善悪の剣
「お前さん。何をやっておるのだ……」
背負った籠を下ろし、その老人は男の傍に来た。
「さっき、捥いで来たんだが、良かったら食うか」
老人は男に大きな八朔を手渡した。
「良いのか……。見ず知らずの俺に……」
老人は男に八朔の実を手渡し、
「見ず知らずと言っても、お前さんは既に三日も此処に居る。村のモンは皆知っとるよ」
老人は傍に置いた籠の中に手を入れ、
「そろそろ八朔も終わりだ。良かったらもっとあるぞ」
と男の横に八朔の実を三つ置いた。
「牛も馬も生きてりゃ腹が減る。もちろん人間も同じじゃ……」
老人は籠を背負った。
「良かったら飯を食いに来い。なあに、人まで食う程飢えてはおらんよ」
老人はそう言うと坂を下って行った。
男は道端にある大きな石の上に座り、その老人を目で追う。
坂を下った所にある古びた家に入って行くのが見えた。
男はその村を石の上に座ったまま見下ろした。
山間のその村は川を挟み、その両岸に申し訳程度に集落があるだけだった。
山を越える途中でその村を見付け、この数日、村に滞在していた。
昼間はその石の上に座り、その集落をじっと見て、日が暮れると川の傍に行き、その日食べるだけの魚を採り焼いて食った。
村には村の掟がある。
川を汚す事も無く、流れる川の岸辺で麻布を身体に掛けて眠る。
川の水で腹を満たし、顔を洗う。
冷たい水が心地良かった。
日が落ちて、男は川の傍に向かおうと石から立ち上がった。
すると、さっきの老人が家から出て坂道を上って来るのが見えた。
「おーい」
老人は坂の途中から大声を出して男に手を振っているのが見えた。
男は尻の土を払い、老人の方へと坂を下った。
「お前さん。どうせ今日も川の水を飲んで過ごすんじゃろ……」
老人は口元を緩めて笑う。
「良かったら家に来い。なあに、わしとばあさんの二人暮らしじゃ……。大したもてなしも出来んが、夜の寒さくらいは凌げる」
男は、俯いたまま、
「ありがとう……」
と礼を言った。
「酒は好きか……」
囲炉裏端に座る老人は酒を出して来た。
男はそれを断った。
「酒で後悔する人生を送って来た。それ以来酒は飲まない事にしている」
老人はそれを聞いて頷くと、自分も酒を飲むのを止めて湯飲みにお茶を注いだ。
「名前は訊いてもいいか」
老人は男の湯飲みにお茶を注ぎながら言う。
「佐門だ。荒木佐門……」
「荒木佐門……。お武家様か……」
男、佐門は首を横に振る。
老人はその佐門の様子を見て、それ以上訊くのを止めた。
土間の戸が開き、老婆が顔を出す。
「包丁の切れが悪くて軍鶏が捌けん。包丁を研いでくれんか」
老婆は手に包丁を持ったまま老人に言う。
「暗くなってからじゃ、わしも目が見えん。他に包丁は無かったか」
佐門はそれを聞いて立ち上がった。
「良ければ俺が研ごうか……」
老人は立った佐門を見上げて、
「目立て出来るのか……」
佐門は微笑むと土間へと下りて行く。
そして土間の端に置いていた麻の袋から砥石を取り出した。
老人も土間へと下りて来て、男の取り出した砥石を見る。
「あんた、研師か……。立派な砥石じゃな……」
男は水場へ行き、無言で老婆に手を差し出す。
「包丁……」
「あ、ああ……」
老婆は錆びた包丁を佐門に手渡した。
佐門はその錆びた包丁の刃に親指を当てて、包丁の刃の欠けた部分を見る。
そして、砥石に水を掛けると包丁を砥石に滑らせた。
シャコシャコと心地良い音が土間に響く。
見る見るうちに錆びた包丁は輝きを取り戻して行く。
何度か包丁を洗い、その刃先に指を当て、また研ぐ。
それを繰り返し、老婆の渡した錆びた包丁は輝きを取り戻した。
「良い包丁だ……」
佐門は微笑むと、まな板の上に置かれた軍鶏の首にその刃先を当てて軽く切り落とした。
「ほう……。こりゃ大したモンだ……」
佐門の後ろで腕を組んで見ていた老人は言う。
老婆は佐門から包丁を受け取ると、礼を言い、軍鶏を捌き始めた。
佐門は振り返り、老人に、
「他にも切れ味の落ちたモノはないか……」
と訊いた。
老人は、入口に掛けた鉈を指差す。
「鉈と鎌、鋸だな……」
