ヒールの靴は淑女の嗜みですわよ
「何? どうなさったの?」
殺気立っているエルディ王女にびくびくしながらもヒュルケが問いかけると、エルディ王女は銀色の瞳でジロリとヒュルケを見つめた。
「お嬢様、早いところこの物語を終えて次へと行きましょう」
「え!? え……ええ、そうね」
「私はとりあえず王子と結婚して来ますから、お嬢様はさっさと海に飛び込んで泡と化してください」
「……なんだかとても嫌な提案ですわね。短剣の下りはすっとばす気ですわね?」
「どうせ刺せもしないで終わるくだりですので不要でしょう」
「貴方にとってはヒロインの葛藤も涙も、くだらないものでしかありませんのね……」
「ええ、実にくだらないですね」
ヒュルケが苦笑いを浮かべると、エルディ王女は脱ぎ捨てたヒールを面倒そうに履いてため息を洩らした。
「全く、女性というものは何故こういった歩きにくい靴を履くのか、全く以て理解できませんね」
悪態をつくエルディ王女に、ヒュルケは「素敵だからに決まってるじゃない」と言うと、優雅に立ち上がった。
ヒールの靴で軽やかに歩き、くるりと回って見せて、エルディはヒュルケのその様子が美しいと素直に思った。
「ヒールは殿方の心を射止める為の大切な武器ですわ!」
「初恋も未だのお嬢様が何を仰っていることやら。とはいえ確かに仰る通り華麗ですね。
無論、私はもう二度とこのようなものを履く気にはなれませんが」
「あら、似合っていてよ?」
「冗談は止してください」
ヒュルケはふっと笑った後、自らの脚を擦った。
「それにしても、人魚姫って人間になった後あんなにも脚が痛むのね。舌を切られて声を失ったり、踏んだり蹴ったりですのに、それでも王子の側がいいものなのかしら」
「それが恋愛というものなのでしょう」
「わけが分からないわ。大体、名前も知らない相手に恋をするものなのかしら?」
「またそれですか。名前がさほど重要とは思いませんが」
エルディ王女の言葉に、ヒュルケは少しムッとした様に唇を尖らせた。
「私、自分の名前が気に入っていてよ? お父様が愛情を込めて名付けてくださった名ですもの。それなのに、『おやゆび姫』も『白雪姫』も『人魚姫』も、名前ですら無いくらいに適当ですわ。親から愛されていないんじゃないかしら?」
「……ふむ。作者の意図で、分かり易く見た目を読み手に伝える上でそうしたのかもしれませんが」
「作者はヒロインに愛情が無いのかしら?」
「辛辣ですね」
「だって、もし今名前を聞かれたなら、『人魚』と答えるしか無いのよ!? それは名前ではなく種族ですわ!」
「つまりは、まだ名前を聞かれてすらいないという事ですか?」
「ええ、まあ……そうですわね」
ヒュルケが渋々頷くと、エルディ王女は鼻を鳴らした。
「王子はお嬢様に興味を示していないということなのでしょうね」
「し、失礼ではなくて!?」
そう言った後、ヒュルケはほんのりと頬を染めて俯いた。その様子にエルディ王女は細い眉を片方吊り上げて、訝し気に見つめた。
「顔が赤い様ですが、何かおかしなものでも口になさいましたか?」
「そ、そういうのではないわ! ただその……また小さい頃のアレクシス王子との思い出を思い出しましたの」
「……ほう?」
「彼は小さい頃からとても気配りができてお優しい方でしたわ。使用人相手にも心を砕く方でしたもの。それなのに今まであんな素敵な思い出を忘れていたことが恥ずかしくて……」
うっとりとしたように話すヒュルケを見つめ、エルディ王女は増々苛立って細い眉の端をピクピクと動かした。
「ですから、忘れていたということは大した思い出では無いのではありませんか?」
「そんなことありませんわ! とっても素敵な思い出だったのだもの。彼は本当に良い方ですわ」
幸せそうに物思いに耽っているヒュルケを見て、エルディ王女はムッとして顔を背けた。
「であれば、早々に私に『恋愛』とやらを教えてください」
「『恋愛』? 何を言っているの、エルディ。これはそういうものとは違う事ですわ」
「どうでしょうね? 少なくとも私の目にはそうでは無いように見えますが」
いじけた様に言い放つエルディ王女を不思議そうにヒュルケは見つめ、小首を傾げた。
「エルディ、貴方どうかしたのかしら? 何をそんなに苛ついているの?」
「いいえ。至って平常です」
「嘘をおっしゃい!」
「お嬢様こそ、どうかなさったのではありませんか? 突然幼少期の思い出に耽るなどと、年よりでもあるまいに」
「なんですって!?」
「やれやれ、この調子では私の封印が解けるのがいつになることやら。このまま一生物語の世界から出られなくなったら笑い話ですね」
「それは、私が一生『恋愛』を学ぶことができないとでも仰っているの!?」
「そういうことになりましょう。やれやれ、付き合う身にもなっていただきたいものです」
「ちょっとエルディ! こっちを見なさいな! 失礼が過ぎるのではなくて!?」
