舞踏会から脱走しますわ!
『貴方の様な美しい人に守られるのならば、私はもっと自分を鍛えなくてはなりません』
馬車に揺られ、王子が待つ城へと向かうヒュルケの脳裏に、再び幼少期の思い出が浮かんだ。少年の頃のアレクシス王子は、彼を守ると言ったヒュルケに対し、そう返したのだ。
『どうして? 私が強くなれば良いだけではないかしら?』
ヒュルケの問いかけに、アレクシスは子供にしては嫌に大人びた顔つきで微笑んだ。
『大切な人を守りたいと思うのは当然の事です。ですから私は、強くならなければいけないのです』
『では、約束ですわ。私も強くなるから、貴方も強くなりましょうね』
『勿論です。約束しましょう。ですが、強い人とは、誰かを傷つけるような者であってはなりません。優しく、“思いやり”のある心をお忘れなく。もしもその心を忘れてしまったのならば、それは強い人であるとは言えませんから』
『ええ。決して、約束を違えたりしませんわ。人を傷つける様な人にはならないと誓うわ!』
——どうして今更こんな事を思い出してしまうのかしら。いいえ、どうして今まで忘れてしまっていたのかしら。
ヒュルケは馬車の中で唇を噛みしめた。
——私が婚約破棄されるのは当然の事だったのだわ。殿下はきっと、約束を覚えているはずですもの。
殿下を裏切ったのは、私なのだわ……。
ヒュルケの乗った立派な馬車は悠々と城門へとたどり着いた。あまりにも立派な馬車であった為、兵士は止める事無く入城を許し、どこぞの王女が来たのだろうかと大慌てで王子へと報告した。王子は賓客をエスコートしようと馬車へと迎えに行き、そっと馬車から降り立ったヒュルケの姿を見て、あまりの美しさに言葉を失った。
呆然としている王子の姿を見て、——ああ、やっぱりアレクシス王子のそっくりさんですのね——と、困った様に微笑んだ。
王子はハッとしたように手を差し伸べて、「不躾に見つめてしまい申し訳ございません」と言ってヒュルケを城の中へとエスコートした。王子の緊張が手を介して伝わって来る。
「どうかなさったの? 王子の貴方がそれほどまでに緊張なさるなんて」
ヒュルケが揶揄うように言うと、王子は困った様に微笑んだ。
「おかしいですか? 私は今まで、貴方程のお美しい女性を見た事がありませんから。どのような宝石や花も、貴方の美しさには到底敵いません。誰もが目を、そして心までも奪われることでしょう」
王子から歯の浮く様な台詞を吐かれ、ヒュルケはズキリと僅かに心が痛んだ。
——この方は、物語の中のアレクシス王子ですわ。元の世界では婚約破棄されているというのに……。
お城の大広間へと二人が足を踏み入れると、ヒュルケの美しさを皆が称賛した。女性であれば誰もが夢見るその状況だというのに浮かない顔をして俯いた。
——早く、十二時にならないかしら……。
「どうか私と踊っては頂けませんか」
王子が紳士的に頭を下げて願い出た。その行為に、ズキリと心が痛む。
——お笑い種だわ。私も王子も、偽物だというのに……。本当の私は、派手に着飾るのが好きな大富豪の公爵令嬢。そんな私を、貴方は一度だって美しいなどと褒めてくださったことは無かったわ。
ヒュルケは唇を噛みしめて暫く俯いていた。視線の先に映る王子の白い手袋をはめた手が、眩くすら見えた。
——一度だって、貴方からダンスに誘われた事も無かった……。それは当然の事だったのね。私は、殿下との約束を違えてしまったのだから。
『強い人とは、誰かを傷つけるような者であってはなりません。優しく、“思いやり”のある心をお忘れなく。もしもその心を忘れてしまったのならば、それは強い人であるとは言えませんから』
『ええ。決して、約束を違えたりしませんわ。人を傷つける様な人にはならないと誓うわ!』
——きっと殿下は私に心を傷つけられてしまったのだわ。そんな私は、美しいどころか醜いに決まっていますわ。
「ごめんなさい、殿下……」
ヒュルケは瞳を潤ませて、王子の手を取らずに拳を強く握り締めた。
「私には、貴方と踊る資格などないの!」
そう言ってパッと踵を返すとその場から走り去った。階段を駆け下りる時に『ガラスの靴を置いてくる』という物語の任務を思い出し、ガラスの靴を片方脱ぐと、ポンと放り投げた。
——これで役目は全うしたわ!
ヒュルケは残ったもう片方のガラスの靴も脱いで握りしめると、裸足のまま駆けてかぼちゃの馬車へと乗り込んだ。
「館へ帰って頂戴! 早く!!」
王子や兵士達が追いかけて来る様子を後目に大急ぎで馬車を出し、館へと戻った。
◇◇
館へと戻って来る馬車を見つめ、エルディは眉を寄せた。
——十二時までまだ時間がある。何かあったのか?
