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【未来が見える】赤ちゃんだけど、家の破滅も王都の陰謀も全部回避します ―無力な幼児なのに最適解だけ積み続けたら、いつの間にか最上位にいた件―  作者: 黒川レン


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第1話 揺り籠の中の破滅

本作は「未来を少しだけ見られる赤子」が、言葉を持たない状態から世界に介入していく物語です。

序盤は“できることの少なさ”の中での選択と変化を楽しんでいただければ嬉しいです。

 家が燃えていた。


 夜だった。空は黒く、炎だけがやけに明るい。石造りの屋敷の窓から火が噴き、庭を走る使用人たちの影が、獣みたいに長く伸びている。誰かが叫んだ。聞き覚えのある声だった。たぶん父だ。


 その声は、途中で途切れた。


 ――そこで、目が覚めた。


 いや、正確には違う。最初から起きていた。起きていて、泣いていて、息が苦しくて、それでも、今見たものが夢ではないと理解していた。


「あらあら、アルト様。そんなに泣かなくても大丈夫ですよ」


 女の声が頭上から降ってくる。柔らかい。慣れた手つきで抱き上げられて、視界が揺れた。


 乳母だ、と理解した。


 理解できること自体がおかしい、ということも理解していた。


 視界は低い。首は据わっていない。手は小さい。握ろうとしても空気を掴むばかりだ。つまり、どう見ても赤ん坊だった。


 なのに、さっき見た炎の色だけは、ひどく鮮明だった。


 屋敷。夜。火事。父の叫び。誰かの裏切り。三年後。


 どこから出てきたのか分からない情報が、最初からそこにあった。名前を知っているように、火がどこで上がるかも知っていた。東棟の書庫。次に廊下。最後に玄関前で父が倒れる。


 嫌な確信だった。


「まあ、すごい目。怒ってるみたい」


 乳母が困ったように笑った。


 怒っている、のではない。確認しているのだ。さっき見た光景と、今の屋敷の位置関係が一致しているかどうかを。


 天蓋。窓の向き。壁の刺繍。遠くで鳴る鐘。


 一致した。


 つまり、この家は本当に燃える。


 僕――アルト・ヴァレインは、生まれて数か月で、自分の家の焼け落ちる未来を知ったことになる。


 ずいぶん趣味の悪い人生の始まりだった。


「奥様がお呼びですよ。今日はご機嫌を損ねてはいけませんからね」


 乳母がそう言って部屋を出る。廊下の天井は高く、磨かれた床には人の気配が少ない。静かな屋敷だ。金はある。見栄もある。たぶん、敵も多い。


 説明のつかない確信だけが、次々に浮かんできた。


 この家は辺境伯家の分家だ。

 広い領地を持つが、収穫は不安定。

 借金がある。

 王都の商会と結びつきが深い。

 そして三年後、内部告発と放火で没落する。


 自分でも笑いたくなる。乳も満足に飲みきれない年齢で、家計の破綻予定を把握している赤ん坊がどこにいる。


 ここにいた。


 笑えない。


 扉が開く。


「連れてきたのね」


 若い女の声。母だ。姿を見ると、胸の奥が少しだけざわついた。薄い金髪、疲れを隠しきれていない微笑み、けれど背筋だけは真っ直ぐだ。綺麗な人だった。綺麗で、たぶん、この家で一番長く泣く人だ。


