旧態依然のコンプレックス
旧態依然のコンプレックス
そんな三代子ちゃんだからこそ、我が腕の中に愛しい彼女を強奪せしめんとする有象無象の輩なんかが後を絶たぬわけだ。昨夜まで彼女持ちだった栄作でさえ、なんだか当然のようにヤキモキしてしまう。なんならこんな自分でさえ今すぐにでも立候補してしまいたいぐらいなのだから。
しかし、相手があの“課長様”とあっては大樹の陰に隠れたまんま静観するのが望ましい、と仲の良い同僚とのうわさ話。社内に限らず、取引先の競合相手たちだって、そんなことは百も承知、と口裏を合わせる始末である。なぜならば、あの課長様ときたら仕事上の話はもちろんのこと、男性としてのスペックも相当なものと、どこからともなくあるかないか分からぬような噂話を耳にしてしまうものだから、おっつかっつの実力者の彼らでは気が引けてしまうのも当然の事だ。ましてや、あのいかつい相貌から想像を張り巡らせれば、いたしかたない、といったことろなのだろうが。
栄作はなんだか泣けてきてしまった。ただでさえ顧客とのやり取りで劣等感を覚えてしまっているのに、男としての基本的なスペックの違いをまざまざと感じさせられると、何をどう頑張ればよいのか分からなくなってきてしまう。まったく、まったくどうやったらヤツを倒せるのか見当がつかなくなってきてしまう。それこそが唯一のやり甲斐と言えるのに……。
「あーあ。俺はムダな労力を費やしているだけなのかなぁ」
栄作は、端末に向き合いながら不毛な言葉を漏らす。こんなことなら最初っから反抗的な態度など取らなければよかった、と愚痴をこぼす。
そう言えば、死んだおじいちゃんから、
「大人の社会なんてところは、長いものには巻かれるのが世渡りのコツじゃよ」
だなんて言われたことがある。あの頃は自分がまだ小さかったので、言葉の意味など一分一厘も理解できていなかった。しかし、今じゃその言葉の真逆の意味を理解して、九分九厘以上もの熱い闘志を胸に抱きながら生きている。
あんなゲテモノ類いの毒々しいものに巻かれるなんて。あんなとぐろを巻いている長い生き物に媚びへつらって生きてゆくなんて――。
そんな自分の姿を想像するだけで虫酸が走ってしまう栄作である。胸くそ悪くなってしまうのである。まったくまったく不愉快極まりないにも程がある、と感じているのである。
(ごめん、おじいちゃん……。俺、おじいちゃんのそのアドバイス、パスします……)
薄っすらと端末のスクリーンに映る自分の顔が、少しだけその頃のおじいちゃんの面影に似てきた、そんな気がする。最近特にそう思える。
栄作が小さかった時は父親も母親も共働きだったので、おじいちゃんはいい遊び相手だった。だからおじいちゃんが大好きだった。栄作は未だにおじいちゃんの優しいぬくもりを思い起こすことができる。でも、だからといって、そんなおじいちゃんのアドバイス云々すべて受け入れるなんてできない。それが得策だなんて思いたくはない。
彼は湯のみを揺らしながら茶をすすった。いつも口に触れたときの心地よい温度を感じる。さすが三代子ちゃんが淹れてくれたお茶だけに妙に清涼感がある。そんな柔らかなものが放射線のように広がりを感じさせ、栄作のぎすぎすした心をあざ笑うかのようにもてあそぶ。緑の香りが鼻腔をなでくすぐる。
「まあ、しょうがねぇよなあ。このまま唸ってたって屁にもならねえし。とりあえず書き直すか……」
栄作は少しだけ心を持ち直して端末に向かった。もちろんのこと、あのバカ課長に嫌味を言われるのがいやだからではなく、昨夜モトカノにこっぴどい捨てゼリフ吐かれてふられたからではなく、誰にでも優しい三代子ちゃんに格好悪いところを見せたくないからでもなく、ただ、大好きだったおじいちゃんの優しい笑顔に少しでも報いるために。
(だからって、そう簡単に長いものに巻かれるつもりはないんだからね。おじいちゃん……)
栄作は、ふっと鼻笑いしながらキーボードを叩きつづけた。思いつくまま、流れのおもむくままに。
しばらく企画営業部のフロアには人の声がしなかった。栄作の奏でるキーの連続音と、三代子ちゃんが奏でる電卓のタップリズムが絡み合って、静かな午後のひと時の流れを彩りあっていた。
他の営業の同僚たちも出払っているし、三代子ちゃん以外の事務員さんたちも、かわりばんこの昼食をとりに行っている。もちろん課長の高科は、上階の社長室で打ち合わせの真っ最中である。
栄作は、しばしそういった柔らかな余韻に浸りながら、我が社自慢の売れ筋商品の“売り文句”を気持ちよく書き連ねていた。
その時である――
彼らのきめ細やかな重奏を、一本の電話のベルがけたたましい音を響かせながら引き裂いたのだ。




