒りにも絶望にも似た気持ちを封印し、自らを落ち着けようとした。


(今日は、久し振りに芯地とあえるんだよ)


 そう自らに言い聞かせ、芯地の表情を思い浮かべて発作にも似た拒絶反応を抑えた。


 無意識のうちにクシャクシャにしてしまった日誌をのばしながら、心の中で小さな幸せを感じようとした。


(はやく逢いたい)


 顔がニヤニヤしないように必死に堪えながら、再び日誌に今日のクラスの状態を書き込み始めた。




   ・ ・ ・




 ほぼ同じ時間帯、芯地は腰丈ほどのロッカーの上に座り込み、窓から野球少年達を冷めた目で眺めていた。


「へー。愛華も二人姉妹なんだー」


 朱音のそんな会話が耳に入ると、階段の方を芯地は見た。


「芯地。帰んないの?」


 朱音は芯地に気付くと、階段を降りながらそう言った。


「ああ。帰るよ」


 そう言いながら、芯地は朱音の隣りにいる愛華(あいか)の方を軽く見た。視線に気付いた愛華は軽く微笑みながら階段を降り朱音と共に芯地の座るロッカーまで行った。


「芯地。七瀬愛華ちゃん。んで、これが、大庭芯地」


 愛華と芯地の相互を朱音は紹介した。平均といった感じの背丈で、茶色のストレートな長髪だ。背が伸び途中の芯地、平均位の愛華、背の小さい朱音の配列でロッカーに寄り掛かった。二人は互いにぎこちない挨拶をし、照れ笑いをした。


「何照れてるのー。二人共。愛華が可愛いからって駄目だよ芯地、澪奈っていう完璧な彼女がいるんだから」


 朱音は芯地の頭を軽く叩きながらそう言った。芯地は顔を赤くしながら「そんなつもりない」と、必死に否定した。


 それから時間の経過も気にせず、三人は話し続けた。初対面にも関わらず、芯地に対して愛華は質問ばかりをし、やや押され気味の芯地を見て朱音は笑みを浮かべている。


 そんな三人の会話にブレーキをかけたのは、校内に響くチャイムと、帰宅を促す放送だ。この高校はこの辺りでは有名な進学校で、周囲の目を過剰に意識せざる得ない学校だ。

 その為か校内には絶対帰らないといけないといった雰囲気が漂う。三人もそろそろ帰ろうか、といった周りの流れに仕方が無く従い、学校から外へと出た。


 広い校庭を囲む桜の木々。緩やかな風に揺られ、ヒラヒラと散っていく。散りきった花びらは、地面に積もり、風が吹いては舞い上がりそして、地面に落ちる。


 対照的に立ち並ぶ人工物である建物は幾つもあり、学年毎に違う建物。高い囲いに囲まれた相反する物が共存する敷地内の学生がゾロゾロと門から出ていき、教師がそれを見送っていく。そして、三人も門から出た。

 やや細い道を進み交通量の多い国道の前まで行くと、朱音が口を開いた。


「今日、彰と約束があるから芯地と帰れない。また明日」


 左右の二手に別れる歩道のうち右側を指差しながら、ご機嫌そうに笑いながら朱音は話した。彼氏である(あきら)はこの高校から徒歩二十分ほどの場所にあり、朱音と芯地が普段帰る方向とは真逆に位置する。


「あ、そう。彰先輩と仲良くね。……てか、俺も澪奈と約束あるんだった。はやく帰んないと。またね」


 そう手をふり芯地が歩き出すと「大庭君ばいばい」と、愛華が満面の笑みで手をふった。


 芯地は愛華達の方を振り返り、恥ずかしそうに手をふると、再び歩きだし、朱音達から遠のいて行った。


「じゃあ、うちらも帰ろうか、愛華」


 朱音がそう言うと愛華も頷き歩きだした。まだ知り合ったばかりの二人だけの会話は何処かぎこちないが、絶えない笑い声が新しい出会いの喜びを表しているかのようだった。






 十分ほど経過した。二人はコンビニエンスストアに着いた。何かを思い出したかのように会話の途中で朱音が声をあげた。

「あ、ゴメン。愛華。今日は彼とここで待ち合わせしてるの。だから……」


「そうなんだ。じゃあまた明日ね」


 朱音が言い終わらないうちに愛華はそう言い、笑顔をみせた。


 綺麗に通った鼻筋に。かといって男性の高い鼻と違い何処か小振りな女性らしい高い鼻。唇の両端はややあがり気味で、彫りは決して深くは無いが、アーモンド形の大きな目。


 その目付きは優しく黒目が大きい。そんな愛嬌が良さそうな印象を与える顔に満面の笑みをみせる愛華を見て、朱音は一瞬嫉妬心に近い感情を垣間見させる表情をするが、すぐに笑顔になり「愛華は可愛いなぁ。愛華を見習わないと……」と言った。


「そんな事ないよ。朱音ちゃんだって可愛いよ」


 満面の笑みでそう言い「じゃあね」と手をふった。


「あ、愛華」

「ん?」


 手をふり背をむけようとした愛華を朱音は呼び止めると愛華は不抜けな声で返事をした。


「家近いの?」


「近いよ。この坂を下って、突き当たりを駅とは逆の方に曲がるとある家が一杯ある場所に住んでるの」


「そっか。気をつけて帰ってね」


 愛華のように満面の笑みでそう言い、手をふると、愛華は軽く手をふり背を向け、駅へと続く坂を下って行った。


 そんな愛華の背中を朱音は突き当たりを右折するまで、ずっと眺めていた。


「ああ。いいこだなぁ」


 そうポツリと独り言を言い、携帯電話を何気なく見ると、新着のメールが届いている。メールを読んでいるうちに朱音の表情は曇っていった。


 彼氏である彰からの“今日は逢えない”という内容だった。朱音は携帯電話をバン、と閉じ溜息を吐いた。その表情は何かに悩んでいる愛華や芯地には見せない表情のようにも見えた。




・ ・ ・




 車が何台も車庫に停めてある邸宅。既に澪奈は帰宅していて芯地と約束がある為に張り切って支度をしていた。慣れた手つきで化粧をし、少量の香水をふる、ヘアスプレーで髪をふんわりとさせ、鏡を見ながら、笑顔を練習した。


 芯地もかなりおしゃれをしてくるので負けてられないと意気込んで頑張ったは良いが、そろそろ出なくてはいけない時間になってきた。


 澪奈は立上がり、部屋を出ようとした。その時、階段をドシドシと登ってくる足音が、一歩ずつ近付いてくる。


(怒ってる……)


 澪奈は反射的に部屋の隅に移動し、小刻みに震える手をもう一方の手で押さえた。ドシドシとした足音は容赦無く近付いてきて、そして、部屋の前で止まった。澪奈は重い空気に息が詰まりそうだ。


