10:過去の過ち
それは、もう十年以上も前のことだった。
小学校からの帰り道。いつものように、ユウキは学校の正門を出てすぐの、大きな楠の木の下でタクトを待っていた。
先生に頼まれた仕事が長引いたタクトは、少し遅れて正門を出た。楠の木までは、校舎の影になって少し見通しが悪くなる場所がある。タクトはその校舎の角を曲がった。
(ユウキ、待たせすぎたかな……)
そう思いながら視線を上げたとたん、足が止まった。
楠の木の傍に、ユウキがいた。いつものようにランドセルを背負って、つまらなさそうに足元で砂利を蹴っている。
しかし、その傍らに、見知らぬ男が立っていた。
男は、30代か40代くらいだろうか。どこにでもいそうな、特徴のない顔だった。ただ、妙に笑顔が張り付いているように見えた。
男はユウキに話しかけている。最初は何を話しているのか分からなかった。
男は屈みこんでユウキと目線を合わせ、何か小さなものを差し出しているようだった。
駄菓子か、あるいは小さな玩具か。ユウキは怪訝そうな顔をしていたが、男の言葉に少しだけ頷いたようにも見えた。
その時、ふと、タクトの胸に言いようのない不安がよぎった。
その男の纏う空気が、どこか異質に感じられたのだ。親切な大人とは違う、何か粘つくような気配。
タクトは校舎の影から一歩も動けなかった。
何が起きているのか理解できないまま、ただ見つめていた。
男は、ユウキの肩に手を置いた。そして、そのまま立ち上がらせるようにして、ユウキの手を取った。
男のもう片方の手にはキラリと光る何かが見えた。
ユウキが小さく「え?」というような声を上げたのが見えた。
男はユウキの手を引いて歩き出した。学校とは反対方向、人通りの少ない路地の方へ。
ユウキが、一度だけ、タクトがいるはずの方向、校舎の角の方を振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、戸惑いと、助けを求めるような、怯えた表情だった。
目が合ったような気がした。
いや、実際には校舎の影で見えていなかったはずだ。それでも、タクトにはユウキの視線が自分に向けられたように感じられたのだ。
その瞬間、タクトの心臓は凍り付いた。
頭の中が真っ白になった。目の前で起きていることが、映画やテレビの中の出来事ではない、現実なのだと理解した途端、尋常ではない恐怖が全身を襲った。手足の震えが止まらない。
声を出そうとしたが、喉が張り付いて何も出ない。
(助けなきゃ……ユウキが……!)
そう思ったのに、体は動かなかった。いや、体が勝手に、本能的に反応した。
踵を返し、振り返りもせずに裏門へと走り出した。
ランドセルが背中で跳ねる。息が切れる。足音だけが、異常な速さで鳴り響く。ユウキの声も、男の声も聞こえない。聞こえるのは自分の荒い呼吸と、地面を蹴る音だけ。そして、心臓の、罪悪感という重しを抱えて必死に脈打つ音だけだった。
どれくらい走ったのか覚えていない。
家にたどり着き、鍵を開け、自分の部屋に駆け込み、ベッドの下に潜り込んだ。暗くて狭い空間で、タクトはただひたすら震えていた。ユウキの顔が、あの怯えた表情が、網膜に焼き付いて離れない。
自分が、あの時、目を背けて逃げ出したという事実が、鉛のように胃にのしかかった。
その後、どうなったのかは知らない。
ユウキは行方不明になったと聞いた。
警察が来て、近所の人たちが騒いでいた。
タクトは何も話さなかった。話せなかった。怖かった。
自分が逃げ出したことを知られたくなかった。
自分がユウキを見捨てた卑怯者だということを、誰にも知られたくなかった。
特に、ユウキの家族に、そして、もしいつかユウキが無事に戻ってきたら、ユウキ本人に、このことを知られたらどうなるのかと思うと、それだけで息が詰まりそうだった。
それから1週間ほどして犯人は捕まりユウキは無事に保護された。父親の同僚の逆恨みだったらしい。
ユウキは、しばらく精神的に不安定な状態だったが、時が経つにつれ、徐々に前の明るいユウキに戻っていった。タクトに対しても、あの日のことを話題にすることはなく、普段通りに接していた。
だから、タクトはその記憶に固く鍵をかけた。
見なかったことにした。聞かなかったことにした。
何も知らなかった、何もできなかった、子供だったのだから仕方ないと、自分自身に言い聞かせ続けた。
しかし、一度見てしまった光景は、脳裏から消えることはなかった。時折、ふとした瞬間に、あの日の楠の木の下の光景がフラッシュバックし、そのたびに吐き気がするほどの罪悪感に襲われた。