『赤ずきんちゃんの夏休み ~オオカミはおばあちゃんのお金を狙わないでください~』
色あせた赤いパーカーのフードを深くかぶり、アカリ――近所から「赤ずきんちゃん」と呼ばれていた中学一年の少女は、ゆっくりと進む単線のローカル列車に揺られていた。
自宅での暮らしは、いつも薄暗い緊張の連続だった。
母は夜の街へ出たきり何日も帰らず、父は気に入らないことがあると怒鳴り散らし、灰皿やグラスを床へ叩きつけた。散乱する空き缶と腐りかけの生ゴミ、空っぽの冷蔵庫。妹のオムツを替え、空腹に耐えながら掃除機をかけるのが、物心ついた頃からのアカリの日常だった。生き延びるためにフライパンを握り、怒鳴られないために味付けを覚えた。誰かに褒められることのない、終わりの見えない「作業」だった。
けれど、今年の夏休みは違った。
アカリの異変に気づいた学校と児童相談所が間に入り、母方の祖母の家で一ヶ月間だけ暮らすことが認められたのだ。
「よく来たねぇ、アカリちゃん。遠かったろう」
深い緑に囲まれた田舎町の外れ、小さな平屋の前で待っていたのは、祖母のフミだった。
膝を悪くして要介護1の認定を受けているフミは、トイレや着替え、お風呂は自分でこなせるものの、重い荷物を提げて坂の下にあるスーパーまで往復することができない。杖をつきながら、けれど顔いっぱいに温かな笑みを浮かべ、アカリの手を両手で包み込んでくれた。
「これ、最近始めたのよ。一人だとどうしても話し相手がいなくてねぇ」
フミはおぼつかない手つきで、年配向けのスマートフォンをアカリに見せた。画面には、見ず知らずの人たちと言葉を交わす地域交流のSNSが開かれている。「今日も庭の朝顔が咲きました」「遠くに住む息子の健一は元気にしているかしら」といった、日常の素朴なつぶやきが並んでいた。
この家には、怒鳴り声も、何かが割れる乾いた音もない。
朝、鳥のさえずりで目が覚め、窓を開けると青い草の匂いが流れ込んでくる。昼はフミと一緒に台所に並び、夕暮れには縁側で風鈴の音を聞きながらスイカを食べた。二人で他愛のない話をしながら笑うだけで、擦り減っていたアカリの心は、ゆっくりと解きほぐされていった。
「今日はね、肉じゃがを作ろうね。落とし蓋をして弱火でコトコト煮ると、煮崩れずに味がよく染み込むのよ」
祖母の隣で包丁を握る時間が、アカリは何より好きだった。
野菜の皮の剥き方、出汁の取り方、醤油とみりんを合わせる絶妙な塩梅。フミは急かすこともなく、「上手だねぇ、アカリちゃんは筋がいい」と目を細めて褒めてくれた。生きるための義務でしかなかった料理が、誰かと笑い合うための温かい時間に変わっていく。
――ずっと、この時間が続けばいいのに。
アカリは、小さく縮こまっていた自分の背中が、少しずつ伸びていくのを感じていた。
穏やかな日々が二週間ほど過ぎた、強い日差しが照りつける午後のことだった。
居間の黒電話が、甲高く鳴り響いた。
受話器を取った祖母の背中が、みるみるうちに強張っていく。
「え……健一が? そんな……車で人を……? 示談金、に、二百万円……!?」
健一とは、家を出たまま何年も音沙汰のないアカリの叔父の名だ。
受話器を置いた祖母は顔面を蒼白にし、震える手で箪笥の引き出しを開けようとした。
「アカリちゃん、大変だよ……健一が事故を起こして、今すぐお金を払わないと刑務所に入れられちゃうんだって。『大上』さんっていう健一の知り合いの方が、近くまで集金に来てくれるそうなんだけど……どうしよう、定期を解約しないと……」
パニックに陥る祖母を見て、アカリの頭の中は、一瞬で氷のように澄み渡った。
親が帰らない夜、空腹と孤独を紛らわせるために一人で見つめ続けたテレビ画面。幾度となく流れていた「オレオレ詐欺」「特殊詐欺」の特集番組が、鮮明に脳裏をよぎった。
(叔父さんの名前を知っているのは、おばあちゃんがSNSに息子の名前を書いていたからかもしれない。事故の話も、急な示談金も、見知らぬ代理人も――テレビで見た手口とそっくりだ)
自分の親の崩壊は止められなかった。
けれど、ここで私を人間として抱きしめてくれた、世界で一番大切なおばあちゃんだけは、絶対に傷つけさせない。
「おばあちゃん、落ち着いて。座って、深呼吸して」