 ガンッと、部屋のドアが勢いよく開き、一回壁にぶつかり跳ね返るのを更にはねのけ、大男が入ってきた。そう、澪奈の義父だ。


「また芯地とかいう、男と遊ぶのか? あんな奴とチャラチャラ遊びに行くのか!?」


 家中に響く、怒鳴り声。少し赤く染まった男の表情は怒りに染まり、手が出そうな勢いだ。澪奈は勇気をだして声を振り絞る。


「芯地の事、悪く言わないで」

 やっとでた声は小さいが、男の耳には届いた。


「ああ?」


 低く、威嚇する様な声を男はだした。


「芯地の事を悪く言わないでっていってんの! 芯地の事、何も知らないでしょ? あんたなんかよりも、ずっと良い人なんだよ? あんたなんかより……」


 強く言い放つ澪奈の言葉が途切れるかわりに、バンッという轟音が鳴り響いた。澪奈の身体はやや宙に浮き、壁に突き飛ばされた。


「何言ってんだ!? てめえ! お父さんはお前の事を心配して言ってるんだぞ? 寝ぼけた事ばっか言ってるな!」


 壁に身体を強くうち、床に倒れ込む澪奈を見下ろしながら、そう怒鳴り、近付き座った。澪奈の顔を無表情のまま覗き込み、何かを考え込んでいる。


(また、あの日と同じように)


 澪奈の脳裏を過ぎるのは、中学生の頃、義父に押さえ付けられた忌々しい記憶。


 男が何かを振り払おうと立ち上がったのと同時に部屋のドアが開き、澪奈の母親が入ってきた。状況を見て驚いた表情をみせ、ゆっくりとドアを閉めた。そして口を開いた。


「澪奈! またお父さんを怒らせたの? 謝りなさい!」


(え……? 私と血が繋がるお母さんまで、そいつの味方なの……)


 澪奈は己の耳を疑った。溢れでてくる涙で視界がぐしゃぐしゃだが、それ以上に思考がぐしゃぐしゃで悪夢を見ている様な気分になった。


「男と夜に遊ぶとは、たいした不良に育ったもんだ! お前の通う私立高校の金は誰が稼いでると思ってんだ? 誰のおかげで生きてると思ってんだ?」


 そう声高に言うと男は、澪奈の母親の側に下がり、何か告げている。


「お父さんに何て酷い事を言ってるの? 謝りなさい」


 そう言い、澪奈を見下ろす母親の顔は強張っているが、目には戸惑いの色がうかがえる。


「ご、ごめんなさい」


 内心謝りたく無い。謝るべきでは無い状況のなか、澪奈は己の心に嘘をつき泣きながら謝った。


「もういい。行きたきゃ何処にでも行け」


 そう言い、男は部屋から出ていった。母親は黙ったまま、座り込んで涙を流している澪奈を見ていたが、男の呼ぶ声を聞くと「あんまり怒らせないでね」と、言い残し部屋から出た。


(私は悪く無い)


 澪奈は何回も、何十回も壊れたように心の中でそう呟き続けた。






 時間は無意味に過ぎていくかのように見えたが、澪奈の判断能力を少しづつ蘇らせた。


(あ、時間)


 そう思い咄嗟に時間を確認すると、既に約束の時間を過ぎている。


(芯地待っていてくれてるよね)

 既に涙は枯れ、崩れた化粧を軽く鏡の前でなおし、引きつった笑顔を何回も繰り返し練習した。


 たが、澪奈の頭の中は未だにパニック状態だ。先程までの有り得ない現実が螺旋階段の様に続き、そこから気分が抜け出せない。その螺旋階段を壊す方法を一つだけ澪奈は思い付いた。


 部屋のクローゼットを開け、奥に眠るキャリーバックを引っ張り出した。中に必要な物を詰め込んでいく。物を詰め込む澪奈の目には決意が込められていた。


 全てを詰め終わると澪奈は部屋から出てキャリーバックを両手で抱えあげ、階段を降りた。廊下の向こうにあるリビングからは男の怒鳴り声と、女の泣き声が聞こえてくる。


 澪奈は一瞬迷ったが、迷いを断ち切り家から飛び出した。澪奈の後を追うのは、ガラガラと音をたてるキャリーバックのみ。


 外に出れた安心からか、再び澪奈は視界を曇らせた。二年前と同じように手に握る携帯電話を開き、すがる様な思いで、芯地に電話をかけた。




   ・ ・ ・




 互いに競いあうように立ち並ぶ幾つものファミリーレストラン。交通量は多いが広くゆとりのある煉瓦の歩道は橙色の優しい街灯に照らされている。


 やや冷たい空気の漂う春の夜空の下。洋食専門のファミリーレストランの前で芯地は澪奈を待ち続けていた。


 芯地は約束に遅れる事の無い澪奈が来ない事で嫌な予感を感じていた。絶えず鳥肌が立っている。寒いのでは無い、最悪な予想が身体を貫き、肌にそれが表れているのである。


 毎日必ず考える事が芯地の脳裏を過ぎった。そう、二年前の出来事だ。一日たりとも、あの日、澪奈の身に降り懸かった出来事を忘れた事は無い。そして心配であるにも関わらず、何も出来ない自らを毎日何処かで責めていた。


 今日は、そのマイナスな考えがより強く深く、深く、自らを責めていく。芯地はその場で叫びたいくらいの衝動に襲われた。と、その時、携帯動画の着信音が鳴り響いた。芯地は直ぐに電話に出た。


「芯地、ごめんなさい。今直ぐに行くから……。待っててくれてる?」


 受話器から聞こえる澪奈の声色は二年前のものと同じだ。


「待ってるよ。急がなくても良いから」


 それだけ言い、電話を切った。芯地は全身の鳥肌をより強く感じとった。顔色まで悪くなっていく。


「おれになにができるんだ」


 感情の無い独り言をポツリともらした。


 橙色の街灯が照らす歩道を澪奈がガラガラとキャリーバックを引きながら歩いて来た。


 芯地はその姿を確認すると、深呼吸をし、自らを奮い立てた。漆黒のワンピースを着た澪奈は芯地の服装、黒のパーカー、ルーズフレアの洒落たデニムを上からゆっくり眺めながら、芯地の前で立ち止まり、頭を軽く下げながら「遅れてごめんなさい」と言い、顔をあげ、芯地の顔をじっと見た。


 二年前とは違い少し越されてしまった背丈、やや頑丈そうになった体格。そして笑顔がふえた表情。


「良いよ。寒いでしょ? 中に入ろ」


 軽く笑い、ファミリーレストランの駐車場へと入っていく芯地のドクロがプリントされたパーカーの背中を見ながら未だ申し訳なさそうに後をついていった。





 やや慌ただしい店内。ほぼ満席で様々な年代、様々な職種の人が同空間にいる。ウェイターの案内について行き、二人は窓際の席に向かい合わせに座った。


 メニュー表を眺めながら、澪奈は考えていた。真実を告げるべきか否かを。同じ様にメニュー表を眺める芯地の表情を密かに垣間見るが、その表情からは感情を判断出来ず、何も言い出せないでいた。


 すると、芯地がメニュー表を閉じ、澪奈を見た。一瞬時間が止まったかのように見つめあい、芯地は口を緩めた。澪奈は頬をやや紅く染めながら口を開いた。


「良かった。怒ってるのかと思ってた」


「怒ってねえよ。まあ外めちゃめちゃ寒かったから、遅刻した罰としておごって貰うけどね」


 悪戯をする子供の様に無邪気に笑いながら芯地はそう言うと、背もたれに背中を預けた。


「ゴメンね。おごるから許して」


 真剣な表情で澪奈は言った。芯地は「いやいや冗談だよ」と笑いながら言った。だが直ぐにその笑顔を引っ込めると、腕を組み悩ましい表情に変った。


 澪奈はそんな芯地の表情を見て(言わないと、今日の事を……)と、考えた。


 だが、どう順序だてて話して良いか、何を芯地に言って欲しいのか、様々な事を考えているうちに言うタイミングが分からなくなってしまった。


 そうこうしてる内に正しく営業用の笑顔をみせるホールスタッフに注文を終え、メニューが運ばれるのを待つ時になった。


「飲み物とってくるから芯地は何が良い?」


「え? あ、メロンソーダ」


「じゃあ取ってくるね」 


 そう言い立ち上がる澪奈は僅かに痛む腰に手をあてた。それを芯地は見逃さず、黙って見ていた。澪奈はドリンクを取りに向かいコップに飲み物を注ぎながら、気持ちを整理した。芯地が座る席に戻りコップを置いた。