ヒュルケがエルディ王女のか細い腕を強引に引っ張った。すると、慣れないヒールにガクリとバランスを崩し、エルディ王女がつんのめり、ヒュルケの胸に顔面をダイブさせた。
「あら、強く引っ張り過ぎてしまいましたわ。ごめんあそばせ?」
「!!!!!」
エルディ王女は声にならない悲鳴を上げて慌ててのけ反り、再びヒールでバランスを崩して転ぶと、テーブルに後頭部をしこたま打ち付けて悶絶した。
「ちょっとエルディ、大丈夫?」
「ええ! いたって正常です!」
「どう見ても正常じゃなさそうですわね」
「いいえ!? 全く以て問題ございません!」
エルディ王女は頭を擦りながら立ち上がると、ピンと背筋を伸ばした。なまめかしい程に色っぽい身体に、隣国の王女の特徴である艶やかな黒髪。エルディの整った顔立ちが妖艶さを醸し出し、どこから見ても非の打ち所がない美女である。
「さ……さて、面倒ですが私は王子にプロポーズされて来るとします。ええ、そうしますとも」
突然改まった様に冷静に言い放ったエルディに気おされながらヒュルケは頷き、「それじゃあ、私は海に飛び込む準備運動でもしておこうかしら……」とパチクリと瞬きをした。
「本当に大丈夫なのかしら?」
「はい。顔面が柔らかく、後頭部が固かったのですが問題ございません」
「……言っている意味がさっぱりわかりませんわ」
コツコツと扉がノックされ、「王女様、宜しいでしょうか」と兵士が声を掛けた。エルディ王女が返事をすると、ゆっくりと扉が開けられて、王子がすっと背筋を伸ばして室内へと足を踏み入れた。
恐らくエルディ王女にプロポーズをしに来たのだろう。なんとなくつまらないと思い、唇を窄めてヒュルケが王子を見つめると、王子の傍らに栗毛の女性が立っている事に気づき、唖然とした。
——あれは、眉毛!!
「お二方、急に席を外されたので心配しましたが、問題は解決しましたか?」
王子の言葉に、エルディ王女は「全く問題などございません」と素早く返すと、ヘリヤを見つめて「その方は?」とすかさず突っ込みを入れた。ヘリヤはニヤリとほくそ笑むと、甘えるように王子の腕に自らの腕を絡めて見せた。
王子は咳払いをし、少しばかり照れた様に頬を染めた。
「彼女は、私が嵐の海を漂っていた時に命がけで助けてくださった命の恩人です」
「は!?」
素っ頓狂な声を上げ、ヒュルケは唖然としながらヘリヤを見つめた。ヘリヤも驚いた様に太い眉を寄せ、「どうして口が利けるわけ!?」と、悪態をついた。
「ち、違うわ! 王子を助けたのはわた……むぐっ!!」
エルディ王女に口を塞がれて、ヒュルケはモガモガと声を上げた。そして小声で「お嬢様、とにかく今はこの物語を終わらせる事に集中しましょう」と諭され、ヒュルケは渋々頷いた。
「私はなんと幸せなのだろうか。命の恩人にこうして出会う事ができるとは思っていなかったのですから。どうか私と結婚してください」
王子がヘリヤに向かってプロポーズする様子を困惑の表情でヒュルケは見つめ、ヒュルケの目の前で「勿論!」と答えるヘリヤを見つめて愕然とした。
——あれはアレクシス王子本人ではないわ。それなのに、どうしてこんなに胸が痛いのかしら……。
ヒュルケはパッと駆けて城のテラスへと向かうと、この物語を終わらせるべく海へと飛び込もうと縁に手を掛けた。
眼下に広がる海を見つめ、怖気づいてその場に座り込んだ。
——あんまりですわ……。人魚姫は、愛する王子に振られてどんなにか悲しかったのかしら。自分が死ぬと分かっていても、代わりに王子を刺し殺すことも出来ずに身を投げる覚悟なんて、私には無いもの。
エルディの言った通り、私には一生『恋愛』というものが理解できないのかもしれないわ……。
コツリと靴音を響かせながら、エルディ王女がヒュルケの元へと歩いて来ると、ヒュルケの肩を支えて立ち上がらせた。眼下に広がる海が、ヒュルケを飲み込もうと波をうねらせている様に見える。
「さあ、お嬢様」
「残酷な男ですわね。そうまでして私を海の泡にしたいというの?」
「この物語を終わらせる為です」
エルディ王女はそう言った後、そっとヒュルケの手を取り、その甲にキスをした。
「私も共に行くことをお許しください」
その言葉に、ヒュルケは涙が込み上げてきて、必死にかみ殺した。
「あらそう? 仕方ないから、ついて来ても構わなくてよ?」
「お嬢様をお独りにはいたしません」
エルディ王女が静かに詠唱をすると、ふわりと二人の身体が浮かび上がった。そしてゆっくりと海へと向かい、舞い降りていく。
「エルディ、こんなにゆっくりで良いのかしら?」
ヒュルケの言葉にエルディ王女はクスクスと笑った。
「何も勢いよく飛び込む必要などございません。それよりお嬢様、『恋愛』について何か分かった事はございますか?」
パッと辺り一面が光に包まれた。ヒュルケは頷くと、エルディの手をぎゅっと握った。
「ええ。少しだけ。『恋愛』とは、姿かたちではなく、相手を思いやる『優しさ』を与える事のようですわ」
「ふむ……成程。上出来です」
眩い光が二人を包み込み、すぅっと消えて行った。




