ルームメイト
安さで選んだ古い下宿にルームメイトが居るらしい。
深夜、帰宅して草臥れ切った体を万年床の煎餅布団へうっかり床が抜けてしまわないよう心持ちそっと俯せる。
湿った畳の柔らかい香りと、布団のカビの苦い臭い、自身の酸化した皮脂や汗に埃がふかふか被さって、重くパウダリーなニュアンスの加わった異臭が鼻腔へ粘るように立ち昇り、捨て鉢の雑な溜め息すら躊躇われて益々心身が閉塞する。
大声で喚きたい。全力で暴れたい。そんな事をしたらご近所から怒鳴り込まれたり偏執的に陰惨な嫌がらせをされたりする。
普段通り自身の境遇に打ちのめされ微動だにせぬ腹這いで睡魔の到来を待っていると、敷き布団越しの床下で、大量の砂が粗い木板に勢い良く伝っている風なざらぁー…という重たげかつ定速の摩擦音と共に、およそ風呂場の辺りからこちらへ向けて推定成人サイズの質量が移動してくる。
自身の真下でぴたりと止まる。
密かに息の音がする。
たぶん顔面を突き合わせて重なっていると思う。
息の音は原っぱでそよ風が葉先を撫でている位の言わば気配の塩梅に殆ど無音の態をしている。
風呂場の辺りから来た人が、うらぶれた布団の下の、撓んだ床板の下の、精々数十cmしか無かろう低い隙間に仰臥して、その儘ならない窮屈を微塵も感じさせずに穏やかな深い息をしている。
少し呼吸器を病んでいるのか、奥の方がいがらっぽく嗄れている。
すぅーー…………ふぅーー…………と辺りに漂う全てを吸い入れて取り込み、残さず吐き出し切る音がする。
とても微かなこの音が有るか無きか聞こえ出すと、空耳か、いや聞こえたかと我知らず耳を澄ませている。
そうして意識を掻き集め一心に聞き入るにつれ、自分でも気付かない内に息の仕方が同調し、呼吸は長く落ち着いて、心拍は鈍く緩やかになり、ぼんやりした睡魔の綿が脳や瞼を包んでいって、いつの間にか寝入り朝を迎えている。
初めてこの音に会ったのは、職場の先輩が跳んだ日だったか、上の住人が染みた日だったか、地元の親が吊った日だったか、ここで息を詰まらせていた日だったか、または入居した日だったか。
記憶の緒を手繰ろうとする度、自身の音と重なり合った長い息の音に浚われて、どうにも思い出せないが、もう眠いのでどうでも良い。
異臭が鼻腔へ粘り付き、粘り付きながら肺まで浸す。
やがて肺から全身に巡り二度と落とせなくなってゆく。
最近よく出る咳をする。
奥の方がいがらっぽく嗄れている。
終.