「ありがとう」


 芯地はそう言い、メロンソーダを一口飲み、コップを置いた。


「芯地、今日ね……」


 と澪奈がようやっと出した声が料理を運んできたホールスタッフの声で遮られた。


 全てを置き離れていくウェイトレスの背中を軽く睨みながら、澪奈は溜息をもらした。


「今日、どうしたの?」


 澪奈を真直ぐ見ながら芯地は澪奈の途中で途切れた言葉を聞き出そうとしている。これまでに無いくらい優しい表情は他人に接する芯地からは有り得ない。


 澪奈に対して限定の表情と言っても過言では無いだろう。澪奈もそれを知っている為、嬉しさのあまり込み上げてくるものがある。それを精一杯抑えながら、事の詳細を言葉を選びながら、感情的にならないように話していった。


 ただ黙ったまま時折相槌をうっていた芯地は澪奈が全てを話し終わると、メロンソーダを飲みほし思わず溜息をもらした。


 澪奈に見えないようにテーブルの下で拳を握り締め、下にうつむき歯を噛み締めた。澪奈に虐待を働いた男と見捨てた実の母親に対する怒りと来るべきしてきてしまった、この日に対する困惑、そして自らの無力さを呪った。だが、直ぐに顔をあげた。


「これからどうするの?」


 芯地はそう尋ね、両腕をテーブルの上にだした。


「家を出る」


「え?」


 驚き、芯地は思わず声を出した。


「家を出て他の場所に住む」


 そう澪奈は続けると芯地の目を見て何かを訴えかける。


「あ……。いや、オレの家は無理」


「ごめんなさい。やっぱり迷惑だよね」


 家を出ると言ったは良いが澪奈はどうしたら良いか全くわからない。その上芯地なら了承してくれると思っていたにも関わらず断られた事は地獄に突き落とされるような事だ。


(やっぱり私なんて。私なんて……)


 込み上げてくる涙を隠すように両手で顔を覆い、声をおし殺して泣き出した。


「あ……。澪奈……」


 芯地も泣きたくなった。澪奈を直視しないように空っぽのコップを睨み付けた。しばし芯地は役にたたない頭を使った。そして救世主になるかもしれない人物の顔が頭を過ぎった。


「千恵さんだ。そうだ千恵さんだ……」


 芯地は昔から慕っている千恵(ちえ)なら助けてくれると考えた。


「え?」


 泣き顔のまま澪奈は芯地を見た。


「千恵さんに頼んでみるよ」


「お願い、します」


 澪奈は芯地に座ったまま頭を下げた。普段ではあまりない敬語をつかわざるえないくらいに澪奈は追い込まれていて、芯地以外には誰も頼れない。


 そんな澪奈の様子に戸惑いながら、芯地は携帯電話をポケットから取り出した。繰り返された最悪な状況が自分の責任でもあると自らを責めながら。




   ・ ・ ・




 二人がいるレストランからさほど遠くは無い店。狭い店内に所狭しと並んだ服を荒っぽい手つきで物色している女性がいる。体格はかなり小柄だが小ささを感じさせない強い雰囲気を放ち、目付きはややキツい、芯地達よりは歳は二つ上だ。


「千恵まだ買うの?」


 店の入口でピンク色の派手な髪色の女性が呆れ顔でそう言う。


「見てるだけ」


 千恵は返答をしながらも視線は女性の方を見ていない。


「カラオケ行こうよ」


 ピンク色の髪の毛先を指でなぞりながらやや怒り気味に言う。


「はいはい」


 適当に返事をし店を出ようとしたその時。千恵の携帯電話が鳴った。


「はいはい、もしもしー」


 気の抜けた声で電話に出た千恵は嬉しそうに続ける。


「お。久し振り! 芯地、元気にしてた?」


「千恵さん……」


 受話器から聞こえる芯地の声からヒシヒシと何かが千恵の耳を通過して思考回路に伝わった。


「どうした? 何かあったの?」


 店から出て静かな場所に移動しながら千恵は前髪をかきわけた。真剣な千恵の表情を見てピンク色の髪の女は黙ったまま千恵を見ていた。


 全てを聞き終えると千恵は強く優しい口調で言った。


「勿論! うちにおいで」


 数分話した後に電話をきり、ピンクの髪の女に申し訳なさそうに言った。


「ゴメン。用事出来ちゃったから帰る。ゴメンね」


「……良いよ。その代わり今度何かおごってねー」


 彼女の返事を聞き千恵は笑顔で手をふりながら、その場から離れて行った。




   ・ ・ ・




 携帯電話を閉じながら芯地は澪奈に笑顔をみせた。


「千恵さんが家に泊めてくれるって! 本当に良かった。良かった……」


 良かったとくどいくらいに繰り返した。


「あ、ありがとう。芯地」


 ありったけの感謝の気持ちを言葉に込め澪奈は泣きながら言った。


 恥ずかしそうに芯地は笑い、スプーンを手に持った。冷めた料理を二人は食べながら、時折目をあわせては笑顔になり、一見事件の後とは思えない時間が過ぎていった。


 二人共、胸の内は不安定な天秤の様な心情だが、笑顔だけは無くしてはなかった。


 二人共会計を済ませて、外に出た。来た時よりも冷えた空気が状況の冷たさを肌で感じさせる。


 芯地は澪奈の手をギュッと握り締めながら、駅のある方向へと向った。


 橙色の街灯に照らされながら、駅まで続く煉瓦の道。芯地の靴のかかとをする音と澪奈のヒールの高い靴のカツカツという足音を後から追いかけるようにキャリーバックがガラガラと音をたてる。


 二人の間に会話など殆ど無く、時折、澪奈が様子を伺うように芯地の顔を見る。高校生になりかつての芯地よりも体格や顔つきが男性らしくなり、より異性として意識をしつつも澪奈は複雑な気持ちもあった。


 思春期の真中で男性に力でねじ伏せられた記憶が一種の男性に対する恐怖感を植え付けていた。今、手を握る芯地に対しても安心感と共に違う感情も僅かにある事も確かだった。それでも澪奈は芯地の手を強く握ったまま共に歩き行く。


 人がポツポツと歩く通りから人通りの多い通りに入ると、終電が近いにも関わらず多くの人が駅周辺を行き来しているのが一目でわかる。


 駅に近付けば近付くほど、更に言うならば澪奈の家から遠ざかれば遠ざかるほど澪奈は自分が芯地に救われた事を実感した。


「今日は本当にありがとう」


 澪奈は今日初めての迷いのない笑顔を芯地に向けた。芯地も笑顔で頷き、澪奈の手を強く握り締めた。それを強く握り返す澪奈の手には複雑な感情など芯地には微塵も感じさせなかった。


