monopoly
#四題茶会
10月お題
・勘違いしていた
・やっぱり口だけだった
・三日月
・黒猫の葬列
はらわたを垂れ溢す黒猫を、仲間が咥えて引き摺ってゆく。
薄く細い月と街灯がそれを照らして、引き摺られたあとには赤茶色の道ができた。
猫は、いち、にい、さん……全部で五匹。中心にある骸を含めて。
車に轢かれでもしたのだろうか。この辺りは夜になれば見通しが悪い。あんな毛色の猫ならば余計に、不幸な事が起こり易いのかもしれない。
静かに歩く三匹も、咥えた一匹も、咥えられた一匹も、みんな揃って真っ黒だった。
住宅街のスポットライトを通り抜けて暗闇に融けていきそうになった時、うち一匹と目が合った。
黒猫は何も見えていないかのようについと目を逸らして消えていく。私の存在なんてないみたいに。
コツコツ靴を鳴らして街灯の下まで進む。しゃがみこんでよくよく見れば、赤茶色の血の道は少し乾いて少し粘ついていた。
あの猫は死んだ。不幸な事故によって、はらわたを溢して。可哀想な小さい命。
あれはきっと葬列だ。死んだ仲間を偲ぶ行列。どこから運んで、どこへ連れて行くのだろう。
アスファルトの上を指先で撫でながら思う。
あの人も、こうなってしまえばいい。偲ぶ列なんて要らないけれど。
愛されたいと叫んでいた。子供の頃から全身で。
声が、顔が、髪が肌が内臓が、細胞全てで愛を欲していた。そうしてそれは得られなかった。
私の人生なんて陳腐なもの。父の顔を知らず母は私を見ず、恋人はおろか何故か友人さえも出来ない。
そういう、ありがちでありきたりな、月並みの不幸を与えられ続けていた。なんてチープで面白みのないお話だろう。こんなの、誰からも同情ですら得られない。
連休の予定を楽しそうに話す同級生が眩しかったし、恋人と手を繋いで帰る後輩たちが羨ましかった。
私だって。私だって。
そんな風に周りを羨んで恨んで憎み続けた二十年と僅か。
あの人が私に愛をくれた。
彼は十近く年上の職場の先輩で、いつも柔らかい態度で接してくれていた。そんな人が現れるなんて人生で初めてに等しくて、私はいとも簡単に陥落してしまったのだ。
「君はちゃんと、よく頑張っているよ。」が口癖だった。仕事に関しても私生活の悩みについても、いつだって私を肯定してくれた。
ああ。私は頑張っているんだ。頑張れているんだ。そう思えて、言われるたび嬉しかった。
そういえば、その言葉が欲しくて悩みをでっち上げたこともあったような気がする。
深い仲になってからは「愛してるよ。」が口癖になった。
自分に好意を向けてくれる人が出来ただけでも有頂天だったのに、そんなことを日々言われていればすっかり参ってしまう。
髪に指を通しながら「愛してるよ。」
腿を首を撫でながら「愛してるよ。」
それがたとえベッドの上で、煙草をふかして誰かにメールを打ちながらの「愛してる」であっても、私はその言葉を心の底に深く深く刻み込んでいた。
だって仕方がないでしょう。こんな人は今まで、ただのひとりも側に居なかったの。
相談相手は自分しか居ない。その〔自分〕は時に「これはきっと違う」と言ったけれど、私はその声を聞かないようにした。
彼は私を愛してくれたのだから。初めて、私に愛を与えてくれたのだから。
最初に関係をもってから一ヶ月が過ぎた頃には、私の人生はもう彼なしでは考えられないものに変わっていた。
人生で初めて幸せだと感じた。私は彼を愛していて、彼も私に「愛している」と言った。
「馬鹿な女だって、思う?」
死んだ猫がつくった道。それに向かって声をかける。当然、何の言葉も返ってはこないけれど。
私は何に話しかけているのだろう。
あの猫? 自分自身?
彼も、こんな風に指先で私を撫でるのが好きだった。
まるで羽毛か何かで触られているようで、くすぐったかった。でも私はあの感触が好きで好きで堪らなくて……。
それに加えて告げられた「愛してるよ。」が、ハウリングみたいに脳内で響く。
どうして知らなかったのだろう、と今でも思う。
仲良くしている職場の先輩が独身かどうかなんて、普通はわかるものじゃないだろうか。
愛する前に。わかるものじゃないだろうか。
私が馬鹿だっただけ? 悪いのは私と彼、どちらですか。
だってあの同僚は知っていたのだ。あの人の子供が「もう二歳になるんですね。」と。
そう言われた時の彼の顔。すごく嬉しそうだった。
「早いものだろ?」なんて言って。
「お母さんにケーキ作ってもらうんだーって、今から張り切ってるよ。」とも。
私が近くに居ることには、まるで気付いていない様子だった。
その日の夜、独りの部屋で食事をしながら想像していた。
「今は家族で夕飯かな」「子供の誕生日には何をするんだろう」「子供は女の子かな、男の子かな」「名前はなんていうのかな」「奥さんはどんな人かな」「どこで出会ったのかな」「いつ結婚したのかな」「私は何者なのかな」……。
涙は出なくて、でも心臓が引き絞られるみたいに痛くて吐いた。このまま全部の内臓が口から飛び出して死んでしまえたら楽なのにと思った。願いに反して、覗き込んだ便器の中には少しの胃液と食べたばかりのご飯しかなかった。
私は生きている。苦しい思いをしても、こんなに心臓が痛んでも、涙も流せずに生きている。
彼が愛してくれない人生を、これからも生きなくてはならないの?
