野獣の絶望
——まずい。これは非常にまずい!!
野獣は部屋の中でベッドに突っ伏して、ぷるぷると尻尾を震わせた。
——まさか私が野獣としてこの物語に登場することになろうとは、お嬢様は恐らく予想だにしていないに違いない。物語のラストで野獣が王子の姿へと戻った瞬間、アレクシス王子ではなく私であると知ったのなら、お嬢様は絶対に愕然とするだろう。
それどころか、泣き出すかもしれない……。
野獣の正体はエルディだったのだ。エルディ野獣は枕をぎゅっと抱きしめて、ベッドの上でその巨体をゴロゴロと右へ行ったり左へ行ったりとさせながら、思い悩む頭を抱えた。
——私としたことが、『いばら姫』の物語の中で、ヘリヤを追い出したのと同じ要領で王子を消したものだから、魔法が余計におかしくなってしまったのだろう。
これはかなりマズイ状況だ……。野獣である私は、自分の正体がヒロインであるお嬢様にバレたのなら、二度と元の姿へと戻れない呪いが掛けられている。物語を無事終える為には、事前にお嬢様に私の正体をお話する事ができない。
抱きしめていた枕を持ち上げて自らの頭の上に置いて突っ伏すと、エルディ野獣は「ぐおおお……」と、咆哮のような呻き声を上げた。
——しかも、一体何故毎回振られると分かっていながらプロポーズをしなければならない!? そう簡単に結婚できるのならば誰も苦労はしないというのにっ!! 野獣はバカなのですか!? いや、大馬鹿ですか!?
がばりとベッドから飛び起きて、エルディ野獣は窓の側へと駆け寄った。雪が降りしきる外の様子を見つめ、深いため息を洩らす。
——ヒロインのお嬢様はこの城で野獣である私と三カ月も過ごす事になる。私はその間、毎日お嬢様にプロポーズをするのだ。こんな絶望は他に無い……。
物語の中でも、元の世界でも振られる結果となるのだから。
せめて、お嬢様がここでの暮らしを少しでも楽しむ事ができるように努めるしか無い……。
「私の未来に、望みは無い……」
エルディ野獣は降りしきる雪を見つめ、項垂れた。
◇◇
翌朝、ヒュルケは城の中を探検しながら、野獣の肖像画を探した。
——確か物語上、野獣の本当の姿を描いた肖像画がどこかに飾られているはずですわ。それを見てベルは、野獣が王子をどこかに閉じ込めているのではと疑うのよね。
キョロキョロと辺りを見回しながら探検していると、長い廊下でばったりと野獣と出くわした。
「あら驚いた。貴方もお散歩かしら、野獣さん」
「ええまあ……。それより、何かお探し物でも?」
エルディ野獣は落ち着かず、しきりに尻尾をゆらゆらさせながらヒュルケに問いかけた。
「そうね。肖像画を探しているのだけれど」
「……肖像画ですか?」
「ええ! 確かどこかに美青年の肖像画があるはずですの!」
野獣の正体がエルディであると知りもしないヒュルケがズバリと言うと、エルディは尻尾の毛を逆立てて「え!?」と、声を上げた。
——マズイ! 肖像画の存在を忘れていたっ!