 駅の入口近くにたつ黒皮のジャケットを着た小柄な女性、千恵を目で確認すると芯地は手をふった。千恵は手をふりながら芯地達の方に走ってきた。


「遅いよ。お二人さーん!」


 バシバシと芯地の肩を殴りながら千恵は唇を尖らせた。


「すいません。千恵さん……」

「澪奈ちゃん。久し振り! すっかり良い女になっちゃって。覚えてる千恵の事?」


 芯地が詫びているのをわざと無視しながら澪奈に話しかけると芯地は呆気にとられながらも千恵を軽く睨み付けた。


「お、覚えていますよ」


 芯地が千恵を睨んでいるのを見て微笑みながら澪奈はそう言い「千恵さん。本当に千恵さんの家で暫くお世話になっても良いんですか?」と、続けた。


「良いに決まってるじゃない! 千恵の事が嫌になるまでいて良いよ」


「本当にありがとうございます」


「本当に良かったね。澪奈」


 千恵を睨むのをやめ澪奈にそう言いながら芯地はやや疲れた表情をみせながら言った。


 駅のホームに着き、芯地は聞こえないように深呼吸をした。そんな芯地の様子に気が付いた千恵は隣りに並び、芯地の頬をつねった。


「痛いし。千恵さん最低」


 千恵のからかってくる手をはねのけながら芯地と千恵はホーム一帯に響くくらいに笑い声をあげた。


(あんな楽しそうな芯地の笑顔、見た事無い。やっぱ千恵さんの方が芯地にとっては良いのかな?)


 千恵に対して見せる芯地の笑顔を複雑な心境を包み隠すように微笑みながら澪奈はじっと二人の姿を眺め続けた。





   ・ ・ ・



 殺風景なアパート。鼠色のコンクリートに、カーキ色のドアが幾つか並んでいる。


 既に住民達の部屋の電気は消えている場所が多く、切れかけの点滅した街灯だけが階段を登る千恵と澪奈を照らしている。

 あれから電車に乗り芯地と別れ、更に電車に揺られる事、数十分。降りた駅からはさほど遠くない千恵の住むアパートに二人は辿り着いたのだった。


 突き当たりの部屋のドアの前で千恵はとまりバックから鍵を取り出しドアを開けた。


「どうぞー。澪奈ちゃん」


 澪奈を部屋に手招きしながら洗面所などの位置を教えた後、六畳ほどの部屋に入り、足元に散らかる衣服を適当に片付けた。


「ゴミ屋敷でゴメンね」


「そんなこと無いですよ」


 澪奈は内心驚きながらも首を横に振って、愛想笑いをした。小さい机の周りに二人は座った。


「そんなことなくないよ普通に。これからは澪奈ちゃんもいるし、綺麗にしないと」


 千恵は笑いながら澪奈の頭を撫でた。


「千恵の事、少しは好きになってね」


(えっ……)


「知ってるよー。澪奈ちゃんが私の事、敵対視してるの。芯地から聞いてたから」


 わざと無表情でそう続けた。


「あ、嫌いっていうわけじゃなくてですね。あの……」


 戸惑いの表情を隠せず澪奈はたじろいだ。そんな様子を見て千恵は、ふふふん、と満足気に笑った。


「澪奈ちゃん。きゃわいい」


(え? 何?)


 内心、千恵の言動についていけていない澪奈の事は置いてけぼりのまま、千恵は小さな身体で豪快に布団を襖からひきずりだし、何事も無かったかのように布団をひいた。


「よし! 澪奈ちゃん。……てか澪奈て呼んじゃおう。澪奈の布団ひいたよ」


「あ、ありがとうございます」

「あー、駄目。敬語とかいらないよ」


「え? あ、ありがとう。千恵……さん」


 たどたどしく話す澪奈を見て千恵は満足気に笑った。


 その後互いに寝る支度を済まして夫々の布団に入った。


(今日は本当に最悪な日だった……)


 澪奈の脳裏を過ぎるのは男に暴力を振るわれた事、そして母親さえも男の味方をした事。最悪な出来事続きだが、芯地と千恵に助けられた事で最悪な事態は逃れたと言ってもいいだろう。


 絶望の次にくる安易な二文字の選択はせずに済んだのだから。


「澪奈起きてる?」


「あ、はい」


 考え事をしながらふ抜けた返事をした。


「私さ芯地の事さ、澪奈が思ってるような目じゃ見て無いからね」


「本当、ですか?」


 次はハッキリとそう言った。

「本当だよ。芯地は千恵の妹の彼氏だったんだよ。最初はそれでたまに見たくらいだったんだ」


「え? そうなんですか?」


 澪奈は初めて聞く話しに驚きを隠せない。それに対して千恵は淡々と続ける。


「でね、まだ背が小さかった芯地が千恵に懐いてくれて、二、三回話しただけなんだよ? 可愛くてね。なんか嬉しかったんだよね。弟が出来たみたいで、ね」


「弟……、ですか」


「そう千恵にとっては弟みたいな感覚かな? 未だに敬語でウケるけどね。だから妹と芯地が別れたあとも、千恵は色々相談にのってやったり、一緒に飯食ったりしてるわけ。だから妬かないで」


「あ、いや。別に妬いてなんかないですよ」


「そう? あ、澪奈眠いよね? 大変な思いしたんだし、もう寝なよ」


「はい」


「あとさ」


 千恵の声色がやや暗くなった。


「はい?」


「今まで何もしてあげれなくてゴメンね」


 澪奈を見ながらそう言った。


「謝らないで下さい。今日、こうして無理言ったのに助けてくれた事が、本当に嬉しいです。ありがとう。千恵さん」


 様々な思いが交差し涙ぐみながらそう言った。


「泣かないよ。美人さんが台無しじゃん」  


 千恵は貰い泣きをした。


 目が慣れて辺りがある程度見渡せたため澪奈は千恵が涙を流している事を知っていた。


 自分の為に涙を流してくれる人の存在の有り難さと貴重さを感じながら、千恵のおやすみなさい、に対して明るく返事をした。


「千恵ちゃん。おやすみなさい」




 澪奈が寝静まったのを確認し、千恵は布団に入ったまま天井を見上げた。他者には決して見せる事の無い力の抜けた弱々しい表情のままずっとずっと涙を目に溜めたまま力ない溜息を吐き出した。