エルディが心配になって馬車へと駆け寄ると、馬車の中からヒュルケが飛び出して来てエルディへと抱き着いた。
驚いて暫し呆然とした後、ハッとした様に声を発した。
「一体どうしたというのです? 何かあったのですか? もしやヘリヤが……」
「いいえ! そうではないわっ!!」
ヒュルケがポロポロと涙を零したので、エルディは彼女の背を宥める様に優しく撫でて、噴水の縁へと座らせた。そしてヒュルケの前に膝をつくと、銀色の瞳で見つめた。
「王子と踊るのをあれほど楽しみにしておいでだったでしょう。それだというのに、一体何があったというのです? お話しくださいませんか?」
エルディに優しく促されて、ヒュルケは取り乱した様に言葉を吐いた。
「私、こんな悲しいことなど無いわ!!」
グスグスと泣きながらハンカチを顔に押し当てた。
「だって、ここは物語の中なんですもの! どんなにかダンスを楽しんだところで、彼はアレクシス王子ではないのですもの!! 本当の私は、彼に婚約破棄をされてしまっているのよ!? こんなの、残酷ですわ!」
わっと声を上げて泣くヒュルケを、エルディは悲し気に眉を寄せて見つめた。ほっそりとした肩を揺らし、嗚咽を洩らす彼女を見ているだけで、胸がズキズキと痛む。
「ご心配には及びません。あれはまだ口頭で告げられただけのこと。正式には書面を公爵家にお送り頂く様にとお伝えしてあります故、まだ時間はございましょう」
そして、エルディはフト瞳を伏せた。
「……それに、私の魔法をもってすれば、人の心を操る事すら容易いのですから。元の世界に戻った暁には、報酬としてお嬢様の望む通りの願いを叶えてみせましょう。アレクシス王子との婚約破棄を無かったことにすることすら、私には造作も無いことです」
「……本当に?」
「ええ。お約束致します」
エルディは溜息を吐くと、「辛い思いをさせてしまい、申し訳ございません」と、言葉を続けた。そして、辛いのはヒュルケであるはずだというのに、自分の胸が苦しい程に痛む事が不思議でならなかった。
「貴方は笑うでしょうけれど。私は初めてのダンスを、物語の中でなど済ませたくはないの」
「笑ったりなど致しませんとも」
これでも格式高いサルメライネン公爵家の執事として勤めたのだ。女性にとって初めて社交界に出るデビュタントがどれほどに大切な事かくらい、エルディにも良く解っている。いや、解ったつもりでいたというのが正しいだろう。現にヒュルケはこうして泣いているのだから。
申し訳ない事をしたという罪悪感と、ヒュルケが踊らずに戻って来てくれた事への安堵の気持ちがエルディの中で交錯する。
どうにもやるせなくなって空を見上げると、降り注がんばかりに瞬く星々の輝きが視界に入った。
「……お嬢様、十二時までまだ随分と時間がございます。もしよろしければ私と散歩にでも出かけませんか?」
エルディの申し出に、ヒュルケは困った様に自らの足を見下ろした。
「でも、私。靴を片方放り投げて来てしまったわ」
「……放り投げたのですか?」
「役目は全うしないとと思いましたの」
恥ずかしそうに俯くヒュルケの手には、もう片方のガラスの靴が握りしめられていた。
エルディはクスリと小さく笑うと、「靴は必要ございません」と言ってふわりとヒュルケを抱き上げた。そして地面を蹴るとそのまま夜空へと飛び立った。
銀色の宝石が散りばめられた夜空へと舞い上がり、ヒュルケは驚いてエルディにしがみ付いた。彼女の肌の温もり、しがみ付く細くか弱い手の感触を味わいながら、エルディは優しく声を掛けた。
「それほど怖がらずとも問題ございません。決して貴方を離したりなどしませんから」
エルディのその言葉に、ヒュルケはドキリと心臓が高鳴った。チラリと盗み見る様に見つめると、エルディの銀色の瞳が夜空に輝く星々を映し出し、すっと通った鼻筋や形の良い唇。細くも男性的な顎や首筋に妙な色気を感じた。
「貴方のその顔は、本物なのかしら?」
ヒュルケの問いかけに、エルディはどういう意味だろうかと考えてヒュルケを見つめた。銀色の瞳に見つめられ、ヒュルケは恥ずかしくなって目を逸らした。
「エルディは魔法使いだから、顔も簡単に変えられるのではと思いましたの」
「……ああ、そういう意味ですか」
エルディは困った様に小さく笑うと、「私は貴方の前では、こうして全てを曝け出しているつもりです」と言って、ふっとため息を洩らした。
「偽りを見抜く方法をお教え致しましょう」
エルディはヒュルケをじっと見つめてそう言った。銀色の瞳に見つめられ、ヒュルケは目を逸らす事ができず、吸い込まれる様に真っ直ぐと見つめ返した。
「瞳だけは偽る事はできないのです。例えどんなにか姿を変えようとも」
エルディの瞳はとても澄んでいて、一片の曇りも無く清らかだった。星空を映す銀盤の様な美しい瞳だ。
「そう……」と、少しだけ俯いて、ヒュルケは「綺麗ですわね」と言葉を続けた。
——私と違って、人を傷つけたりしないエルディは紛れもなく強く美しい人ですもの……。
ヒュルケの言った言葉を、エルディは夜空の星々の事だと思い、何も答えずに微笑んだ。
絹糸の様に艶やかな彼女の髪がさらさらと風に舞い、シーグリーンの瞳を縁どる長い睫毛が揺れる。彼女を抱く腕に肌の柔らかさや華奢な体つき、温もりを感じ、このままずっと物語が終わらなければいいと考えて、そんな考えを持った自分をエルディは浅ましく思った。