第4話 幼児の一手
父の視線は、しばらく外れなかった。
試すような目だった。
昨日よりも、明らかに長い。
普通なら、ただの偶然で片づく程度の差だろう。だが、僕にとっては違う。この人は“何か”を掴みかけている。完全ではないが、無視もできない。
面倒な相手だ。
同時に、使える相手でもある。
「……変な子だな」
父がぽつりと呟いた。
責めるでもなく、笑うでもない。観察の結果としての言葉だった。
「あなたに似たのよ」
母が軽く返す。
「それは否定できんが、赤子の頃からこんな目をしていた覚えはない」
父はそう言いながら、手元の皿にはほとんど触れない。考え事をしているときの癖だ。
いい兆候だ。
人は、迷っているときが一番動く。
確信しているときは動かない。
だからこそ、迷わせる。
それが今の僕にできる最大の介入だ。
問題は、その“材料”だ。
父は封書を見た。帳簿の異常も知った。なら、次に考えるのは誰かの責任だ。
責任の所在を探す。
見つからなければ、作る。
そして、一番弱いところに押し付ける。
――あの下男だ。
だから、そこを先に潰す。
僕はゆっくりと、首を動かした。
視線を、再び使用人たちへ向ける。
あの男は、少し離れた位置にいる。先ほどよりも動きが固い。周囲を気にしている。
変化は出ている。
だが、まだ足りない。
もっと明確に、“触る”必要がある。
ただし――
今は無理だ。
この場では、これ以上の接触は不自然になる。
なら、場を変える。
「アルト、今日は少し外の空気でも吸いましょうか」
母がそう言った。
ちょうどいい。
僕は抵抗しない。
むしろ、少しだけ体を揺らす。
行きたい、という意思表示。
「珍しいな。いつもはすぐ眠るのに」
「今日は起きていたいみたい」
父がこちらを見る。
また、あの目だ。
観察。
測定。
いい。
見ていろ。
どうせ、すぐにもっとおかしな動きをする。
母に抱かれ、食堂を出る。
廊下は静かだ。先ほどの喧騒が嘘のように、人が少ない。
外へ出る。
庭だ。
空は高い。風が冷たい。草の匂いがする。
そして、使用人棟が見える。
目的地はあそこだ。
「今日は暖かいわね」
母が呟く。
たしかに、そうだ。
だが今は、どうでもいい。
僕は身体を捻る。
視線を使用人棟へ固定する。
わかりやすく。
露骨に。
「……あちらが気になるの?」
母が気づいた。
いい観察力だ。
「珍しいわね。あまり興味を示さないのに」
少し考えるような間。
そして――
「少しだけ、近くまで行ってみましょうか」
通った。
小さな変化だが、確実な一手だ。
僕は内心で息をついた。
この身体でできることは限られている。
だからこそ、誘導する。
相手に“選ばせる”。
使用人棟に近づく。
空気が変わる。
人の気配が濃い。生活の匂い。油と布と汗の匂い。
母の足が止まる。
「ここまででいいわね」
当然だ。
貴族が踏み込む場所ではない。
だが、ここで十分だ。
人の出入りが見える。
そして――
出てきた。
あの男だ。
水桶を持っている。動きは慎重だ。さっきよりも明らかに周囲を気にしている。
視線が合う。
一瞬だけ。
それで十分だ。
僕は、手を伸ばす。
今度は、無理に届かせようとはしない。
ただ、伸ばすだけ。
意味はない。
意味がないように見えることが重要だ。
「……?」
男が止まる。
わずかに、足が止まる。
迷いだ。
そして、その迷いが、次の行動を変える。
男は一歩だけ、こちらに近づいた。
ほんの一歩。
だが、それで距離は縮まる。
母がそれに気づく前に、男が軽く頭を下げた。
「失礼いたします」
声は小さい。
だが、はっきりしている。
僕は、その瞬間を逃さない。
もう一度、手を伸ばす。
今度は、触れた。
指先が、男の手の甲に触れる。
その瞬間――
視界が弾けた。
断片が、はっきりと形を持つ。
同じ男。
だが、場所が違う。
広い部屋。帳簿が並ぶ。人が動く。
そして、男が言う。
「この数字はおかしい。やり直せ」
声が強い。
迷いがない。
周囲が従う。
その奥で、父が笑っている。
――成功している。
この未来は、破綻ではない。
別のルートだ。
つまり――
この男は、“救えば変わる”。
確定した。
僕は、ゆっくりと手を引いた。
男も同時に手を引く。
目が合う。
さっきよりも、明確に変わっている。
恐怖だけではない。
戸惑いと、わずかな――期待。
いい変化だ。
人は、自分が見られていると知ると変わる。
評価されていると知ると、もっと変わる。
それを利用する。
「……ありがとう」
男が小さく言った。
何に対してかは分からない。
だが、意味はある。
それで十分だ。
「どうしたの?」
母が不思議そうに見る。
「いえ……少し、驚いただけで」
男はすぐに下がる。
だが、歩き方が変わっている。
さっきよりも、速い。
そして、まっすぐだ。
いい。
未来は、動いた。
小さいが、確実に。
僕は息を吐く。
これで一つ。
だが、まだ終わらない。
むしろ、ここからだ。
男を救うだけでは足りない。
父の判断。
帳簿の問題。
そして――
地下の炎。
あの断片が、まだ残っている。
つまり、破綻は一つじゃない。
複数ある。
それが繋がっている。
だから、一つずつ潰すしかない。
順番に。
確実に。
「そろそろ戻りましょうか」
母が言う。
僕は抵抗しない。
もう十分だ。
今日の一手は打った。
あとは、結果を見る。
屋敷へ戻る。
廊下に入る。
その瞬間――
違和感が走った。
空気が、少し違う。
重い。
さっきまでよりも。
前方から、足音がする。
速い。
焦っている。
そして、聞こえた。
「旦那様!」
使用人の声だ。
「王都からの急使が――!」
心臓が、強く打つ。
来た。
次の問題だ。
僕は、目を閉じる。
断片が流れ込む。
炎。
今度は、はっきりしている。
場所は地下。
そして――
その前にいるのは、父ではない。
あの下男だ。
燃えている。
逃げ場がない。
そこで、映像が切れた。
――間に合わない。
いや、違う。
間に合わせる。
そう決めたはずだ。
僕は、目を開けた。
未来は変わる。
ただし――
次は、もっと速く動かないといけない。
少しずつ、歯車は動き始めました。
ただ、その分だけ問題も増えていきます。
次は“王都からの急使”。
ここで一気に、話のスケールが変わります。