   ・ ・ ・




 昨夜澪奈達と別れた青葉駅のホームに芯地の姿はあった。深く深呼吸をし、朝急いでワックスをつけた為に未完成な髪型を不機嫌そうにいじっていた。


 そこに同じく不機嫌そうな朱音が芯地の隣りにきて芯地の靴を爪先で踏んだ。


「朝、何でさ待ってくれていなかったの? 体調悪いかなとか思ってメールしたのに無視だし。きたら普通にここに突っ立っているし」


 爪先を何回か優しく踏みながら、話を聞いていない芯地を睨んだ。


「おい。聞いてんのかよ?」


「ああ。悪かった」


 それだけ言い腕を組む芯地にそれ以上何かを言う気にはならず、轟音と共にきた電車に一緒に乗り込んだ。


 ドア付近に二人で立ち、足早に変わり行く風景を暫く眺めていた。


「何かあったんでしょ? 相談のるよ」朱音は勇気を振り絞りそう言うが「別に大丈夫」とだけ芯地は返事をした。


「あっそ」


 芯地に聞こえないように言った朱音の一言はとても寂しそうだった。





 二人の通う高校の最寄りの駅に着き同じ制服を着た男女が沢山電車から降り、同じ方向に学校に行くことに僅かな疑いも持たず向う。


 同じ道を歩き、同じような話題を。だが芯地と朱音だけは違った。姿だけでも二人はやや目立つと言っても良いだろう。今重要なのはそこでは無く、話題の話だ。


 二人の話題は好きな人出来た等という可愛らしい領域と別空間に存在している。朱音の彼氏である彰の話題から逸脱し、昨夜の帰宅後の母親の話にも及んでいた。


「――それで、アイツ。酔っ払ったまま帰ってきて……、ムカついたから皿叩き割ってやったんだ。どうせまた男とあってきたんだよ」


 そこまで言い自分を落ち着ける為に一息吐いた。


「それで朱音は皿で怪我しなかった?」


「え? ああ、大丈夫だった」


 何気ない様子で言った芯地の一言を何回も頭の中で思い出しながら照れた。それと同時に自制心がガタガタと音をたて隙間を埋めるように並んだ。


「そんなんで怪我するわけないだろ? ありえない」


 強い口調で朱音は言い放ちながら灰色の地面にうつる自分の影を睨み付けた。


「は? 心配してやってんのに」


 朱音が電車内で芯地に言いたかった事と同じ事を芯地が言うと、朱音は“似た者”同士だと心の中で笑った。


 時間は過ぎるのがはやく、昼の時間になったかと思うと、あっという間に放課後の時間帯になった。


 学生達の雰囲気は義務教育とは違うべきであるのかもしれないが、義務教育の単なる延長として通う生徒も沢山いるだろう。


 学業に集中するという環境が整ったこの進学校でさえ、いるという事は他の学校即ち日本の学校というのは些か平和ボケしている様な気がする。


 学べる事への有り難さを感じる者が何人いるだろうか。何よりも親からの虐待に苦しむ生徒は果たして通常通りの学校生活をおくれるのだろうか。


 そして、虐待に苦しむ者の苦しみを共有し、共に乗り越えたいと許容範囲を超える悩みを抱える者は普通に学生生活を過ごしていけるのか。


 綴るべきものがずれた気がするが、これは澪奈と芯地に正しく直結すべき問題だ。何はともあれ彼等の話に戻る事としよう。


 放課後。いつものようにロッカーの上に座り校庭を眺める芯地の瞳は不安に押し潰されそうで、普通に生活している同年代の生徒達と澪奈の状況とをくらべ苛立っていた。


いつもの事だが、今日の瞳は制御不可能の怒りを秘めていた。恨む相手が違うのは確かな事だが、彼には全てが敵に見えていた。


「芯地君どうかしたの? そんな顔しちゃって」


 彼の怒りを静めたのは愛華だった。朱音が側に居ない為に話しかけにくそうにはしていたが、芯地の暗い顔つきを見てただならぬ事だと思い話しかけたようだ。


「あ、いや。朱音も大変だな……、て思って」


 何も知らない愛華に澪奈の事を話す気にはならず、朱音の話題をさり気なくだした。


「あ、母親の事だよね」


 曇る愛華の表情から聞いたんだと芯地は察すると意外だ、と思った。朱音が既に愛華を友人だと認めたという事だ。


 朱音の家は四人家族だ。芯地と澪奈が中学生の頃に世話になった姉の美咲。そして朱音。父親。母親。朱音の家は言わば、崩壊寸前だ。


 家事の殆どを美咲がこなしていて、父親と母親は何もしていない。父親は働いているが帰りは遅く家にいる時間は殆ど無い。


 母親に至っては、父親とは違う男を家に連れてくる事さえも過去にはあった。その度に美咲と母親は激突し、朱音は隅で震えているという事があったらしい。


 朱音に聞いたそれらの出来事の話しを芯地と愛華の二人で話していたが、その話題は途中で途絶えた。朱音が来たからだ。


「あ、朱音ちゃん」


 何処かわざとらしい愛華の言い草に芯地は顔をやや伏せた。


「ん? 何?」


「あ、うん。何でも無い」


 愛華の下手くそなやり取りに芯地は思わず視線を外にうつした。


「何、二人で話してたの?」


「あ……。あー」


 率直な問いに愛華はあやふやな言葉を口から出しながら芯地をそっと見た。


「朱音の家の事だよ」


 真面目な顔でそう言った芯地に続き愛華は何度も頷いた。


「そんな事かよ? なんだ。なんか二人で怪しい話をしてんのかと思った。ずいぶん仲良しそうで」


「怪しい話って何?」


 笑いながら愛華は芯地と朱音の顔色を伺った。


「澪奈がいるんだから駄目だよ」


 朱音の口から出た澪奈の名前が芯地に昨夜の出来事を思い出させた。


「無いから。無いから。何でそうなるの」


 手を顔の前でパタパタしながら笑顔のまま愛華はロッカーに寄り掛かった。


 朱音は芯地の曇った表情を見逃してはいなかった。ケラケラ笑う愛華の話相手をしながら芯地を時折眺めていた。





 芯地は千恵に澪奈を任せた事が逃げる行為ではないか、かと悩んでいた。


 最善の策など彼にはわからないが、取り敢えず地獄からは救いあげたといったところだろうか。だが、あまりにも不安定で根本の解決にならない事は明確なのだが、彼にはこれ以外の策を実行するだけの経験や精神的な強さを持ち合わせてはいなかった。


 子供が子供を救ったそれに近いのかもしれない。ようやく光が澪奈を照らし始めた。そう信じこもうと何度も言い聞かせた。


 芯地はただ暗くなりいく階段を睨み付けていた。時間と共に暗くなる階段を、ひろがっていく暗闇を。その闇を見ていると落ち着いた。時折相槌をうち又闇を睨み付けていた。


「芯地……。大丈夫?」


 朱音はそう言い、彼の肩を揺すった。彼はハッとした。


「あ、大丈夫」


 自らが何かを求める為に見ていた闇から目を逸した。


「怖い顔してたし、だいたい顔色も悪いし」


「本当に大丈夫だから」


「心配してあげてんのに」


 そう言い朱音は何処かに愛華を追払いたい気分になった。


 芯地は再び暗闇のほうを見たくなったが、朱音をしっかりと見た。彼女はまだ何かを言いたそうにしている。


「澪奈に何かあったんでしょ?」


 朱音がそう言うと、芯地の心臓が僅かに跳ね上がった。気持ちが悪いくらいに鼓動が激しく強くなる。返事が中々出来ない。


「ワタシだけにでも話してくれない?」


 朱音の発言に愛華はいずらそうな表情をした。芯地は愛華がいる事に構わず昨夜の事を話始めた。


 場所を教室にうつし話せるだけ話した。芯地は少しだけ心が軽くなり気分が良くなりつつある。


「朱音。澪奈にあってやってくんない?」


「え?」


 朱音は困惑した。


「良いけど……。何をしてあげたら良いか分かんない」


「澪奈にあってくれるだけでいいから。澪奈も朱音が来れば喜ぶし」


 朱音は頭を抱えるように手を頭にあてながら頷いた。


「ねえ、私もあいにいっていい?」


 愛華は遠慮気味にそう言った。


「え?」


「芯地君の彼女さんの事心配で……」


「ありがとう。ありがと」


 その言葉を聞き愛華はホッとした表情をした。


「じゃあ。行くか」


「え? 今から?」


「澪奈。精神的に参ってるみたいだから」


 芯地はそう言い乱暴にイスから腰をあげ、二人に目で行く事を促した。


「……分かった。可愛い澪奈の為にも行くよ。愛華も行ける?」


 朱音も立上がり、愛華を見た。愛華は朱音の目を見て頷き腰をあげた。


「二人共ありがと」


 真剣な表情でそう言い芯地は軽く頭を下げた。




   ・ ・ ・




 部屋の隅に山積みにされた衣服。日は既に沈みそうで辺りは暗くなりつつあるのだが、畳の部屋にひかれた布団で澪奈は寝ていた。彼女の睡眠を邪魔する夢が徐々に迫っていた。


 窓が一つに机が一つだけの殺風景な部屋がある。ベッドに寝転がるのは澪奈。ベッドから何故か起き上がれない彼女は辺りを虚ろなな目つきで見渡した。


 それと同時に鼻につく凄まじい臭い。彼女のハムスターが夏場に死んだ時の記憶を思い出させると共に震えが止まらなくなった。


 ベッドのシーツについている赤い手形。それからスーっとのびる赤い線を辿ってみると血だらけの人が倒れている。芯地だ。彼の黒いシャツは血が滲み不気味な色になり、瞳孔は開ききっている。


 (これは夢だよね……?)


