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SF世情余話『乱エボ』  作者: ジェイのすけ
一、行商の老婆(1)
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傷心の青年

 傷心の青年



 ふっ、と気がつくと、彼は雨ざらしの公園のベンチに横たわっていた。ぼんやりとした街灯の明かりがひとつ、ふたつ、とまだ視界の定まらない目蓋の裏に痛みを伴いながら沁み込んでくる。気だるさと敗北感。憤りと焦り。そういったすべての要素が相まって、冷たい小雨が降りしきる真夜中のベンチにぐったりと寝転ばっている……という日常では有り得ないシチュエーションでありながら、彼はいまひとつ起き上がってみようという気になれないでいる。

(ああ、いったい今は何時なのだろう……?)

 彼はびしょ濡れになったスーツの袖をたくし上げ腕時計に目をやった。

 午前四時、二十分――?

 硝子盤に所々ひびが入り、針の位置を読み取るのが難しい。それでもそれなりに長年付き添った肌身離さぬ相棒であったから、ちょっとくらい機嫌を損ねた顔をしていてもお前の表情なら読み取れるもんさ、と強がってみたりする。彼は右手の親指を腕時計の文字盤にそっと近づけた。すると、白く濁ったクモの巣状に広がりを見せる幾何学模様が、音も立てずにぽろぽろと崩れていった。

 ま、しょうがねっか――

 彼は自分をたしなめるように一人笑う。笑うと体のあちこちが強い電圧をかけたように痛かったが、それでもまあ、あいつの呪縛から解き放たれたのだ、と、そう思えば少し吹っ切れた気がした。まあいいや。まあいいさ。どうせオイラは一昨日の晩、アイツにこっぴどい捨てゼリフまで吐かれてふられちまったんだからな、とでも言いたげなダルい視線で“地”を仰ぎながら。

 彼はうんせ、とばかり勢いよく体を起こし、雨に濡れて吸い付いた背広の重さを実感しながらベンチから立ち上がると、ボロボロになった腕時計を左手首から外し、近くにあったクズ入れへと投げ入れた。

「これにて一件落着」

 それを言い終えると、また彼の頬から雨雫が一粒滴り落ちてきた。


 そんな彼――東崎栄作あずまざきえいさくがこの公園のベンチで一夜を過ごす事になる二日前、彼は学生時代から付き合っていた彼女に愛想を尽かされ別れを告げられた。

 栄作は、それなりに名の通った大学をそれなりの成績で卒業し、それなりの給料が頂けるそれなりに小さな会社に就職したのだが、それなりの会社というところは仕事の内容はかなりハードで休みの日以外は眠る暇もない。社会人になり早二年。若い身空でありながら休みの日には食欲より性欲より何より睡眠欲が勝ってしまい、長年付き合いのあった彼女ともまるで意思疎通が図れない状態になった。それが彼の敗因であることに間違いはない。

 まあ、そんなことは長く生きていればよく耳にすることでもあるし、少なからず誰もが身をもって経験することであるから、まあそりゃよく分かる話、で済ませられるところだったのだが、いよいよ彼のその後がいけなかった。

 次の日のことである。彼は傷心により憔悴しきったまなこのまんま会社へと足を運んだ。彼の勤める会社は、それなりと言ってもやはりそれなりに小さな会社で、やはりそれなりに小さな会社というところは企画、広報、営業、総務、雑務とそれなりにそれなりのことをすべてやり遂げなければならない。息つく暇もない。

 ところがどっこい、その日はなぜか仕事の“はざかい”の時期で、偶然ぽっかりスケジュールに穴が開いてしまった。そこで上司に頼まれた仕事が、

「社外販促用の宣伝広告の記事を手伝って欲しい」

 ということなのだが、栄作にはちんぷんかんぷん。てんで未知の領域なものである。それなりの会社なので、そんな物も彼らの手づくりなのだ。もちろん栄作は断わる術もなく、

「ええ、まあいいですけど、僕にできますかね」

「ああ、できるさ。まあ、私の指示に従ってやってくれればそれでいい」

「そうなんですか。それなら――」

 と、軽い気持ちで引き受けた。が、これがまた人前に見せる文章を書くという作業は思ったよりも骨の要ることで。あれを書いてはこうでもない。これを書いてはああでもない、と七転八倒の大騒ぎ。終いには、

(ああもう! 高科たかしな課長はいつもいつも口うるさい。うるさすぎる。うぜぇ!)

 と腹が煮えくり返る思いになった。

 実は彼に仕事を頼んだこの上司高科課長という人物は、栄作にとってのくせ者であることは否めない。高科という男は、せんだって四十を過ぎたばかりの、栄作からすれば立派なオヤジ族の一人である。しかし社内外ともにとても人望が厚いと評される好人物なのは栄作自身も認めざるを得ないところで、学歴こそあまり良くないのだという噂だが、企画立案、営業一辺倒で顧客を増やすなどしてグングン会社の売り上げを伸ばし、今日の会社の歴史に華を添えたという経歴を持つバリバリの叩上げ人物なのである。

 栄作は以前からそんな高科に異様な劣等感を抱いていた。やれ顔を合わせるたびに、「挨拶の声が小さい」だとか、やれ一緒に食事をする時などは、「箸の持ち方が変だ!」だとか、やれ会社仲間で遊びに行くときなど「ズボンは腰で穿くな」とか言ってくる。ついこの間の飲み会の席でビールを注ぐ作法の指南までされた日にゃ、いまひとつ気持ちよく酔えたもんじゃない。

 栄作が高科を好きになれない理由はそればかりではない。いや、これから話す理由が一番である、と言っても過言ではない。

 彼らの仕事の大半は外廻りの売り込み活動にある。いわゆる顧客廻りの営業活動だ。栄作がこの会社で仕事をするようになって早二年が経つ。しかし未だ彼に越えられない部分がある。それが、

「あら、営業さん。高科さんは元気でやってる?」

「今度高科くんに顔を出せと言っておいてくれないか」

「キミはもっと高科くんを見習うべきだよ。わっはっは」

 などという、顧客の他愛ない一言がしゃくに障るのである。

 栄作が子供の頃、父親に聞かされた“歌謡曲”というものの中に、

“昔の彼氏のほうが数段よかったわ”

 のような歌詞があった。それはそれはとても非情な歌詞だ、と彼は子供ながらに胸を痛めつつ聴いていたものである。つまり栄作は、外廻りをするたびにそんな非情な歌詞にある登場人物と同じような憂き目に遭っているということになる。そして男としての意地、プライドなどボロ布のようにズタズタに引き裂かれまくりながら顧客と向き合わなければならなかったのである。

 そして昨夜、

「あなたは私の知っている男の中で一番退屈な人だったわ。前の方が断然良かった」

 と呆れ顔で別れを告げられた彼にとって、高科課長という存在は、全世界すべての人々を敵に回しても打倒すべき悪しき権化と認知せざるを得なかったのである。


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