1:突然の別れ
全身を冷たい水が浸し、肺が悲鳴を上げている。そんな感覚で、宮内タクトは「ログイン」した。現実世界の肉体は、自宅のベッドの上で静かに横たわっている。額に貼り付けられた薄いパッチが、脳神経とダイレクトにネットワークを繋いでいた。数秒の浮遊感の後、視界は色彩と情報に満たされた。
ここは<オネイロス>。ほとんどの人達が日常的にアクセスする、巨大な仮想現実空間だ。仕事、遊び、コミュニケーション。その全てがこの広大なデジタルキャンバスの上で行われる。
タクトのアバターは、彼自身をモデルに少しだけ理想化された姿をしている。癖のない黒髪、やや細身の体型、そしてどこか憂いを帯びた瞳。今日の目的地は、彼にとって最も居心地の良い場所の一つである、カスタムエリアのカフェだ。
カフェはパリの古い街並みを模して作られていた。石畳の道、鉄製のテラス席、そしてそこかしこに飾られた色とりどりの花。風の感触や、遠くで聞こえる賑やかな話し声まで、脳に直接フィードバックされる情報はあまりにもリアルで、ここが仮想空間であることを一瞬忘れさせる。
席に着くと、見慣れたアバターが向かいに座っていた。赤みがかった髪に、少し眠たそうな目。カジュアルなパーカー姿。親友のユウキだった。
「遅えよ、タクト」
ユウキは口元に微かな笑みを浮かべている。その声も、現実で聞く彼と寸分違わない。
「ごめんごめん。ちょっとログインに手こずった」
タクトは謝りながら、目の前に自動生成されたカフェオレを掴んだ。温かいマグカップの感触が手に伝わる。これも脳へのフィードバックだ。
「つーかさ、あの新しく出た戦闘シム【アークロア・ウォー】やった?ヤバいぜ、グラフィックえぐいし、敵AIがマジで賢い」
ユウキが興奮気味に話し始める。タクトは相槌を打ちながら、彼の話に耳を傾ける。他愛のない会話。でも、それが心地よかった。
タクトとユウキは、幼馴染だった。小学校に入学する前から知っていて、中学、高校、そして大学までずっと一緒だった。お互いの全てを知っている、と言っても過言ではない関係。もちろん、この<オネイロス>が普及してからも、二人はこの仮想空間で多くの時間を共有していた。現実で会う時間よりも、もしかしたらこのデジタル空間で肩を並べている時間の方が長かったかもしれない。
「でさー、あのボス攻略するのにさ、タクトのあのトリッキーな動き、あれがマジで役に立つんだって」
ユウキは身振り手振りで説明する。タクトは少し照れくさそうに笑った。
「そんな大したことないって」
「いやいや、マジで。今度一緒にやろうぜ。俺一人じゃどうしても勝てないところがあるんだよ」
「いいよ。いつにする?」
「今日、この後どうよ?」
ユウキの提案に、タクトは一瞬躊躇した。
「あー……ごめん、今日ちょっとリアルの用事があってさ」
「あ?珍しいじゃん。リアルで用事とかあんの」
ユウキは少し意外そうな顔をする。タクトは曖昧に笑った。<オネイロス>が普及している現在、ほとんどのことは、この中で済ませられる。実際には「リアル」で特別な用事があるわけではなかった。ただ、このところ漠然とした倦怠感と、VR空間に浸りすぎることへのほんの少しの抵抗感を感じていたのだ。
「まあな。たまにはね」
「ふーん……まあいいや。じゃあまた後で誘うわ。ログアウトする前にメッセージ入れてくれよな」
「分かった」
カフェオレを飲み干し、タクトは立ち上がった。ユウキも立ち上がり、タクトの肩を軽く叩いた。
「じゃあな、タクト。またな」
「うん、またね」
カフェを出て、タクトは一人で街を歩いた。リアルな太陽光を模したライトが石畳を照らし、影を作る。この空間はあまりにも完璧に作られている。爽やかなそよ風、鳥のさえずり、遠くの教会の鐘の音。五感で感じる情報の全てが、現実と区別がつかないほど精密だ。
この完璧さが、時としてタクトを不安にさせる。何が現実で、何が仮想なのか。その境界線が、あまりにも曖昧になってきている。人々は肉体を放置し、意識だけをこのデジタル世界に遊ばせる。それは、一種の逃避なのだろうか。
タクトは自分のアバターの手を見た。指を曲げたり伸ばしたりする。これも脳からの信号がアバターに反映されているだけだ。この手も、この体も、本当は存在しない。
お昼時になり、そろそろログアウトしようかと思っていると、ふとメッセージの着信を示すアイコンが視界の端に表示された。差出人は、共通の友人であるアカリだ。
メッセージを開く。そこに書かれていた内容は、タクトの思考を瞬時に凍り付かせた。
『タクト、大変なことになった……ユウキが……』
メッセージの続きを読み進めるにつれて、タクトの心臓は嫌な音を立てて脈打った。文字が霞む。視界が歪む。
ユウキが、死んだ?