 頭ではわかっていても夢の中で彼女は愕然とした。叫ぶ気も逃げる気も無くし、身体の芯から来る無意識の震えが強まった。


 涙だけが流れシーツを濡らしていく。ドシ、ドシと恐れていた足音が階段を登ってくる音が聞こえてくる軋む音と強い息遣い。彼女自身の心臓の鼓動だけが焦りだし痛くなるほど激しくはやくなる。


 鼓膜がピクピクと振動しると同時に部屋のドアが激しく開いた。澪奈の血の繋がらない父親がじっと見ている。男は全身に大量の返り血を浴びており、顔についている血が血飛沫の勢いを物語っている。


 男は無表情のままドアを閉め一瞬、芯地の死体を見てから、ベッドの上で震える澪奈に歩みよった。かつての出来事のように男は澪奈の両手を押さえ付けながら顔を近付けてきた。


 澪奈は思いっきり目を瞑り、事が済むのを待ち続けていた。澪奈の心はかつての出来事で一度死んでいた。


 目を開くとそこは殺風景な部屋でもベッドの上でも無かった。部屋の隅に積まれた衣服。畳の部屋にひかれた布団。千恵の匂いがする優しい空気が漂う部屋にいた。やわらかい毛布を肌で感じながら澪奈は目を両手で覆った。


 (夢で良かった……)


 止めども無く溢れる涙で枕が濡れていった。





 涙で滲む視界を窓から外に向けた。暗くなりつつある空を見て澪奈はハッとした。布団から、ゆっくりと這い出て立ち上がり、携帯電話を見て時間を確認、既に十九時近い。


 昼からずっと寝ていた事に腹立たしさを感じながらも、今朝より気分が良くなったからよしとしようと彼女は自らに言い聞かせた。


 その時、玄関から鍵の開く音と共にガチャ、とドアが開き、そして、閉まった。澪奈は涙を拭い不自然で無い様に布団の上に座った。静かな足音で近付いてきて澪奈のいる部屋に入ってきた。


「ただいま。澪奈」


 千恵は澪奈の様子をみながら、濡れたスウェットの袖に気が付いた。


「おかえりなさい……。千恵さん」


 笑顔で返す澪奈を見て千恵は内心苦しくなったが笑顔で「『おかえりなさい』とか言われるの久し振りだから、照れるなあ」と言った。


「あ、そうだ。芯地が来るって行ってたよ。もう来るんじゃないかな?」


 付け加える様に言い澪奈の隣りに座った。


「え? 本当? こんな格好だし着替えないと……」


 そういい終えるのと同時にチャイムが鳴り響いた。


「あ、芯地じゃ無い?」


 千恵はそう言いながら玄関へと走って行った。覗き穴を恐る恐る覗く。芯地の顔を確認すると鍵を開けドアを開けた。


「お! 芯地きやがったな!」


 千恵の笑い声と芯地の声が玄関から聞こえて内心来訪者に恐怖を抱いていた澪奈は胸を撫で下ろした。


 立ち上がり盛り上がる玄関の方へ向った。芯地の姿を確認し、笑顔で近付くと。


「澪奈。久し振り」


 芯地より先に澪奈に話しかけたのは朱音だった。


「朱音……。久し振り!」


 澪奈がそう言うと朱音は靴を脱ぎ澪奈へと歩み寄った。澪奈は朱音に軽く飛び付いた。


「飛び付くなら、芯地に飛び付けよ」


 朱音は笑顔でそう言った。


「何それー?」


 相変わらずツンとした朱音の雰囲気に澪奈は思わず笑った。


「澪奈。今朝は学校休んだ見たいだけど今は体調大丈夫なの?」


 二人の会話に割り込んで入ってきた芯地は心配そうに澪奈を見る。


「あ……」


 澪奈は千恵を軽く見た。千恵は「ゴメン」と口を動かし顔の前で両手を合わせた。


「千恵さんには芯地に言わないでって言ったのに……」


 独り言をポツンと零した。


「澪奈?」


「あ、大丈夫。心配しないで」


 そう言いながら澪奈は初めて見る愛華を見た。


「愛華。高校の友達。澪奈の事話してたら心配だからって来てくれたんだよ」


 澪奈が愛華を見ている事に気がつくと芯地はそう紹介した。愛華は軽く頭を下げ、緊張した面持ちで芯地や朱音の近くにきた。


 澪奈は愛華を眺め一瞬、芯地の浮気心を疑いそうになるが「私の為にありがとう」と素直で気持ちで愛華に言った。


「いえいえ」


 手を遠慮気味に横に振りながら、愛華は照れ笑いを浮かべた。


「部屋はいんな皆。そんな場所で立ち話してないで」


 千恵が一足早く、部屋に入り、山積みの服を片付けながらそう言った。その声を聞いた四人は部屋へと入った。


 畳の部屋にひかれた布団は千恵がしまい、山積みになっていた服も無くなっている。六畳ほどの部屋に五人いると狭苦しい感じだが小さい丸い机を囲み座った。


「元気そうだね。良かった」


 朱音は安堵の色を浮かべた。

「誰のこと?」


 澪奈はわざと惚けた。


「澪奈に決まってるから」


「朱音ありがとう。全然元気だから大丈夫だよ」


 笑顔で言う澪奈を見て千恵は濡れた袖を思い出し心が痛くなった。


「狭い部屋っすね」


 一人だけ馬鹿な事を言う芯地を千恵はつねった。


「いてえー!」


「狭くて悪かったね」


 そんな二人の様子を見て澪奈も朱音も笑った。愛華はまだ緊張した面持ちのまま遠慮気味に笑った。


 話しているうちに愛華も初対面の人達に打ち解け、話の軸になり笑っていた。逆に澪奈と芯地は会話にまじらわず、二人だけ時々弾まない会話を弾ませようとしていた。


 愛華、朱音、千恵の三人は好みの男性の話やアーティスト等の話で大騒ぎしていて、愛華と朱音は何の為に来たのだろうか、という疑問を芯地は少し感じながらも、独りで背負っていた荷をおろせて精神的にやや楽になり表情に余裕がでてきていた。