佐門は微笑むと、
「全部持って来てくれ……。一気にやってしまおう……」
そう言い、壁に掛けてあった鉈を手に取った。
そして、鉈の刃先をじっと見て、研ぎ始めた。
「俺は鍛冶屋だ。これくらいの事は朝飯前だよ」
そう言うと暗い土間で鉈を砥石の上で研いでいった。
鉈の他に鎌を数本、老人は持って来た。
「刃が欠けてしまい、使えん様になった鎌だが……」
佐門は手を止めて、その鎌の欠けた刃をじっと見た。
そして振り返ると老人に微笑む。
「大丈夫だ。十分に使える」
佐門は老人から受け取った鎌を自分の脇に置いた。
「鋸や鑢で研ぐから、端の方にでも置いておいてくれ」
老人は小上がりの端に鋸を置いた。
手際良く研いだ鉈と鎌を壁に掛ける。
そのよみがえった光沢を見て老人は感嘆の息を漏らした。
「ほう……。新田の近久の目立ても上手いが、そんなモンじゃないな……。流石は鍛冶屋だ」
佐門は手を洗うと、丁度出来上がった軍鶏の鍋の匂いを嗅ぎ、腹を鳴らした。
「さ、さ、腹を減らしておられる。しっかりと食え……」
老婆はそう言って鍋を持って部屋へと上がった。
その日、佐門はその老人の家に泊り、翌朝早くに目を覚ました。
外に出て川まで下り、顔を洗うと、腰に下げた手拭いで顔を拭く。
老人と老婆は奥の部屋で眠っている筈で、まだ起きて来る気配は無かった。
老人の家の庭に戻ると、薪用の木材が積んであり、薪割り台になる檜の丸太が据えてあるのが見える。
佐門は傍に置かれた斧を手に取り、割り掛けの薪を次々と割って行く。
「佐門殿。そんな事はわしがやるから、中に入ってお茶でも飲めや……」
老人は薪を割る音で目覚めたのだろうか、佐門の脇まで来て言う。
「一宿一飯の恩義がある。俺に出来る事なら何でもする……。何かあるなら言ってくれ……」
老人はニコニコと微笑みながら、顎髭に手を当てた。
「そうさの……。ならば、また目立てを頼んでも良いかの……」
佐門は薪を割る手を止めて、老人を見た。
「そんな事なら、いくらでもやる。村中の刃物を集めてもらっても構わんよ……」
そう言うと佐門はまた薪を割り始めた。
老人は佐門を見て微笑みながら家を出て行く。
そして隣の家の戸を叩いているのが見えた。
佐門は老人の家で朝食を食べると、表が騒がしい事に気付いた。
「何か、表が騒がしいが……」
佐門は表を気にしながらお茶を飲んだ。
「お前さんに研ぎモノを頼みたい村人が集まってるんだよ。無理にやらんでも良い。やれるだけやってくれたら良い」
老人はそう言って箸を置いた。
佐門はゆっくりと立ち上がると土間に下りて表へ出る。
そこには十数人の女子たちが手に包丁や鎌、鉈などを持って集まっていた。
「佐門殿に目立てをして欲しい人を集めて置いた。この村は男手が少なくてな、包丁を研ぐのにも苦労しとる……」
老人は佐門の肩に手を置いた。
「その水場を使ってくれ」
老人は桶を置いた庭にある水場を指差した。
佐門は微笑むと、その水場に砥石を持って腰掛に座った。
手際良く包丁や鎌を研ぎ、昼前にはそのすべてを終わらせる。
佐門は腰をトントンと叩きながら立ち上がった。
ふと立ち上がると、水場の近くにあった台の上に野菜やら魚、お金が置いてあるのが見えた。
佐門が首を傾げてそれを見ていると、
「佐門殿への感謝の気持ちだろう……。村の者が置いて行ったんじゃ……」
老人は佐門に近付きながら言う。
「有難く受け取りなさい……。此処の者は貸し借りを作る事を嫌う」
「しかし……。そんなつもりで……」
老人は佐門に首を振った。
「しばらくこの村に居るつもりならば、そこの納屋を使うと良い」
老人は、自分の家の脇に建つ、納屋を指差した。
「隙間風が入る所は自分で直すと良い。道具も中に揃っておる……」
老人は声を上げて笑いながら家の中へと入って行った。
佐門は納屋の戸を開けた。
中は綺麗に整頓され、直ぐにでも住める状態だった。
幾つか気になる場所を見付け、しゃがみ込んでその箇所を見る。
その場所に板を打ち付けると、納屋の隅に道具を置いた。
庭に戻り、台の上にあった野菜や魚を抱えて、老人の家の戸を開けた。
