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人間の因果律、そして決定論について

作者: 丸峰

 私は散歩をしているときに、人間の因果関係に疑念を覚えました。なぜなら、人間の因果関係に従うと、この世界は決定論的であるからです。そして、その疑念とは何かについて考えていると、それは次のようなことであるとわかりました。「なぜ人間の因果関係はほかの仕方でもありうるかもしれないのに、その因果関係に自然が随っているのか」ということでした。

 そこで私は、他の因果関係の仕方を知ることができないので手詰まりになりました。ですので、私には人間の因果関係が正しいということを肯定するほか途がありませんでした。とするのならば、私は情報量に目をつけるべきだと思いました。人間の得られる情報量は有限で、そしてその情報の種類は外部の何らかの仕方で限定されていて、それゆえに、人間の因果関係がその中で成り立つということを考えました。

 私が情報量に目をつけたのにはもう一つ理由があります。それは、先ほども述べたように、人間の因果関係が世界全体として正しいとするのならば、それはこの世界が決定論的であるということだからです。私は人間のこの因果関係が形成されたのは進化論的途を辿ったからだと信じており、それゆえに私は進化論を推し進めるほかありませんでした。すると、決定論的世界に意思は誕生しないのではないかと思いました。必要がないからだけではなく、意思というのは、何か物理法則の集積地のような気がして、もしこの世界にあるものが物理法則のみであるのならば、それの濃縮をするような存在がいないから発生しえないと思ったからです。ですから、私の信念として、この世界は決定論的ではないと思っていました。

 ここで、私は神の因果関係を考えました。それは結果がAでありかつBであることが許される因果関係です。この両重性は個人の価値評価によって変わるのではなく、端的にその結果二つが両立しているような因果関係です。この因果関係は自然現象、それも人間が窺い知ることのできない完全な情報としての自然現象に基づきます。私にはまだその二つの結果のうち一つがどう選択されるかはわかりませんが、こうすれば決定論的にならなくてよいのではないかと思いました。そして、神の因果関係があることによって、人間の因果関係が相対化されて絶対的に正しくはないということがいえると思いました。


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