雨漏り
電車内に入ると心地よい冷気に包まれた。
幸運にも三人掛けの座席が空いており、私が中央に、子供を壁側に座らせた。
「思ったより面白かったなぁ」
今年、小学校に上がったのを契機に、息子は生意気な言葉を使いたがるようになった。
「何が面白かった?」
「プラネタリウム!」
連れて行ったのは宇宙科学館。本当はプールに行く予定だったのだが、鼻炎の調子が悪く、鼻水が止まらなかったので断念させた。替わりに妻が見つけた楽しそうな施設に連れて行ったのだ。
「パンフレット見せて」
息子が言ってきた。
「ほい」
と私は手渡す。その時に息子のズボンに染みのような跡があるのに気が付いた。
「汚ねぇな。また手鼻かんで拭っただろ!ちゃんとティッシュでかみなさい」
と私は指摘する。
「やってないよ!」
息子はむきになる。
「じゃあそれなんだ?」
「この電車、雨漏りしてるんだよ」
「は?」
雨どころか、外はうだるような熱気。私は半ば呆れて言った。
「もういい。今度鼻出たらちゃんとかむんだぞ」
「分ってるよ」
息子は目も合わさず、パンフレットを見ながら返事をした。
最近こういう態度も増えた。叱るべきかどうか少し考え、まぁ珍しくアカデミックな興味を持った所に水を差すこともあるまいと、今は思いとどまった。
次の駅に着くと、数人が乗り込んで来た。
息子が正面の席を見て何か言いかける。
「パンフレットはもういいの?」
私は息子に声をかけた。
「うん」
「じゃあ、動画でも見てな」
そういって、私のスマートフォンを差し出した。いつもなら『見たいと』頼んでもダメと言われることなので、息子は少し怪訝な表情をする。だが、すぐにこれ幸いと思い直し、動画に夢中になった。
私がそんなことをしたのは、息子が余計なことを言いそうだったからだ。
先の駅で、私たちの席の正面に白いスーツを着た小柄な老人が座った。その老人は全て空いている三人掛けの座席の真ん中に座り、左右の席に自身の紙袋を置いた。そして、缶ビールを開けて飲み始めたのだ。
まだ空気を読むことを知らない息子は『あれ、マナー悪いよね』とか言いかねない。
実際、私もそれを見た瞬間は少し苛立ちを覚えたのだが、いくつか気になる点があり、触れないようにしようと考えた。
その老人は上はパリッとした白いジャケットを着ており、この暑いさなかネクタイまでしている。それに不釣り合いなボロボロのベースボールキャップを被っているのがまず目を引いた。
そして、足元を見てもズボンの裾はかなりほつれており、泥汚れのような跡がある。靴は所々穴の開いた古いスニーカーで、やはり泥で汚れている。
(草野球か何かの役員で、大会帰りなのかな?)
と、無理やりその異様な風貌の理由を考え、私もそれ以上、その老人を見ないようにした。
しかし、なんとなく、その老人はこちらを見ているような気がする。なにせ、その老人が被っているのと同じ帽子を息子も被っていたのだ。
失礼とは思いつつ、(話しかけられたら嫌だな)と私は感じ、なるべく空気感で壁を作るようにする。
次の駅から少しずつ乗客が増えてきた。普段なら混むのは嫌なのだが、目の前の老人との間に人垣が出来るのは、少しほっとする。
ほどほどで息子に動画を見るのを止めさせようとした時、息子がふと上を見た。
「どうした?」
「やっぱり雨漏りしてるよ」
座っている息子の腿には、さっきより大きな染みが出来ていた。
それを見て私も上を見る。鉄のパイプで出来た荷棚に水滴がびっしりとついており、いくつかが雫となって垂れていた。
「なんだこれ?!前の人の荷物の中身でもこぼれたのかな?」
荷棚自体には何も乗っていない。気持ち悪いと思いつつ、私はポケットのハンドタオルで荷棚のパイプを拭いた。
そして、ポーチの中からゴミ袋を取り出してハンドタオルを封入した。とてもそれを再度ポケットに入れる気にならなかったからだ。
その拭いた後のタオルの色、臭い、質感は嫌な既視感があった。
居酒屋で、ビールをこぼしたテーブルを拭いたおしぼりのようだったのだ。
もうそれは後で捨てしまおうと足元に置くと、ボロボロのスニーカーが視界に入った。
所々穴が空き、泥汚れがひどい。ズボンの裾もあちこちほつれ、やはり泥が染み込んでいる。
そして、脇に置かれた紙袋の底が濡れており、染みが出来ていた。
「そのチーム好きなの?」
いつの間にか目の前に立っていた老人が息子に声をかけた。
驚いた息子は無言で頷く。
「そう、じじと一緒だね」
そう言うと老人は自分の帽子を脱いで見せる。
むわっと頭皮の臭いが充満した。
「来週応援に行くんだ」
息子が答える。
「そうか。じじも行くんだよ。また会えるかもしれないね。席はどのへん?」
「いや、まだチケット取ってないんですよ!」
私が割って入った。
「次で降りるんで、どうぞ!」
私は息子の手を引き、席を立った。
本当は最寄りはまだ2駅先なので、息子は何か言いかける。
「買い物があるんだ。その後はタクシーで帰ろう」
私は先手を打って説明し、老人に会釈をする。
そこから老人が座るまでの数秒が、数分にも感じられた。後先考えずに咄嗟に席を立ったが、老人が『自分も次で降りる』と言ったらどうしよう?
その際の対策を数通り考えた頃、老人は礼を言って席に着いた。
その時、老人の持つ紙袋の中身が見えてしまった。
古い文庫本のような書籍が雑多に入っており、一番上には缶ビールの空き缶。
しかも、飲み残しがあるようで、飲み口からこぼれた液体が、文庫本をふやけさせていた。
そして既視感(既臭感?)のある臭気が鼻に着く。。。
次の駅に着くと、息子の手引いて足早にその場を去った。
「うわっ!」
息子がよろけた。
私が強く手を引いたからだ。
先程すれ違ったベースボールキャップの男性に過剰反応してしまった。
「ごめん!」
私は謝る。最近ならここで生意気な口を聞く息子も、私の焦りを察したようで何も言わなかった。
行き交う人々のキャップ、白い服、紙袋が異様に視界に入る。
私は意図的に何度も曲がり、タクシー乗り場にたどり着く。
「買い物するんじゃないの?」
「けっこう遅くなったからな。また今度だ」
私は息子を押し込むように乗り込んだ。
行き先を告げ、タクシーが動き出す。
おそらく買い物ついでにマンガでも買ってもらうつもりだったんだろう。息子は憮然としていた。
「動画でも見てなさい」
私は息子をなだめるように、スマートフォンを渡した。
「どうした?」
息子は渡されたそれを受け取らなかった。
そして上を見ながら言った。
「このタクシーも雨漏りしてるよ」
了
夏のホラー参加も三年目なので、今回、今まで書いたことないテーマで書いてみようと思いました。
自分に対してではなく、守る者がある側の恐怖!
だいぶ原形は無くなりましたが、モチーフはシューベルトの魔王です。