「どうした……」
老人は土間に立つ佐門に訊いた。
「これは貰って下さい……」
佐門は抱えた野菜や魚を厨の台の上に置く。
老人はそれを見て、
「すまんの……。あの納屋では飯は炊けん。飯はうちで食うと良い」
老人はニッコリと微笑むと老婆に頷いた。
「納屋で目立ての商売をすると良い」
老人はお茶をすすりながら言う。
「こんな村でもまだまだ人づてに佐門殿の評判は広がる。しばらくは食うには困らんだろう」
佐門は俯いて少し考えたが、老人に頭を下げた。
老人の言う様に、人づてで次の日も包丁などの目立てをして欲しいという村人が集まっていた。
佐門は老人の家の裏に転がっていた大きな桶を修繕し、それを納屋の横に据えて、水を溜めた。
そして座りやすい台を作るとそこで毎日、包丁や鎌を研ぐ。
その評判は村を出て近隣の村にも広がった。
来る日も来る日も佐門は刃物を研いだ。
ある日、その日は大雨で、いつもの様に顔を洗いに川へ下り、納屋に戻ると、其処には一人の男が立っているのが見えた。
こんな大雨の日に……。
佐門は納屋の軒下に立ち、
「目立てですか……」
と男に訊いた。
男はゆっくりと佐門に頭を下げた。
佐門は雨の中に立つ、男を気の毒に思い、納屋の中へと招いた。
「包丁ですか、鎌ですか……」
佐門は囲炉裏の鉄瓶でお茶を淹れ、男の前に湯飲みを置いた。
男は腰に差した刀を抜くと、佐門の前に置いた。
「佐門殿……でしたかな……」
男は土間に膝を突いた。
佐門はコクリと頷く。
「佐門殿は刀の打ち直しは出来ますか……」
男の言葉に佐門はピクリと動きを止めた。
「あ、失礼……。私は隣村の兵衛と申す者。佐門殿の噂を聞き、もしかしたら佐門殿ならばと思い、馳せ参じました」
佐門は黙って男の話を聞いた。
「出来れば、この刀の打ち直しを頼みたいのだが……」
佐門は自分のお茶を一口飲んだ。
そして、兵衛に頭を下げる。
「兵衛殿とやら……。すまぬが、此処には打ち直すための炉がござらん。それに道具も揃っていない……」
兵衛はコクリと頷く。
「それは承知しております。もし、承知して戴けるのであれば、五日……、いや、三日でそれらすべてを揃えてみせます」
佐門は目を伏せる。
「良質の鋼も、何なら助太刀出来る人間も準備します」
佐門は兵衛に微笑み、首を横に振った。
「私は……」
佐門の言葉に兵衛はじっと佐門を見た。
「私は人を斬るモノを作りとうはござらん……」
佐門の脳裏に自分の前で切り殺される人々の姿が蘇って来た。
村には火を放たれ、燃え盛る村の中に馬に乗り刀を振り回す男たち。
女、子供も容赦なく斬り殺される。
しっかりと目を瞑った佐門はそれらから逃げるかの様に首を強く振った。
「佐門殿……。頼みます……。我々は盗賊ではござらん。その悪しき者たちから、善良な者たちを守るために帯刀しておるのです」
佐門は目を瞑ったまま、
「帰って下さい……」
と小さな声で言った。
「しかし……」
兵衛は何かを言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
「わかりました……」
兵衛は土間に突いた膝を上げ、刀を手に取った。
「また来ます……」
兵衛は大降りの雨の中を出て行った。
雨の上がった翌日、また佐門の所には刃物を持った人々が集まっていた。
そんな日々を送っていると、佐門は兵衛の事などいつしか忘れてしまっていた。
その夜はやけに静かな夜で、夜空に満月が浮かぶ様に村を照らしていた。
佐門は老人の家で飯を食べ、納屋へと帰り、預かっている包丁を研いでいた。
その包丁はもう何十年も使い込んだモノらしく、何度も鋼を張り直しては磨き上げたモノで、包丁にしては小さなモノだった。
此処まで大事に使う人もいるんだな……。
佐門は嬉しそうにその包丁を研ぐ。
すると馬の蹄の音が聞こえた様な気がした。
馬……。
佐門は少し気になったが、蝋燭の灯りで包丁を研ぐのを止めなかった。
包丁を研ぎ終え、棚の上に置くと、鉄瓶のお湯を注いで湯飲みですすった。
その時だった。