「澪奈がいるし、独りじゃ無かったか……」


 そんな独り言を小声で洩らした。


「ん? 何か言った?」


 澪奈が不思議そうに目をパチパチしながら芯地を見た。


「何でも無い。……澪奈、独りじゃ無いよ」


 そう言い澪奈の手に手を重ねた。澪奈はハッとした表情をした。


「うん。ありがとう」


 周りの目を気にしながら囁いた。手から伝わる生きた体温を感じ安堵の色を浮かべた。


 手から伝わる体温。芯地の動く瞳。呼吸をする様子。全てを確認するように見ながら夢で見た死体を思い出した。


 何時かあの出来事が現実になるのでは無いか、と。芯地を失う事に対する不安が常に付きまとい彼の存在が安堵を与えつつも、不安も与えている。全ての不安を断ち切るように澪奈は芯地の重なる手の上にもう一方の手を重ね、握り締めた。





 少し驚いた芯地は澪奈の顔をじっと見た。二人の顔はやや赤くなっている。熱を帯びた手、心臓の鼓動がはやくなりつつある。


「何いちゃついてんのー? 他でやってよね」


 やや高い声色で朱音が恥ずかしそうに言った。咄嗟に二人は互いに重ねる手をひいた。


「別にいちゃついてねえよ」


 芯地は邪魔された事に腹をたてると同時に恥ずかしくて強い口調で言った。愛華と千恵はそんな芯地を見て笑っている。


 澪奈は恥ずかしさを紛らわす為に千恵がいれてくれた紅茶を口に含んだ。紅茶の香りが安らぎを与え口に広がる弱い渋味と甘さが幸せを与える。だが再び夢の中の光景が脳裏を過ぎった。


 緩んでいた口許から笑みが消え、さーっと顔から熱がひいた。先程まで安らぎを与えた紅茶の匂いは、すえた臭いが混じり、幸せを与えた味わいは喉を通らなくなった。澪奈は静かにコップを置き、鳥肌のたつ腕を擦った。


 他の四人は盛り上がって話題は次から次へと変わり、終いには朱音の恋愛話まで行き着いた。


「あんな奴知るかよ」


 彰の名前を芯地から出され朱音は不機嫌そうに言った。


「どんな人なの?」


 愛華は好奇心に満ちた瞳で朱音をじっとみる。


「んん。この話は終りー。終り終り終りー」


 朱音は面倒くさそうにそう言い紅茶を飲み干しコップを乱暴に置いた。


「朱音怖いー」


 愛華の明るい笑い声を聞き流しながら芯地は澪奈を気にかけていた。澪奈は黙ったまま一点のみを見ている姿は重苦しい雰囲気で、目は普段の半分ほどしか開いていない。


 肌白い顔は普段より色が無く如何にも具合が悪そうだ。話しかけるべきか否か、芯地は迷っていた。自分に出来る事は何があるのか自信が無かった。ただ見守るようにその場はやり過ごしてしまった。




 空は真っ暗になり漆黒の空を寂しげな白い月がか細い光で照らしている。


「もう帰らないと……」


 この愛華の言葉が澪奈を励ます会の終りの合図になった。朱音も愛華に続くように帰ると言い二人は立ち上がった。


「美味かったよ。千恵の料理」


 朱音がそう言い「まあね」と千恵が誇らしげに言うと間髪を入れずに「殆どオレが作ったて言ったじゃん」とやや膨れ顔をしながら芯地が言った。


「ごちそうさまでした」


 愛華は笑顔でそう言い手を振りながら足早に部屋から出ていく朱音の後をついていった。そんな二人を見送る為に澪奈は玄関へと向った。


「朱音、今日はありがとう」


「いいよ。芯地と仲良くね」


 そう言いドアを開け外へと出て行った。


「愛華ちゃん。初対面なのに仲良くしてくれてありがとう」


「また、来てもいいかな?」


 素の笑顔で愛華はそう言った。最初に対面した時の緊張感は殆ど感じられない。


「また来てくれるの? 嬉しい」


「絶対、絶対に来ちゃうから」

 二人で笑った。


「おーい。愛華まだ……、ていつの間にか二人共そんな仲良くなったわけ?」


 ドアが再び開き呆れ顔で朱音は言った。


「最初からだよ」


「最初からっ」


 二人で口を揃え再び笑った。

「メアドも交換したよ」


 愛華はそう言って澪奈の顔を見た。まだ笑う二人を呆れ顔で見ながらも、楽しそうな澪奈を見て朱音は明るい愛華が来てくれて良かったと心の中で思った。


「じゃあ帰ろ。愛華」


 そう言いドアを開けた。


「はーい」


「二人共バイバイ」


 笑顔で手をふる澪奈に愛華も手を大きくふり、そしてドアが閉まった。澪奈は静かになった玄関で数秒立ち尽くした後、千恵と芯地がいる部屋へと戻った。


 「二人は帰ったー?」芯地は畳の部屋の隣りの部屋を千恵と片付けながら澪奈の顔を見ずに言った。


「帰ったよ」


「そっか」


 芯地は楽しそうな澪奈の声を聞いて嬉しい気持ちになった。

「何一人で笑ってんの? 芯地キモーい!」


 千恵が茶茶を入れた。


「澪奈が楽しそうで良かったて思ってたんだよ。いちいちうるせえよ」


「千恵様に『うるせえよ』て言ったなあ?」


 声高に千恵は言った。


「はいはい。すいませーん」


 妙に素直、というよりはいわされた感のある芯地の声を聞いて澪奈は微笑んだ。隣りの部屋を覗き込むと、積まれた雑誌を芯地は一人黙々と紐で結び束にし、何回もそれを繰り返している。


「私も手伝うよ」


 そう言い芯地の隣りに向かうが「澪奈は体調良くないから駄目だよ。芯地一人にやらせてあげて」と千恵が真剣な顔で澪奈に言い芯地の方を見て笑った。


 「全部一人でやらせていただきます」


 そう言い芯地は笑顔混じりのまま千恵を睨み付けた。




   ・ ・ ・




 街灯が点々と等間隔に並ぶ車がすれ違うのがギリギリの道を朱音と愛華は歩いていた。朱音は空を見て思わず溜息を洩らした。


「さっきから溜息ばっかだよ」


 愛華は朱音の顔をのぞくように見ながら返事を待つ。


「色々あるんだよね」


 朱音はそう言い再び空を見た。返答を聞き内心落ち込む愛華。心を開いてくれていないと考えると、寂しかった。


「色々あるんだあ。聞きたいけどなあ……。まあしょうがないか」


 濁した言い方しか出来ない。朱音は突然立ち通った。愛華もそれに気が付き立ち止まりじっと彼女を見た。


「聞いてくれる?」


 街灯に少し照らされた朱音の顔には寂しげな表情が垣間見られた。







   ・   ・   ・




 ラップをかけた皿を冷蔵庫に入れ溜息を吐く女性がいる。歳は四十に差し掛かり始めだが、三十代前半と言っても過言では無い若々しさを持っている。椅子に腰掛け時計を睨み付けると再び溜息を吐いた。


「愛華は何処で何をしているの……」


 そう言い先程見た愛華の日記の文面を思いだし顔をしかめた。芯地という少年の名前が気になって仕方が無かった。女は痺れを切らし、愛華の携帯電話の番号のダイヤルを押した。




   ・  ・  ・




 朱音に別れを告げ、愛華は電車から降りた。改札を通り、外に出た彼女は朱音が寂しそうに見ていた空と同じ空を見上げた。


 そして先程朱音から聞いた話を深刻に考え始めた。デートを突然キャンセルされた事や、彼氏の悪評を時々聞く為不安だという事。


 愛華は自分の身に降り懸かった事の様に真剣に話を聞いていた。何よりも彼女は嬉しかったのだ。友人が弱音を話してくれたことが。そして何か役に立ちたかった。もう二度と建前だけの友達だと思われたくなかった。


