episode.2 夜に輝く陽
カレナが気を失い、崩れ落ちる。
瞬間、男は、音を一切立てずにカレナの肩を抱き、自らの胸へ引き込んだ。
そして、カレナの気配がする布団をその部屋に敷き、そこにカレナを横たわらせた。薄いタオルケットを着せると、心地よい呼吸音が聞こえてきた。
男は居間とカレナの寝る部屋とを繋ぐ襖を閉めた。しばらくするとカレナの母がまたやってきて、テレビを消した。
暗くなった部屋は、カレナの寝息と外の虫たちの音が響く。
男はカレナの側に膝をつき、その寝顔を少し見つめた後、立ち上がった。そして空いていた窓から外へ出て、『結界』から出ていった。
カレナは目を覚ます。同時に、寝間着に着替えていないことを疑問に思い、横たわる前のことを思い出そうとする。
眠気が吹っ飛んだ。
さっきの妖はどこへ行った。確か捕縛の御札が効かなかった。御札が効かなかったのか、あの妖が強かったのか分からない。
が、しかし。セイの父が張った結界。セイが自慢する父の結界を、難なく通り抜けたあの妖は危険だ。
いや、待て。もしかしたら、今既に私は亡き者になっていて、ここは死者の国なのかもしれない。私の部屋によく似た場所だな。時計があるかもしれない。今は一体何時だ。
勉強机の上に乗っていたデジタル時計は0時50分を示していた。たしか、テレビを見ていた時は20時ぐらいだったはずだ。……4時間も気を失っていたのか。
当然ながら、台所からの物音ももうしない。お風呂はテレビを見る前に済ませていたし、歯磨きも夕食後に済ませていた。部屋着から寝間着に着替えていないこと以外は問題ない。
どちらかと言うと問題があるのは先程の妖の方。
刃物も持っていたし、人を襲おうと思えばいくらでも襲えそうだ。
とりあえずセイに今日のことを伝えなくては。だが、こんな深夜に訪問するのは…。
「カレナ〜…」
窓の外にいたのは、時代ハズレな狩衣を着たセイだった。小声でカレナを呼んでいる。
「…セイ…っ!」
カレナは寝ている母の眠りを妨げぬよう、できるだけ物音を立てずにセイに駆け寄る。セイの顔を見るとひどく安心する。セイは少し怯えたカレナの表情を見て、明るい笑顔でカレナに話しかける。
「良かった起きてくれて。さすがにすやすや眠っている人を起こせないし、女子の部屋に上がり込むのもな!…大丈夫だったか?」
セイ、榎野 清は、カレナの幼馴染で同い年の男子だ。『本』の封印をするカレナ一族を守護するため、代々、家族ぐるみで関わりがあるのだ。カレナの家の庭の隣には鳥居があり、そこを進むと神社がある。セイはそこの神主の息子で、妖を祓う術士だ。
本人自体もとても快活で人柄が良く、闇の者なんかは手出しできないくらい、陽の気が強いらしい。そばにいるだけで魔除けである、人間御守りだ。
「…セイ、あの御札効かなかった。力はこもったとは思うよ。重力に逆らってたもん。けど」
黒い服を着て、銀髪紅眼の美しい妖がナイフを一振りしたら、御札が消えてしまったの。
それを聞いたセイは、苦虫を噛み潰したような顔をした。頬をポリポリと人差し指で掻きながら、言いにくそうな顔をした。
「実は…、今月渡した御札はオレが作ってて、父さんより…弱かったんだと思う。本当にごめん。お前を護る立場でありながら、弱くて、考えが浅くて…」
いつになく、セイが弱気になってしまっている。カレナは慌ててセイをフォローしようとする。
「でもすごいよ? 御札に謎の力が入って飛んでいくなんて、ちょっとびっくりしたんだよ?