老人夫婦の住む母屋の方から叫び声が聞こえた。
すると庭には数人の盗賊が老人の家に火を放ち、家の中から何かを盗み出している所だった。
と、盗賊……。
佐門はさっき磨き上げた包丁を手に外に飛び出す。
「おい、もう一人いたぞ」
盗賊の一人が佐門を見付けると大声で言う。
佐門の周囲には三人の盗賊と馬に乗った男が集まって来た。
「なんだお前、そんな包丁で何をする気だ」
馬に乗った男が不敵に笑い、ゆっくりと馬を下り、腰の刀を抜いた。
月明かりでその刀は鈍く光っていた。
「あの人達は……」
佐門はその盗賊に訊いた。
盗賊の男は火を放った家を見て、
「ああ、この刀で斬り殺してやったわ……。何、切れ味も抜群だ……。まだ斬られた事に気付いて無いかもしれんな」
男は声を上げて笑った。
その後に三人の盗賊たちも同じ様に笑う。
「貴様……」
佐門は包丁を男に構え、後退りした。
「お前も斬ってやろう……」
男はそう言うと剣先を佐門の方へと向ける。
「こんな奴、あっしに任せて下さい」
と一人の盗賊が佐門の前に出た。
佐門はその隙を見逃さず、その盗賊の首に包丁を走らせた。
血飛沫が飛び散り、盗賊は首を抑えたまま、地面に転がった。
「貴様」
男は刀を構えたまま、佐門へと突っ込んできた。
それを佐門はひらりと交わし、男の刀を掌手で挟み、根本から綺麗に折った。
刀を折られた男は佐門の技に驚き、後退った。
「斬れ、あの男を斬れ……」
男は残った二人の盗賊に言うが、その二人も佐門の技に恐れ戦いていた。
佐門は二人の盗賊の前に立ち、その二人の首を流れる様に包丁で薙ぐように斬った。
また血飛沫が周囲を赤く染めた。
「き、貴様……」
後退りしていた男は立ち上がり、逃げようとして馬の手綱を取った。
そして馬上に上がった。
佐門は手に持った包丁をその男に投げ付ける。
男はその包丁を眉間に突き立てて、馬から落ちた。
佐門は四人の盗賊が息絶えている事を確認すると、燃え盛る老人の家の中に入った。
土間に横たわる老人と老婆の姿があった。
老婆の方は完全に息絶えていた。
老人にはまだ息がある事に気付いた。
佐門は老人に手を添えて、抱き起した。
「佐門殿か……」
佐門は無言で老人に頷く。
老人は佐門に微笑んだ。
「性質の悪い盗賊だ……。佐門殿も気を付けられよ……」
天井から燃える梁が落ちて来る。
佐門は慌てて老人を抱かかえて外に出た。
「何……。わしはもう助からん……。村の者たちを頼む……」
老人は掠れた声でそう言うと息絶えた。
そこに村人たちが手に武器を持ち集まって来た。
「佐門殿……」
村の人々は口々に佐門に声を掛けた。
佐門は握った拳の中で爪が食い込むのを感じていた。
「佐門殿……」
佐門がその声に振り返ると、隣村の兵衛がそこに立っていた。
そして、息絶えた老人の傍にしゃがみ込み、息絶えている事を確認した。
村の人々は燃える老人の家に桶で水を掛けていた。
兵衛は納屋の前で死んでいる四人の盗賊に気付き、佐門に訊いた。
「あれは、佐門殿が……」
佐門は燃える家を見ながら頷いた。
「兵衛殿……。此処に炉を作って下さい。そして人手を揃えて下さい」
佐門の言葉に、兵衛はコクリと頷いた。
「明日にでも準備に掛かります」
兵衛はそう言うと老人の家の庭から出て行った。
兵衛が揃えた人々はあっという間に老人の家があった場所に刀鍛冶の工房を造りあげた。
そして、若い刀鍛冶を集め、佐門の下で働かせる。
近くの山で質の良い鉄が採れる事もわかり、良い刀を作りあげていく。
それだけではない。
佐門は刀を打つと同時に、村の若い衆に刀の使い方を教える。
「良いか、刀は動けなくするために使え。長い得物は横からの力に弱く、折れやすい。殺す時は短刀で敵の首を斬れ」
大勢の若い衆は声を揃えて佐門に返事をした。
その横で、兵衛は険しい顔で佐門を見ていた。
川で身体を洗う佐門の傍に兵衛は立った。
「佐門殿……」
佐門は振り返り、兵衛に微笑んだ。
「兵衛殿……。そなたも一緒に水浴びはどうだ」
兵衛はコクリと頷くと褌一枚になり、川の中に入って来た。
