疑い
4世紀アナトリア(トルコ)、コンスタンティノープルにて…
ステラは夕暮れの石造りの道を大急ぎで駆けていた。
太陽神ソルの刻印が入った金貨を握りしめて。
コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗したのはずいぶん前だったが、この東ローマ帝国本来の神々への信心もまた不動だった。
堅い防壁で守護されたこのコンスタンティノープルは外敵を寄せつけず東方の騎馬民族やアウトサイダー、様々な理由で野盗、流浪の人となったものらの侵入を防いでいた。
それでもあと数刻で日が暮れるかというときに10代半場の少女が一人で、しかも一財産を抱えて行くのは危険と言えた。
家々の狭間、真っ黒な路地から複数組の光る目が覗いているような気がした。
何とか家の前にたどり着いた。覚悟して入り口をくぐった。
思っていた通りたった一人の家族、彼女の兄は荒れていた。
湿っぽい室内はランプ一つで照らされ、安いワインの壺の破片が散乱していた。
「返却しなきゃ罰金なのに…」
振り返るなり彼は彼女の額を一撃した。
「ごめん。仕事で遅くなった。」
ステラはそう言うと頭を押さえてうずくまった。
「アイタタタ…」
「反応遅っ!」
彼は杯を放り投げた。ゴツゴツした粘土の壁にぶつかって砕け散った。
「こんな時間までどういうつもりだよ!?」
「…だから仕事…」
「お前のやってるのは仕事じゃない!ただの遊びだ!」
…毎月妹の稼ぎを全てワインに注ぎ込むこの男に言われたことにさすがにムッとし、ステラは言った。
「遊びじゃない。今少しでも遠いところまで行き来する人たちの為に…馬車の研究してる…私たちの乗り物、車軸に直接車体が乗ってる…ここだけ独立させればガタガタする揺れをなくせる…」
「何訳のわかんねえこと言ってんだよ!馬車は揺れるもんだよ!嫌なら乗らなきゃいいんだ!」
兄はわめいた。普段ならこのままのしかかられる感じだと思ったので外套から先程まで握りしめていた金貨を出した。
「これでお酒買って。」
彼は血走った目をぎらつかせて奪い取り、そのまま寝台に転がりふてくされたように丸くなった。
…連日連夜の激務で泥のように疲れていたのでこのまま寝ついてくれるならありがたかった。
兄が夫婦のことを求めてくるのはそう頻繁なことではなかったがそのような日々を過ごすうち、言葉はヘタになり、痛みの感覚は鈍くなっていった。
お前は女の癖に勉強している、お前は女の癖に兄を差し置いて仕事している。女の癖にいい格好している。女の癖に。女の癖に。女の癖に。だから俺が罰してしつけてやる。それがこの男の口癖だった。
知性こそが私の宝。そう思っていた。この光輝く知性まで犯されることがあれば、死んでしまおう。そう思っていた。
ランプに蓋をし、床に横たわった。