…それに、今回の妖は、たとえセイのお父さんの力でも捕縛できなかったかもしれない。すごく手加減してるように見えた。だから大丈夫! まだまだ伸び代いっぱいだから!!」
捲し立てるように、セイをフォローしようとしているカレナに、セイは思わず笑みをこぼした。
「ありがとう」
セイは少し泣きそうな笑顔をカレナに向けた。
その様子を遠くから見つめる影一つ。
正体不明のその銀髪紅眼の青年は、カレナの家から離れた建物の上で彼らを眺めていた。
視線を地面へと向けると、妖が転々と集まってきている。
青年が『結界』を出入りしたことで、僅かながら隙間が生じ、低級の妖たちが引き寄せられてきたのだ。
いくら通りやすい結界だったからと言って、奴らが集まるきっかけを作ったのは青年。僅かながらの責任を感じた青年は、再び少年少女が居るはずの窓際を見る。
すると、少年が少女を室内から引っ張り出していた。少年がわざわざ少女を結界外に出すはずが無いと青年は急いで2人の元へ向かった。
「どうしたのセイ…、すごく悲しそうだよ」
カレナは心配そうにセイを見つめる。
「いや…そんなことないよ。もしまた何かあったらって思っ…」
セイは唐突に言葉を切る。言葉よりも先にセイはカレナに手を伸ばす。
「カレナ後ろ!!!」
カレナの背後には醜い姿の妖が佇んでおり、その爪でカレナを引き裂こうとしていたのだ。遅れて反応したセイ。それでも間一髪間に合って、カレナは髪を一筋切られただけだった。
カレナは素足でゴツゴツとしたブロック塀の上に降り立つ。引っ張られた時に窓枠に膝を打ちヒリヒリと痛む。
セイはそれに気づかず、護符を妖の頭に投げつけ、浄化する。
「カレナ大丈夫!? いきなり引っ張ってごめん」
「う、うん。ありがと…セイ」
いきなりのことでカレナとセイの心臓は大きく跳ね上がっていた。
結界の内側のはずの屋内から、妖が現れたということは、この結界はもう長く持たない。穴が空いた風船のように、どんどん守護の力が失われていく。
幸いカレナは『本』をしっかり抱えていた。ここでセイが思いつく打開策は一つ。
「カレナ、うちに行こう! ここは保たない!!」
しかし、カレナは、セイがかつて言ったことを思い出す。
「でも、夜の、しかもこの日に結界を出たら…」
セイもカレナの言わんとすることはわかっていた。
「うん。魑魅魍魎が匂いを嗅ぎつけ、凄まじい勢いと速さ、そして量で押し寄せてくる。けど今しかない」
今現在、結界の損傷がまだ比較的に少なく、漏れ出す気配も抑えられている。だが、少し時間が経ってしまえば、結界はほとんど機能を失い、無いに等しくなるほど、妖が寄ってきてしまう。
「でもお母さんは!? こんなに妖が居るのに…」
「大丈夫。今のところ妖たちは、その本に夢中なんだ。ちょっと肩こりするぐらいしか影響は無いよ」
そもそも徒人の家には普通、対妖の結界なんて貼られていないからね、とセイは付け加える。
「ひとまずその本を安全な場所に移動させなきゃ。神社なら神の影響が、少なくともここよりはあるから。その本が妖に渡ったら…」
セイが真剣な顔でそういうと、カレナは以前から言い聞かされたことを反復する。
「妖が好き勝手に『時繰り(ときぐり)』をして、世界が混沌に包まれ、崩壊する…」
カレナの、五十花の家が守る『時繰りの本』。その本を使うことは禁忌。
かつて1度、禁忌を破り、『時繰り』をした者がいた。その者は約一月行方不明になった上、その間、妖が活発に行動し、徒人にも危害を加えていた。
以来、禁忌が破られたその日、…満月の夜に妖が特に活発になるようになったのだ。
『本』に近づくことが多いカレナは『本』の力に当てられ妖に狙われやすい。その上、綺麗な満月の夜には妖に襲われる。
満月は勿論嫌いになったし、その禁忌を破った人間のことが嫌いだった。
「…カレナ? 大丈夫?」
セイは俯いているカレナの顔を心配そうに覗き込む。カレナはこんな時にセイに心配をかけてしまったことを後悔し、気を取り直す。
「…セイ…。大丈夫、行こう!!」
砂利で覆われている神社道、気をしっかり持たないと、砂利に足を取られるかもしれない。こんな夜はセイも人間御守りではなく、少し力を持つただの人間だ。セイには甘えられない。
私がしっかりしなきゃ、とカレナは不安を覆い隠そうとする。
セイがいきなりカレナの右手を掴む。
カレナは驚きセイを見上げる。セイは震えを押し殺すように微笑む。
「一緒に」
「でも私、っ…足でまといだ…」
セイは時代はずれの狩衣でも、スニーカーを履いているが、カレナは素足だ。確実にカレナが足でまといでセイを巻き込む。
「ごめん、失念してた…」
とセイは申し訳なさそうに、俯き、スニーカーを脱ぐ。カレナはその行動に驚く。
「…ちょっと汗臭かったり、汚かったりするけど、我慢して…な? 素足よりはマシなはず」
セイはカレナの足に靴を履かせる。少々、スニーカーの方が大きい。だが、カレナは止めさせようとセイの肩を掴んで必死に訴える。
「だ、ダメだよ! これじゃあセイが…」
「オレ一応、修行とかしてんだから、か弱き徒人よりは、足は強いから! …今優先すべきことを見失うな。もともとそういう役割だからさ」
その役割に自信を持つようにセイはカレナに太陽のような笑顔を向けた。
「……わかった」
カレナは押し負け、大人しく履かされる。
セイは靴紐を結び終わると、立ち上がり、彼の家を見た。