「ええ、奥様。今日はよく泣いておりまして」

「そう。なら、わたくしの顔を見て安心してくれるといいけれど」


 母が腕を伸ばす。抱き取られた瞬間、甘い香りがした。花の香りだ。さっき見た炎の記憶と結びついている。三年後の夜、この香りは煤にまみれていた。


 僕は反射的に母の服を掴んだ。


「まあ」

「奥様、懐いておられますね」


 違う。離したくなかっただけだ。


 この人は死なない。未来の光景には映っていなかった。だが助かることと、壊れないことは同じではない。むしろ、生き残る者のほうが長く傷む。


 それが分かってしまった自分が、少し嫌だった。


「ねえ、アルト。あなたは強い子になるのよ」


 母は冗談みたいにそう言った。


 強さ、か。


 今の僕にあるのは、首の座らない身体と、趣味の悪い未来だけだ。どちらも役には立ちそうになかった。


 部屋の隅で、父が書類を読んでいた。まだ若い。目元が厳しい。いかにも貴族の男という顔で、家族団らんの場にいるくせに、机から半歩も心を離していない。


 この人も、三年後に死ぬ。


 玄関前で、剣を抜いて、誰かを庇って。


 その誰かが誰なのか、そこだけ靄がかかっていた。


「アルトの顔を見ても、まだその紙から目を離せないのですか」

「見ている。今、見た」

「今のは数に入りません」

「厳しいな」


 父がわずかに笑う。母は呆れたように肩をすくめた。


 そのやりとりに、妙な安堵を覚えてしまった。まだ間に合う。少なくとも今は、こんなふうに軽口を叩ける時間がある。


 だが、その安堵の直後、頭の奥に鋭い痛みが走った。


 視界がぶれる。


 父の背後、机の上の書類の束。その一番下にある赤い封蝋。紋章は商会のもの。見覚えがある。いや、見覚えがあるのではない。燃え落ちる書庫の床に散らばっていた。


 あれだ。


 たぶん、あれが最初の火種だ。


「あ……」


 声にならない声が漏れた。赤ん坊の喉は不便だ。危機管理に向いていない。


「どうしたの、アルト?」

「熱でも?」


 母が僕の額に触れる。違う、そうじゃない。父の後ろだ。封書だ。それを破れ。今すぐ。せめて中身を読め。いや読んでいるのか。なら遅い。何が書いてある? 誰が送った? どうすればいい?


 父が封書を別の書類の下にしまった。


 最悪だった。


 この身体でできることは少ない。泣く、寝る、吐く。そのどれも政治向きではない。


 それでも、何もしなければ三年後に全部燃える。


 僕は息を吸いこんだ。肺が小さい。けれど、今できる最大限で叫ぶしかない。


「――あああああっ!!」


 部屋に響く大泣きだった。


「まあ! 本当にどうしたの」

「おい、そんなに泣くな」


 よし。まず視線は集まった。


 父が立ち上がる。母があやす。乳母が慌てて湯を用意しに行く。全員の行動がずれた。たったそれだけのことで、机の端に置かれていたペーパーナイフが父の袖に引っかかり、例の封書が床に落ちた。


 封が半分裂ける。


 中から、紙片が一枚だけ滑り出した。


 父の表情が変わった。


「……これは」

「どうしたのです?」


 母の声が細くなる。父はすぐに紙を拾ったが、遅かった。一瞬だけ見えた。数字の列。納入印。収支報告。偽造だ。


 理解した瞬間、また頭痛がした。


 新しい断片が差し込まれる。


 父がその紙を見たことで、未来がほんのわずかに揺れた。燃え上がる書庫の映像が、一瞬だけ霞む。代わりに別の光景が現れる。暗い牢。震える男。縄で縛られた、見知らぬ下男。


 処刑台。


 そこで映像は切れた。


 今度は何だ。


 火事を避けるのに、どうして下男が出てくる。


 意味が分からない。分からないが、今までの断片が外れたことはない。なら、あの下男は重要だ。父より先に、あるいは父と同じくらい。


「乳母、少し席を外せ」

「え、ええ」

「君もだ。――いや、待て。アルトはここでいい」


 父の声が硬い。母も気づいたらしい。部屋の空気が変わった。さっきまでの軽さが消えている。


 僕は泣くのをやめた。


 泣く必要がなくなったからだ。


 未来は変えられる。


 少なくとも、少しは。


 ただし簡単ではない。火事を見たはずが、今度は処刑台が出てきた。問題は一つではなく、たぶん繋がっている。放火、偽造帳簿、内部告発、下男の処刑。


 そして三年後の没落。


 なるほど。ずいぶん丁寧に破滅する家らしい。


「あなた、何があったの」

「まだ分からん。だが、分からんままにしておくには厄介だ」


 父がそう言って、初めて真正面から僕を見た。


 ほんの一瞬だったが、妙な目だった。ただの赤子を見る目ではない。偶然では片づけきれないものを見た人間の目だ。


 その視線に、背筋が冷えた。


 この人は、何かに気づいたのかもしれない。


 いや、それより先に考えることがある。さっきの下男だ。顔はぼやけていたが、特徴は残っている。痩せている。右頬に傷。怯えた目。たぶん、使用人棟の誰かだ。


 最初に救うべきなのは、父じゃない。


 母でも、この家でもない。


 まだ名前も知らない、あの下男だ。


 そう結論した途端、僕は急に眠気に襲われた。赤ん坊の身体は本当に不便で、緊張感のある決意表明の最中でも、容赦なく電池が切れる。


 せめてもう少し、格好よく締めたかった。


 けれど薄れていく意識の中で、たった一つだけ、はっきり残ったことがある。


 三年後、この家は燃える。


 ただし、何もしなければ、だ。


 なら僕は、まだ喋れなくても、歩けなくても、この家の破滅を先に壊す。


 その始まりが、たぶん、あの下男になる。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。


 まだ首も据わっていない主人公ですが、見えてしまった未来はだいぶ物騒です。

 次は「じゃあ、その赤ん坊に何ができるのか」が動き出します。


 火事の話のはずなのに、なぜか先に浮かんだのは処刑台でした。

 その意味が少しずつ繋がっていくはずです。

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