表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/20

プロローグ

午後八時過ぎ。


駅ビルから吹き抜ける夜風が、一日中酷使した目に染みた。



 早苗は、駅のホームでずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。銀行の融資事務――一円の狂いも許されない数字の世界で、彼女は「鉄のアイアン・レディ」として、完璧な一日を終えてきた。

 

 二歳年下の夫・優太と結婚して、半年。


 同じ銀行の営業職として働く彼は、職場では「愛想のいい後輩」として可愛がられている。そんな彼の屈託のない笑顔が、自分を癒してくれると信じていた。

 

 だが、重い玄関のドアを開けた瞬間、その期待はいつも通り、静かに瓦解する。




「あはは! 優くん、それウケる! 嘘でしょ、マジで?」



「マジだって。萌は昔から俺の失敗、笑いすぎなんだよ」


 リビングから溢れ出す笑い声。早苗はパンプスを脱ぎ、揃える。


 そこには、三足の靴が並んでいた。


 優太の革靴、義母・正江のサンダル。そして、その間に割り込むように脱ぎ捨てられた、甘いパステルピンクのサンダル。

 

 隣の家に住む優太の幼馴染、栗原萌のものだ。




 リビングの扉を開けると、不健康なほど甘い香辛料の匂いが鼻を突いた。


 食卓には、早苗が朝から仕込んでおいた肉じゃがではなく、萌が持ってきたのであろう派手なデリバリーピザの箱が広がっている。


「あら、早苗さん。お帰り。今日も遅いのね」


 義母の正江が、満足げにコーラを啜りながら目を向けた。その視線には、嫁を迎える温度など微塵もない。


「……ただいま戻りました。お母様、優太さん。萌さんも、いらしてたんですね」


 早苗が会釈しても、優太はスマホを弄ったまま「おー」と生返事をするだけだ。そんな優太の腕に、萌がふわふわした茶髪を擦り寄せる。


「早苗さん、お疲れ様ですぅ。あ、このピザ食べます? 萌、お父さんと二人だと食欲出なくて、ついこっちに来ちゃうんですよね。お義母さんも『萌ちゃんがいないと寂しい』って言ってくれるし」


 萌は五年前、母親を亡くしている。以来、正江は「母親代わり」を自称し、隣家の萌を佐藤家の中に引き入れてきた。優太もまた、母を亡くした「可哀想な妹」を守るという騎士道精神に酔いしれている。


 その歪な連帯感の中に、後から来た「妻」である早苗の居場所はない。


「早苗さんは仕事が恋人だもんね。事務の数字と睨めっこしてる方が、ピザ食べるより楽しいでしょ?」


 正江が皮肉を投げ、萌がクスクスと笑う。優太はそれを見て咎めるどころか、萌の頭を軽く小突いた。


「おい萌、早苗をいじめるなよ。早苗は俺より稼いでるんだから。な?」 


 優太の言葉は、フォローの形をした毒だ。


 早苗は、胃の奥が冷たくなるのを感じながら、独りでキッチンへ向かった。洗い桶には、三人が食べた後の皿が無造作に放り込まれている。

 

 優太と萌。



 二人は、幼い頃に父親を亡くした優太と、母親を亡くした萌という「欠けた家庭」同士、手を取り合って生きてきたのだという。その美しい物語の前では、早苗が築いてきたキャリアも、この家に入れている生活費も、ただの「無機質な記号」に過ぎなかった。


「あ、優くん。明日、お父さんが出張でいないの。……一人だと、夜、怖いな」


 萌が上目遣いで、優太の袖を引く。早苗の背中で、日常的な「予約」が交わされる。


「しょうがないなぁ、萌は。わかったよ、仕事終わったらすぐ行くから。お袋、明日の飯、萌の分も作ってやってよ」


「ええ、もちろんよ。早苗さんはどうせ明日も遅いんでしょう?」


 背後で弾ける三人の笑い声。


 早苗は、静かにゴム手袋をはめた。眼鏡が曇る。

 彼女は銀行員だ。論理的に考えれば、これはただの古い近所付き合いの延長に過ぎない。そう自分に言い聞かせなければ、今すぐ叫び出しそうだった。


 だが、彼女はまだ知らない。


 優太が明日「すぐ行く」と言った萌の家が、もはや単なる幼馴染の家ではなく、自分から夫を、そして理性を奪い去るための密室に変貌していることを。


 蛇口から流れる水の音が、早苗の心に空いた穴を埋めるように、虚しく響き続けていた。

(第2話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