 夜道を進む事、数分。そのような事を考えながら歩いていると彼女の携帯電話が音をたてた。二つ折の携帯電話を開き眩しい画面を見ると母親からの電話だ。


 愛華は迷惑そうに顔をしかめると携帯電話を閉じ鞄にしまった。数十秒鳴り続けたがとまった。彼女は溜息を吐いた。


 そうこうしている間に彼女の家の前まできていた。時刻は既に二十三時を過ぎようとしている。内心落ち着かないまま家の鍵を取り出し鍵を開け、ドアを開けた。愛華の目に飛び込んだのは腕を組み彼女を睨み付ける母親の姿だ。


「今、何時だと思ってるの?」


「十一時」


「そう。夜の十一時。いつも遅くなる時には電話してって言ってるよね? お母さん、愛華に電話かけたのにでさえしないじゃない! 何処で何をしていたの?」


 眉間に皺をよせ、そう口早に続けると、返答があるまで静かな時間が過ぎていく。不貞腐れた様子の愛華を暫く見ながらあの名前を口に出した。


「どうせ。芯地とかいう男の子の家に遊びに行ったんでしょ? だから言えないんでしょ?」


 言った後に“しまった”という様な表情をした。


 その瞬間、愛華の聴覚が凍り付いた。忌々しい記憶ともいえる過去の出来事。母親が彼女の日記を密かに読んでいた事。


 親にさえも信用されていないのではないか、と中学生の彼女は深い傷を心に負った。そして今、唇の震えがとまらなくなった。怒りという感情が全身を駆け巡り髪が逆立つ様な錯覚を覚える。


「まだ日記読んでたんだ……。芯地なんて名前、あんたが知ってるはずない」


 普段より低く小刻みに震える声が重苦しい雰囲気を濃くした。


「あ、愛華……。お母さんは、愛華が心配……」


「言い訳なんて聞きたくないっ!」


 最後まで聞かずにそう怒鳴り、母親の隣りを通り過ぎ、階段を足早に登った。


 自分の部屋に入り、彼女は怒りで爆発寸前の頭を落ち着かせる為にベッドに腰掛け、深呼吸をした。髪をクシャクシャと手でしながら、バックを壁に投げ付けた。


 その時、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。愛華は母親だと思い返事をせずにいたが、ドアは開いた。部屋に入り、静かにドアを閉めたのは妹の里奈であった。


「あ……、里奈」


「愛ちゃん、大丈夫?」


「うん……」


 里奈は愛華の隣りに座り、母親そして彼女に似た姉を観察するように眺めた。何も話さない愛華から視線を外し、やや大きいスウェットの袖を手で弄りながら床を見た。


「愛ちゃん。さっき凄い怒ってたけど、神経質なババアが何か言ってきたの?」


「日記読んだみたい」


「愛ちゃんの?」

「そう」


 普段の半分ほどしか開いていない愛華の目から感情を感じとるように里奈は見つめたが、何も感じられなかった。明るい姉の意外な一面に驚きながら、沸々と母親に対する怒りがこみ上げてきた。


「あいつ……」


「里奈やめて」


 里奈の目を愛華は大きな見開いた目で見た。


「でも」


「いいから! 争うの見たくない」


「愛ちゃん……、いつもそう言って我慢する。損するのは愛ちゃんだよ」


 愛華の返事は無く、静かな時間が刻まれた。




   ・  ・  ・  




 同じ頃、朱音は、ようやく自分の家に着き、扉を開けた。紫煙をふわふわと空気に漂わせながら何時ものように美咲が玄関へと歩いてきた。


「良かった。家出しちゃったかと思ってた」


「え? なにそれ?」


「だって昨日、派手に喧嘩したから」


 朱音の脳裏に昨夜の皿を割った音が過ぎった。


「あんな奴にキレたらだめ。わかった?」


「美咲は何でキレないの?」


「もう飽きたから。呆れきってるから……」


 朱音の脳裏を何時かの美咲の姿が過ぎる。ぐしゃぐしゃのゴミだらけのリビングの中心で泣きながら『私がしっかりしないと』そう呟いた中学生の頃の彼女の姿は忘れられなかった。


「煙草やめたほうがいいよ」 

 頼れる姉に言う唯一の文句を何時ものように笑顔で言った。







・   ・   ・




 湿った茶色の髪をタオルでぐしゃぐしゃに拭きながら、芯地は先ほど片付けをさせられた部屋にひかれた布団に寝転がった。


 勢いで泊まる事にしたが、彼は帰りたかった。独りになると押し寄せて来る不安と現実から逃げたがっている自分への苛立ち。それが澪奈が側にいる事で一層濃くなるのだ。夜という暗闇は人をネガティブな方向へと引きずり込む事がある。


 隣の部屋では澪奈は独り妙に鼓動が高鳴っていた。今は千恵は風呂に入っていて、今日初めての二人きりだからだ。


 隣りの部屋にいる芯地のもとに飛んで行きたいがなかなか行けずに部屋をオロオロとさまよいながら何度も同じ問いかけを自分にしていた。


 (芯地のところに行きたい……。でも何か行けない)


 それを繰り返し既に十回は過ぎていた。ようやく部屋の出入りをする唯一のドアの前に立った。開けようと手をのばすが中々手に力が入らず、直ぐに手を引っ込めた。


 そこで、思い切ってノックという手を使った。コンコンと鳴らすと芯地の「何〜?」という力無い返事が返ってきた。澪奈は声を聞くと不思議と力が抜け、高まる鼓動を感じつつ芯地のいる部屋に入りドアを閉めた。


 布団に座りながら芯地は澪奈を見た。風呂上がりの芯地のやや赤い肌に鼓動が力強い反応をしめした。ボーっと立ち尽くす澪奈の様子に気がつき芯地は立ち上がり歩み寄った。


「どうしたの?」


「あ、いや。何でも無いんだけど、変な事聞いていい?」


「ん?」


「芯地、この先、私とずっと一緒にいてくれる?」


 それに対し芯地は恥ずかしそうに頷いた。澪奈にとっては、それだけで十分だった。だが何か物足りない感覚もあった。


 澪奈は芯地に更に近づき顔を近づけた。芯地の顔を見ながら、熱を帯びる顔と、爆発しそうな鼓動に躊躇しそうになるが、目を瞑り、唇を重ねた。


 重なる唇の柔らかさ、向きをかえる毎に擦れ当たる鼻に、熱い気分になりつつ彼女は幸せを感じ取った。これから先、一生一緒にいられる事を信じながら、不変の想いを確かめるように唇を重ね続けた。




  ・   ・   ・




 人の約束した想いや絆は簡単に崩壊し、心に深い傷を残す事だろう。世界で一番不幸なのは“私なんだ”そんな事を考えまた一段と階段をのぼる事も必要だろう。だが、朱音や澪奈の家庭の場合はどうなのだろうか。


 青春などと世間が言うイメージとかけ離れた家庭の事情、二人の場合は親の不倫と親からの虐待はこれからどんな影響を与えるのだろうか。不公平ともいえる世界で人は生きながら何を感じ、何を愛し、何を憎むのか。高校一年生の春。この話はまだ始まりに過ぎない。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