そんなものは地獄だ。いや地獄よりもっと酷い。一度味わった幸福感は、きっと呪いか毒のように一生私を苦しめ続けるのだろう。
吐いても吐いても何も出ない。ならいっそ引き摺り出そうかと包丁をお腹に当ててみたけれど、怖くて何も出来なかった。
投げ捨てた包丁が家具に当たり鈍い音をたてて落ちた。
チェストに少し傷がついただけで、くだらない私の自殺は未遂にすらなれないまま無様に終わった。
「それからね。」私はまだ、誰にでもなく語り続けていた。彼の手つきを真似て血の道を撫でながら。
「あの人に確認しなくっちゃって。本当のことを、聞いてからでも、全部遅くはないんじゃないかしらって。」
初冬の風は冷たかったけれど、指先だけは温かい気がした。
「それが、ついさっきのこと。」
今日の仕事終わり、時間をもらって彼と話をした。
奥さんがいるんですか、と訊いたら、うん、と答えた。
「言ってなかったっけ?」と。
聞いてませんでした、と答えたら、そっか、とだけ言った。
「愛しているよは嘘ですか。」
「嘘じゃないよ。君のことは愛しているよ。
でも愛って、なにもひとつとは限らないでしょう。」
「……だって。」
思わずひとりで笑ったら、薄く白んだ息が街灯の光に照らされて見えた。
「私ね、いつの間にか欲が出ていたみたいなの。
誰かに愛してもらえるならそれで充分だったはずなのに、足りなくなっていたの。
その愛を私にだけ向けてほしいって、思っちゃった。それを聞いた時に。
でも、それは有り得ないんだってこともわかった。そういう人じゃなかったのね。」
話しながら、これは心の整理だ、と気付いた。
私は誰かに、自分に猫に話しかけながら、心を固めようとしている。
「……さっき、君の葬列を見たよ。それで思ったの。」
「彼もああやって死んじゃえばいいのに、って。」
裏切られた、という感情は、ひどく身勝手なものだと思う。
そんなもの大抵は一方が勝手に期待した結果であって、相手からすればいい迷惑に違いない。
私は私の願望を勘違いしていた。自分は愛されたがっているのだと思っていた。
けれど本当はそうじゃなくて、ただ誰かを独占したかっただけだ。
誰かの時間が欲しかった。心を、想いを、自分だけのものにしたかった。
誰かに見てほしかった。人の脳髄に自分の存在を刻みつけたかった。
だから、彼の〔いくつかある愛のうちひとつ〕じゃ足りないのだ。
きっと私より奥さんが、そして彼自身の子供の方が大切だろう。そんなの、絶対に耐えられない。
彼は私だけを愛するべきだ。私が彼だけを想っているのと同じように。
こんな考え方が間違っているのは分かっている。これは多分正しくない。
もしかしたら、私はこんな人間だから今まで不幸に生きていく羽目になったのかもしれない。
私は誰か他の人を愛するべきだろう。そうすれば、その人にも愛してもらえるかも。
なんて。
「……そんなの嘘だわ。」
次の愛が必ずあるだなんて、いったい誰が言い切れる?
ずっと、いろんな人たちに期待してきた。
新しいクラスになるたびに友達が出来ることを期待した。いい成績をとれば母が褒めてくれるんじゃないかと頑張ってきた。仕事で結果を出せば。美しくなれば。
それら全ては、裏切られたのに。どうして〔次〕を望めるだろう?
私には彼しか居ない。私の人生の価値は、彼以外になんてない。
だって愛をくれたの。いっときでも、私を見てくれたの。あの優しい目が、声が、忘れられないの。
もう一度あの指先に触れられたいの。私だけの彼に、なってほしいの。
幸せになりたいのなら、それを掴む努力をするべきでしょう。
アスファルトから手を離す。よく見えないけれど、指の腹に血がついている気がする。
「いいよ。君が生きた証だものね。」
ひとりごちて、拭かずにそのままコートのポケットに手を入れた。
彼は今頃もう家に着いているだろうか。ずいぶん長い間ここでしゃがんでいたらしい。
コツコツ靴を鳴らして街灯の下から出る。しばらく光の中に居たせいで目が慣れるのに数秒かかった。
あの葬列はどこへ行っただろう。鋭利な月はいつしか真上で輝いている。
歩を進めて、手入れがよく行き届いた庭の前で足を止めた。小さな三輪車が奥に見えた。
「子供はとっくに寝てるだろうな……。」
ポケットの中の柄を握り込んで、門扉のベルを押した。
最初に出てくるのは、どちらだろう?