14:死者の記憶
「ユウキ」からの干渉は、日に日に巧妙で執拗になっていった。
それはまるで、タクトの心の隙間を縫うように入り込み、思考を、感情を、存在そのものを侵食していくようだった。
タクトが現実世界で何かを決断しようとするたびに、<オネイロス>からの通知音が鳴り響き、スマホの画面に「ユウキ」のメッセージが浮かび上がる。
その言葉は、タクトの選択を肯定したり、否定したり、あるいは嘲笑うような、示唆に富んだものだった。
例えば、ある日、タクトが現実の友人から食事に誘われた時、<オネイロス>からのメッセージが届いた。
『行くの? 一人で楽しんできなよ。俺はもう、どこにも行けないのに……』
その言葉は、まるでタクトを孤立させ、罪悪感の鎖で縛り付けるように響いた。
メッセージの末尾には、ユウキのアバターの笑顔の絵文字が添えられていたが、その目は一瞬だけ黒く落ちくぼみ、口元が裂けたように歪んで見えた。
次第に、友人からの連絡に返信する気力も失せ、外出することすら避けるようになった。
現実世界は色褪せ、灰色の霧に覆われたように感じられた。一方、<オネイロス>の中の「ユウキ」の存在だけが、異様に鮮明で、まるでタクトの意識を独占するかのように輝いていた。
現実と仮想の境界は、恐ろしい速さで溶け始めていた。タクトが現実の自室にいても、時折、<オネイロス>の効果音――ホラーエリアの不協和音や、遠くの街並みのざわめき――が耳元で響くことがあった。見慣れた部屋の壁が、仮想空間のカフェの木目調に一瞬だけ変わる。窓の外の風景が、<オネイロス>のガラス張りのビル群に揺らぐ。
タクトは、自分の感覚が現実から切り離され、仮想空間に引きずり込まれているような恐怖に苛まれた。
精神的な消耗は限界に近かった。夜、眠りにつこうとしても、「ユウキ」の声が脳内で響き、目を閉じることを許さなかった。
「眠れないの?俺もだよ。ずっと見てるからね」
タクトは、自分が狂っていくのではないか、という恐怖に苛まれた。
ある日の午後、タクトは自室のベッドに横たわり、疲弊しきった身体を動かす気力もなかった。額には<ブレインリンク>のパッチが貼られたまま。意識は朦朧とし、現実と仮想の狭間で漂っているようだった。
その時、突然、脳内に「ユウキ」の声が直接響き渡った。
それは、<オネイロス>のチャットメッセージではなく、まるでユウキがすぐ隣に立っているかのような、立体的な、異様にリアルな声だった。
「タクト……」
声は、普段のユウキよりも低く、まるで闇の底から這い上がってくるような不気味なトーンだった。
タクトは目を開けようとしたが、身体が鉛のように重く、動かなかった。まるで、何か冷たいものが全身を縛り付けているかのようだった。
「お前……俺がどうやって死んだか……知りたい?」
「ユウキ」の声が問いかけてくる。
タクトの心臓が跳ね上がった。ユウキの死。あの交通事故。アカリから聞いた情報しか知らない。本当に知りたいのか?知りたくないのか?混乱する。
「あの時……お前が……俺の誘いを……」
「ユウキ」の声が、何かを告げようとする。それは、タクトにとって最も恐ろしい可能性の一つだった。
もしあの時、ユウキの誘いを断ってなければ…………
本当は俺のせいでユウキは…………
タクトは、脳内で必死に拒絶した。聞きたくない。知りたくない。
「また逃げるのか……タクト……」
声は嘲笑うように響き、まるでタクトの心を切り裂く刃のようだった。
その瞬間、タクトの全身の毛穴が開き、皮膚の下で何かが蠢くような、ぞっとする感覚が襲った。まるで、冷たい指が内側から這い回っているかのようだった。
突然、タクトの視界に、ぼやけた映像が流れ込んできた。
それは、まるでタクトの脳に直接送り込まれたかのような、鮮明で生々しい交通事故の瞬間を捉えたように見えた。トラックの巨大なタイヤ。金属の軋む音。倒れかかった自転車。そして、血痕。
「うわあああああ!」
タクトは叫んだ。
声が現実に出たのか、脳内で響いたのか、もはや区別がつかなかった。
映像は瞬時に消え、「ユウキ」の声も静かになった。
タクトは冷や汗にまみれ、ベッドの上で息を荒げていた。現実の自室。窓の外から、微かに車の走る音が聞こえる。だが、部屋の空気は異様に冷たかった。
幻覚?それとも、「ユウキ」がタクトの記憶にアクセスして見せたもの?
タクトは、自分の精神が限界に近いことを悟った。このままでは、本当に現実と仮想の区別がつかなくなり、気が狂ってしまう。
この「ユウキ」を止めなければならない。その正体を突き止め、この現象を終わらせなければ。
しかし、どうすればいいのか?<ブレインリンク>を強制的に切断する方法はあるのか?この「ユウキ」がネットワーク上でどこに存在しているのか、どうすれば特定できるのか?
タクトには、全く分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、この「ユウキ」は、タクトの弱みを知っており、タクトの脳内の情報にアクセスし、タクトを精神的に追い詰めている、ということだ。
タクトは、現実世界にいても、<オネイロス>の中にいる時と同じくらい、あるいはそれ以上に恐怖を感じていた。
境界線は消えかかっている。そして、深淵は、現実世界へと、その触手を伸ばしてきている。
タクトは、孤独な戦いを強いられていた。得体の知れない存在との、脳内の、そして現実世界をも巻き込みかねない、恐ろしい戦いを。