アカリは祖母の肩に手を置き、静かな声で言った。
「これは詐欺かもしれないよ。健一おじさんは事故なんて起こしてないかもしれない。お金を取りに来る人は、危ない人かもしれないから」
「えっ……でも、電話口の健一は、本当に苦しそうで……」
「確認するから、待ってて」
アカリは自分のスマートフォンを取り出し、迷わず110番を押した。
家庭の修羅場や役所の窓口で大人たちと渡り合ってきた経験が、アカリの声を極めて冷静に保たせていた。
「祖母の家にオレオレ詐欺の電話がかかってきました。『大上』と名乗る人物が、これから示談金の二百万円を取りに来ると言っています。祖母は動揺していて、手口を聞くかぎり、詐欺の可能性がとても高いと思います」
電話口の警察官は要領を得た説明をすぐさま把握し、簡潔に指示を出した。
『落ち着いてよく知らせてくれたね。絶対に犯人と直接対決しようとしたり、外に出て刺激したりしないで。相手が来ても玄関の鍵は開けず、インターホン越しに“体調が悪くてすぐにお金を用意できないから、少し待ってほしい”とだけ伝えて、君たちはお風呂場か奥の部屋へ隠れていなさい。今すぐ近くのパトロール隊を急行させるから、電話はこのまま繋いでおくよ』
「わかりました」
アカリは通話を繋いだまま祖母の手を取り、玄関から一番遠い奥の仏間へと誘導した。
「おばあちゃん、警察の人がすぐ来てくれる。玄関のチャイムが鳴っても、絶対に開けちゃダメだよ」
怯える祖母の背中を、アカリは両手で包み込むように擦り続けた。
それからしばらくして、砂利を踏みしめる荒い足音とともに、玄関の引き戸がガタガタと乱暴に揺らされた。
「こんにちはー! 大上です! 健一さんから頼まれて集金に来ました! 開けてくださーい!」
男の声はどこか苛立ちを含んでいた。フミがびくっと肩を震わせる。アカリは祖母の指をきゅっと握り、息を潜めた。
その直後だった。
「警察だ! 動くな!」
「うわっ、なんだお前ら――放せ!」
庭先から鋭い怒号が響き渡り、続いて激しいもみ合いの音と、何かが倒れ込む鈍い音が土間に響いた。
駆けつけた私服警察官たちが、玄関先で待ち構えて男を取り押さえたのだ。男――大上が見苦しく喚き散らす声が次第に遠ざかり、やがてパトカーのドアが閉まる音がした。
勝手口から警察官が優しく声をかけてくれたとき、祖母は張り詰めていた糸が切れたようにその場にへたり込み、大粒の涙をこぼした。
警察による現場の確認や事情聴取が行われ、フミのアカウントに書き込まれていた個人情報の危険性についても丁寧な説明がなされた。すべてが片付いた頃には、山あいの空はすっかり濃い茜色に染まっていた。
二人きりになった静かな居間で、フミはアカリの小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「怖かったろうに……ごめんねぇ、アカリちゃん。私がお馬鹿なばかりに、あんな危ない目に遭わせて……情けないねぇ」
「ううん。おばあちゃん、何も悪くないよ。悪いのは、騙そうとしたあいつらだから」
アカリは祖母の背中に手を回し、トントンと優しく叩いた。
本当は、心臓が早鐘のように打っていた。大人の荒い声を聞いた瞬間、実家の暗い玄関が頭をよぎり、足がすくみそうだった。けれど、逃げ出さずに済んだ。
「私ね、家でずっと一人でテレビ見てたから、悪いオオカミの手口を知ってたの。役に立ててよかった。おばあちゃんのこと、守れて本当によかった」
お互いの体温を確かめ合っていると、台所からコトコトと煮立つ音が聞こえてきた。出汁の効いた、豆腐と油揚げの味噌汁の優しい香りが、ふわりと居間に漂ってくる。
「あ、お味噌汁、火を止めなきゃ」
「そうだったねぇ。冷めないうちに、夕飯にしようか」
涙を拭いたフミが、いつもの穏やかな笑顔に戻る。
夏休みが終われば、またあの殺伐とした家へ戻らなければならないかもしれない。問題がすべて解決したわけでもない。
けれど――アカリは赤いパーカーの袖を肘までまくり上げ、「私、ネギ刻むね」と元気よく台所へ駆け出した。
すくなくとも今夜は、この温かい食卓で、誰にも邪魔されず安心して眠ることができそうだった。