「鍛冶屋ってのはどれだけ洗っても鉄の匂いが取れんな……」
佐門は兵衛に微笑んだ。
兵衛は冷たい川の中に首まで浸かり、佐門を見る。
「佐門殿……。あなたは単なる鍛冶屋では無かろう……」
佐門は月を見上げた。
「鍛冶屋ですよ……。代々続く鍛冶屋です」
兵衛は佐門の横に来て、石の上に座った。
「代々鍛冶屋なんてやっていると、鍛冶屋の仕事だけじゃない……。他の仕事も受け継がれる……。自分の作った刀の切れ味は自分で試す。そんな事を繰り返していると、人を斬る技術も自然と身について、受け継がれていく事になる……。俺はそれが嫌で、全部捨てて逃げ出したんです」
兵衛は佐門から目を逸らした。
「身近にいる人々を守るための剣。人を斬るだけの剣じゃなく、そんなモノもある。じいさんにそう言われた事を思い出したのです……」
兵衛はコクリと頷いた。
「だけど、そんな事も、時が経てば忘れ去られ、私の教えた剣が単なる人殺しの剣になる。それもわかっています。剣なんてたかが道具で、それを持つ人によって、善悪が分かれる。そんなモノです……」
兵衛は川の水を手で掬い顔を洗った。
「兵衛殿……。此処の衆の行く末はあなたに託します。私は私の持つすべてを皆に伝えますので……」
佐門は川から出ると、褌を絞った。
そして服を着ると工房へと戻って行った。
佐門はそれから二十年程、刀鍛冶をしながら村の衆に剣術を教えた。
刀鍛冶は上手く佐門の弟子が育って行った。
そして佐門の後継人として兵衛が剣術を教える。
佐門は、川の畔で穏やかな表情のまま死んでいたという。
「佐門殿の意志を継ぎ、この道場は私が後を引き受けた」
数十人の門下生の前で兵衛は口を開いた。
「我々が佐門殿の下で学んだモノは剣術では無い。所謂、殺しの技だ……。此処に居る皆が、簡単に人を殺せる術を身に着けてしまった。それは佐門殿が言っておられた様に、どう使うかで善悪が決まるモノだ」
門下生は何も答えず、ただじっと兵衛の言葉を聞いている。
「今日から、お前たちは「十津川衆」と名乗り、その身に着けた力を善の道で役に立てて欲しい」
兵衛は独自にその村の法を決めた。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
それを徹底したのは佐門の教えでもあった。
関東から流れて来た者も多く、村独自の文化を持たず、言葉に訛りも無かった。
それ故に、何処の出身の者かわからず、その後数百年間、その十津川衆の習わしは継承されていく事になる。
しかし、佐門が言っていた様に、時が経てば善悪はその意志からは大きく外れ、十津川衆は暗殺者としての仕事を受ける様になって行った。
「坂本竜馬殿に面会をお願いしたい」
男は小さな声で言う。
「そなたは……」
山田藤吉は男たちを睨む様に見て訊いた。
「十津川郷士でござる」
男はゆっくりと頭を藤吉に下げた。
「十津川……。十津川衆が何の用事だ……」
藤吉は男たちを押し出す様に身体で押しやった。
「坂本さんは風邪をひいて寝ておられる……。また、日を改めて訪ねてくれ」
藤吉はそう言うと、近江屋の玄関の戸を閉めようと手を掛けた。
その戸の隙間に十津川衆を名乗った男は刀の柄を差し込んだ。
藤吉は舌打ちして、眉間に皺を寄せた。
「お前らしつこいな……。約束の無い者に坂本さんを会わせる訳にはいかん……」
そう言いながら戸を開けた。
すると十津川衆を名乗った男たちは刀を抜きながら近江屋の中へと入って来た。
「な、何を……」
藤吉は、刀を抜き、
「坂本さん、逃げて下さい」
そう大声で叫んだ。
しかし、十津川衆を名乗った男はその藤吉を斬った。
藤吉はその場で倒れ、その亡骸を踏みつける様に十津川衆は近江屋の二階へと駆け上って行った。
そして二階の障子を勢いよく開け、剣先を中の竜馬に向けた。
「おまんら誰ね……」
竜馬は火鉢に手を当てたまま訊いた。
「新選組かいな、それとも薩摩のモンか……」
男はゆっくりと部屋に入り、竜馬に剣先を向けて言う。
「我々は……」
龍馬は男たちを睨む。
「十津川衆だ」
男は竜馬に刀を振り下ろした。




