プロローグ
午後八時過ぎ。
駅ビルから吹き抜ける夜風が、一日中酷使した目に染みた。
早苗は、駅のホームでずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。銀行の融資事務――一円の狂いも許されない数字の世界で、彼女は「鉄の女」として、完璧な一日を終えてきた。
二歳年下の夫・優太と結婚して、半年。
同じ銀行の営業職として働く彼は、職場では「愛想のいい後輩」として可愛がられている。そんな彼の屈託のない笑顔が、自分を癒してくれると信じていた。
だが、重い玄関のドアを開けた瞬間、その期待はいつも通り、静かに瓦解する。
「あはは! 優くん、それウケる! 嘘でしょ、マジで?」
「マジだって。萌は昔から俺の失敗、笑いすぎなんだよ」
リビングから溢れ出す笑い声。早苗はパンプスを脱ぎ、揃える。
そこには、三足の靴が並んでいた。
優太の革靴、義母・正江のサンダル。そして、その間に割り込むように脱ぎ捨てられた、甘いパステルピンクのサンダル。
隣の家に住む優太の幼馴染、栗原萌のものだ。
リビングの扉を開けると、不健康なほど甘い香辛料の匂いが鼻を突いた。
食卓には、早苗が朝から仕込んでおいた肉じゃがではなく、萌が持ってきたのであろう派手なデリバリーピザの箱が広がっている。
「あら、早苗さん。お帰り。今日も遅いのね」
義母の正江が、満足げにコーラを啜りながら目を向けた。その視線には、嫁を迎える温度など微塵もない。
「……ただいま戻りました。お母様、優太さん。萌さんも、いらしてたんですね」
早苗が会釈しても、優太はスマホを弄ったまま「おー」と生返事をするだけだ。そんな優太の腕に、萌がふわふわした茶髪を擦り寄せる。
「早苗さん、お疲れ様ですぅ。あ、このピザ食べます? 萌、お父さんと二人だと食欲出なくて、ついこっちに来ちゃうんですよね。お義母さんも『萌ちゃんがいないと寂しい』って言ってくれるし」
萌は五年前、母親を亡くしている。以来、正江は「母親代わり」を自称し、隣家の萌を佐藤家の中に引き入れてきた。優太もまた、母を亡くした「可哀想な妹」を守るという騎士道精神に酔いしれている。
その歪な連帯感の中に、後から来た「妻」である早苗の居場所はない。
「早苗さんは仕事が恋人だもんね。事務の数字と睨めっこしてる方が、ピザ食べるより楽しいでしょ?」
正江が皮肉を投げ、萌がクスクスと笑う。優太はそれを見て咎めるどころか、萌の頭を軽く小突いた。
「おい萌、早苗をいじめるなよ。早苗は俺より稼いでるんだから。な?」
優太の言葉は、フォローの形をした毒だ。
早苗は、胃の奥が冷たくなるのを感じながら、独りでキッチンへ向かった。洗い桶には、三人が食べた後の皿が無造作に放り込まれている。
優太と萌。
二人は、幼い頃に父親を亡くした優太と、母親を亡くした萌という「欠けた家庭」同士、手を取り合って生きてきたのだという。その美しい物語の前では、早苗が築いてきたキャリアも、この家に入れている生活費も、ただの「無機質な記号」に過ぎなかった。
「あ、優くん。明日、お父さんが出張でいないの。……一人だと、夜、怖いな」
萌が上目遣いで、優太の袖を引く。早苗の背中で、日常的な「予約」が交わされる。
「しょうがないなぁ、萌は。わかったよ、仕事終わったらすぐ行くから。お袋、明日の飯、萌の分も作ってやってよ」
「ええ、もちろんよ。早苗さんはどうせ明日も遅いんでしょう?」
背後で弾ける三人の笑い声。
早苗は、静かにゴム手袋をはめた。眼鏡が曇る。
彼女は銀行員だ。論理的に考えれば、これはただの古い近所付き合いの延長に過ぎない。そう自分に言い聞かせなければ、今すぐ叫び出しそうだった。
だが、彼女はまだ知らない。
優太が明日「すぐ行く」と言った萌の家が、もはや単なる幼馴染の家ではなく、自分から夫を、そして理性を奪い去るための密室に変貌していることを。
蛇口から流れる水の音が、早苗の心に空いた穴を埋めるように、虚しく響き続けていた。
(第2話へ続く)




