[プロローグ 第一章]
忘却
大辞林・・・忘れ去ること。忘れてしまうこと。
プロローグ
二〇一六年、ついに人類が待ち望んだある病気の治療法がK大学教授山本博により発見された。動物実験での判定が難しくそれは困難を極めるものであった。鳥、犬、猿というあらゆる動物での実験がなされたが、それは明らかに効果があるとはいえないものであり、ついに自身の身を実験として用いついにそれを確立したのである。
なぜならそれは人が老いゆくなかで、自然と退化していくことによる認知症の治療法であったためである。
博士自身により、認知症になった場合に自分自身を実験として用いるという言葉のもとに研究グループは実験を行い見事に成功させたのである。
しかしその治療はウィルスを用い、脳炎のような症状を起こし脳を肥大させ、パペッツ回路やヤコブレフ回路といった記憶の中枢をも活性化させるというものであった。
そう人とウィルスの共存である。
認知症から回復した博士は奇跡の人として賞賛をあびるが長期的な効果や安全性が疑問視され、世界中で話題となる。同年にアメリカで3症例の成功例が報告されるとまたたくまに治療を希望する家族が増え、翌々年には日本での成功例も報告された。
人々は脳の退化をも食い止めてしまったのである。
第1章
総合病院につとめる心療内科医の私はうだつのあがらない男だった。
「今日の患者は少ないな」
私が何ともなくひとりつぶやく。
「やだ先生いつものことじゃないですか」
それに相棒である看護師の駒野由紀が応じる。
彼女は魅力的ではあるが、どことなく人を寄せ付けない雰囲気がある。31歳になってまだもらい手がないことからもわかるだろう。しかしそんな彼女だが私にはよく話してくれ、私もそんな彼女と屈託なく話せる。そんな間柄だった。
「いつもはもう少し」
そんな私の答えもむなしく
「今日の晩御飯は何にしようかな」
との他愛ない言葉にさえぎられてしまった。
「先生はいいですよね。晩御飯の心配なんてしなくてもいいから」
「そうだな。僕はいつもシェフが作ってくれるからな」
「ファミリーレストランのね」
「失礼な。たまには職人のこともあるんだぞ。」
「うどん屋さんの店員を職人といってもらえるなんて、店員さんは大喜びでしょうね」
こういわれるとぐうのねもでない。駒野由紀をもらい手がないといったが、私は35歳にしてまだもらわれ手が見つからないのだ。うだつがあがらないからだろうかなどと考えてもしょうがないので私は帰り支度を始めた。
衣服を着替えすぐに外にでると、そこはもう冬でコートを羽織らないと肌寒く感じられるような季節になっていた。
今日はどこで食事をすまそうかと考えながら、駒野に私もどこで食べるか迷っているんだぞと返せばよかったと一人でダメだしをしながら車に乗り込む。
エンジンをかけようとしたとき携帯がなった。
「横山浩之」
医学部時代の同期で大学病院につとめる医師だ。
「はい」
「おー内田か。景気はどうだ?」
医師が儲かることほど、悲しいことはないが、横山はいつもわざとのようにたずねてくる。私はいつも返答に困るがその間が好きらしく、会うたびに聞くようになった。
「ぼちぼちでんな」
私も学習する。それでもこの挨拶を関西弁で返答できるようになったのはごく最近である。
「ところであの認知症の研究だが、その後はどうだい?」
山本博教授により発見された認知症の治療法はもはや日本の医師で知らぬ人はいないくらいの治療となっているが、その後にどうなるかという長期的な効果をこの横山と他の医師と共同で研究をすすめているのだ。しかし、横山は脳外科医であるため手術を行い、私がその後うけとして患者を紹介されその後の経過を観察するという役目を負わされた。うだつがあがらないくせに。
「MRIでも特に異常はないし、問題はないよ。認知面はほとんど改善され、家族も大喜び。介護スタッフや看護師も手がかからなくなったと、この治療法をもっと薦めるようにと命令されてるよ。」