「そ、そうですか。心当たりがございます故、一緒に向かいましょう!」
上ずった声を発するエルディ野獣の腕に、ヒュルケはそっと手を添えて「助かりますわ!」とにこやかに微笑んだ。
長い廊下を歩き、肖像画が掛けられている広間へと到着すると、エルディはこっそりと肖像画へと魔法を掛けた。灰色の髪に銀色の瞳をしたエルディの姿が描かれていた肖像画が、見るも無残にボロボロと化し、何が描かれていたのか最早判別不能な状態となった。
ヒュルケはエルディ野獣から手を離し、肖像画の前へと駆け寄ると、「あったわ! これよ!」と言って肖像画を見上げた。エルディ野獣が燭台を掲げて肖像画を照らし出すと、ヒュルケはボロボロになった肖像画を見上げて「あら……これでは顔が全くわからないわ」と呟く様に言った。
その声が、エルディには少し残念そうに聞こえた。
ヒュルケは溜息を洩らし、もう一度顔を上げて肖像画を見つめた。
——これでは野獣の正体がアレクシス王子のそっくりさんなのかどうか、よく分からないわ。けれど、もしもそうであったのだとしても、皮肉なものね、元の世界では振られているのに、物語の中では彼から毎日求婚されるのだから。
野獣がヒュルケの部屋の前まで送って行くと、通例通りとでもいうかのように「私の妻となってください」と言った。ヒュルケは小さくため息を吐き、「嫌ですわ」と答えた。
『私の妻となってください』
『嫌ですわ』
毎日繰り返すこのやり取りに、エルディは妙な幸福感を覚え始めた。
残酷な仕打ちだと思っていたというのに、こうしてこの言葉を堂々と言える免罪符を与えられたようなものなのだから。
元の世界に戻ったのならば、決して口にすることの無い言葉。
例え断られると分かっていても、現実では口に出すことすら許されない言葉。
——どれほどに彼女を望もうとも、叶う事は決して無い。いいや、叶ってはならない願いなのだ。
ある日、ヒュルケはテラスの縁に腰かけて外を眺めていた。小さくため息を吐き、呟く様に「エルディはどこなのかしら……」と言った。
『おやゆび姫』の物語の中で、燕となったエルディが凍えてしまいそうなヒュルケを温かい翼で護ってくれた事。
『白雪姫』の物語の中で、優しく丁寧にヒュルケの首筋の怪我に薬を塗ってくれた事。
『人魚姫』の物語の中で、海に飛び込み泡となって消えなければならないヒュルケと共に、一緒に海へと飛び込んでくれた事。
『シンデレラ』の物語の中で、舞踏会から逃げ出したヒュルケを慰め、夜空の散歩に連れ出してくれた事。
『いばら姫』の物語の中で、ヒュルケのファーストキスを奪われない為に、王子相手に戦ってくれた事。
最初はただ、『恋愛』とは何かを知る目的の為だけのはずが、いつの間にかヒュルケを護る騎士の様に側に居てくれた。
「逢いたいわ、エルディ……」
——早く、元の世界に帰りたい。元の世界に帰ったのなら、エルディはずっと私の側にいてくれるはずだもの。
ヒュルケはそう考えて、ハッとして唇を噛みしめた。
——エルディがもし『恋愛』とは何かを知り、完全に封印が解かれたのなら。私の側に居る必要などなくなるのだわ……。きっとサルメライネン公爵家から去って行くはず。
「……なんなのよ。そんなの、寂し過ぎますわ!!」
ヒュルケの瞳から涙が零れ落ちた。
しくしくと肩を震わせて泣くヒュルケの姿を、エルディは遠くから見つめていた。
——お嬢様は恐らく、このような物語を早く終わらせ、元の世界に戻りたいのだろう。元の世界に戻ったのなら、私の魔法でアレクシス王子の心を手に入れる事ができるのだから……。
「私の妻となってください」
「嫌ですわ」
繰り返されるこのやり取りを、二人は互いに複雑な思いを抱きながら交わしていた。
——月日は流れ、物語の通りベルの父親が病気となったと知り、ヒュルケは一度家に帰る事となった。
野獣はヒュルケに魔法の指輪渡し、「この城へ戻る時には指輪を外し、テーブルの上に置いてください」と、まるで懇願でもするかのように切実たる様子で言った。
「必ず、戻って来てください。どうか、私の側を離れないと約束してください」
ヒュルケの手に触れる野獣の手は大きく、毛むくじゃらで粗暴に見えたが、労わる様に優しく、細心の注意を払ってヒュルケを傷つけないようにしようという気持ちが感じられた。
「勿論ですわ。絶対に、貴方の元に戻ると誓いますわ」
ヒュルケの言葉を聞き、これはただの物語上の台詞であると思いながらも、エルディ野獣は心を揺さぶられる想いを味わった。
「貴方が戻らなければ、私は哀しみのあまり死んでしまうでしょう……」
エルディ野獣は、ヒュルケが戻らなければ本当に自分は死んでしまうのではないだろうかと思える程に苦しくなった。
彼女の金色の美しい髪を毛むくじゃらの大きな手で撫でながら、『恋愛』を学んでしまったことに酷く後悔した。
「私は心から貴方を大切に思いますわ。だから、貴方が死ぬような事になど絶対にさせませんわ。一週間経ったら、必ず貴方の元に戻ると誓うから、どうか少しの間お待ちになって」
ヒュルケのその台詞を聞きながら、エルディ野獣は寂しそうにため息を吐いた。