「そうか。順調か。じゃぁこれを祝って二人でのみにでもいくか」
「ただ飲みたいだけだろ」
「まぁそういうなって、お前がなかなか結婚しないもんだから寂しいだろうと思ってこうやって誘ってるんじゃないか」
横山は2児の父である。しかも奥さんは美人ときてる。どこでつかまえたんだ一体。
「それじゃ一度車を置いてくるから、7時半にいつものところでいいか?」
「ほーらやっぱりさみし」
ブツッ
最後まで聞かなくても言いたい事はわかる。
エンジンをかける、ゆっくりと動き出す車。今日の一日の疲れを癒すかのようにカーステレオから心地よい音楽が流れてくる。心療内科につとめるくせに気疲れが多いだろうと、駒野に勧められるがままに買ったクラシック集である。作曲家や曲の知識はないが、オーケストラであろうことは楽器の多さからわかる。そんなことに興味のない私は駒野の懸命な説明を完全に聞き流したことを思い出し、少し悪い事をしたなと気が咎めた。
車を置き、バスでいつもの居酒屋「とりしん」で横山を待つ。7時15分。もう少し時間があるが店に入って待つのが通例だ。ここの主人は無愛想ではあるが、店の雰囲気や客の質もよくたまにうるさいというのがすきなのだ。
店に入ると座敷はいくつか埋まっており客もそこそこいた。いつものカウンターAの7番に座って、まずは一本たばこを吸いながら野球中継に見入る。3回裏。3-1。ひいきのチームが勝っていたため気分をよくし、横山のくるのを待った。先に頼むと怒るくせに、あいつはいつも遅れてくる。
やっときたかと思うと、
「生2杯」
といつもの調子で頼み、Aの8番に座る。学生時代から変わらぬポジションだ。
「そういえば聞いたか?」
席についてそうそううるさい奴だ
「何を?」
「山本博教授が亡くなったらしい」
特にかかわりがあったわけではないが、その名を知らぬ人はなく今世界中で注目をあびている人が亡くなった?そりゃもう高齢であったし、認知症は治せても不老不死になったわけではない。しかしすぐにその意図をとらえた。
「副作用か?」
声がだんだんと小声になり、主人や他の客を配慮しながら小声で話す。
「いや死因がよくわからないんだとよ」
「死因がわからない?」
「脳には異常はないんだそうだ」
主人が申し訳なさそうにビールを運んできたので、受け取るが乾杯する気など起きるはずもなくさらに質問攻めにする。
「異常がない?脳にウィルスいれといて異常が無いわけないだろう」
以前からこの問題に冷ややかだった私はつい口にでてしまった。
「俺の推測だが、自殺じゃないか?」
「は??」
言ってる事の意味がわからなかった。名誉と富を手に入れ世界中から賞賛を浴びた人がなぜ自殺をするのか。
「達成感からくる虚無ってやつじゃないかと思うんだよな。やっきになってたからな・・・。どうやって結果をだすかってことに。まぁ明日の朝刊には載るだろうな・・・。何かわかってるといいがな・・・」
ふとテレビに目をやるとチームは4回裏、3-7で逆転されていた。明日のスポーツ新聞には4回裏の悪夢とならなくてすむだろうなと思いながら少しぬるくなったビールに口をつける。
重い空気の中また横山が口を開く。
「で、あの看護師の子とはうまくいっているのか?」
こいつは何か勘違いをしているらしく、私と駒野が付き合っているものだと思っている。
「だからいつも言ってるだろう?勘違いだって。俺と駒野は医師と看護師。それ以上でも以下でもないよ」
「そうなのか?この前タワレコで見たのは、人違いだったのかな?」
「声までかけといて人違いはないだろう?まろゆき。あれはただお薦めのレコードを買いに言っただけだって」
まろゆきは学生時代につけられたあだ名でいまだにそれをいうと怒るが、まゆが少し高いためにつけたという教授のセンスは抜群だった。
そのあと子供の愚痴や大変さなどを教え込まれ、ある程度酔いがまわったところで二軒目のスナックへと行く。
これが私の日常だった。