◇11 泣け
――私が、私を殺し始めたのはいつの頃からだったろう。
はじまりの記憶。
寒い寒い、真っ白な空気の中で置き去りにされた。
母親の顔はおぼろげで、だけどとても恐ろしい形相をしていたのは覚えている。
両親の記憶はほぼない。
父親の姿などは記憶の断片にも出てこない。
母親には何をされたのかも分からないし、ただただ捨てられたその瞬間を一枚の絵のようにしてのみ、そこにあった。
私は家族を知らない。
だからこそ、どことなく憧れがあった。
すれ違う、幸せそうな家族の笑顔と笑い声。温かな家から漏れ聞こえる音色。
あれが欲しい。きっと素敵なものに違いない。
寒さに震えながら一縷の希望を抱き、街を彷徨って私は一人の男と出会った。
『可哀想に。こんなに震えて……おいで、温かい場所に連れて行ってあげよう』
幼子の私は、それに従うほかなかった。男の言葉をうのみにしていた。ついていったら、あの温かい家の中で家族のように笑えるのかもしれないと。
でも現実は残酷だった。
連れて行かれた孤児院はとても厳しいところだった。
朝早くから起きて、掃除や洗濯、食事を作り手習いを覚える。
小さな子供にさせるにはとても過酷で、癇癪を起したり、泣き叫んだりする子も多かった。そういう子は、『悪い子』だと暴力を振るわれたり、閉じ込められたり――いつの間にかいなくなったり。
だから私は、常に大人しくしていた。
大人の言う通りにしていれば、上手く立ち回れれば厄介なことにはならない。
ただじっと我慢していればいい。
そうしていると、大人は笑顔を浮かべて『いい子ね』と褒める。
私はいつの間にか、大人の顔を見て、その人がなにを望んでいるのかなんとなく分かるようになった。孤児院にいる大人はとても分かりやすかったのだ。彼らの分かりやすい自尊心を傷つけないようにすればいい。ただそれだけ。
分かってる。
それが賢いやり方。なんの力もない私が、唯一生きていける作戦。
それでも子供の自分は、ふとした時に感情が溢れてきてどうしようもなくなる時があった。戸棚に隠れて、大人に見つからないように泣き続けた。
どうしたら、この弱い私を追いだせるだろう?
泣くことは、ここではご法度だ。
『悪い子』だ。
ここで『いい子』でい続ける為には、どうしたらいい?
「悪い子は、殺してしまいなさい」
誰かがそう言ったのを、耳の奥で覚えてる。
ああ、そうか。
弱い自分は殺してしまえばいいんだ。
それはいともあっさりとできた。
泣く、という弱い私を殺した。
次の日から、私は泣かなくなった。
しばらくして、私は大人達から飛び出す誹謗中傷で傷つく私を殺した。
次の日から、私は何を言われても何も感じなくなった。
大丈夫。私は強くいられる。弱い自分が生まれたとしても、そのたびに殺せばいい。
何度も、何度も、私は私を殺し続け――――気が付けば八年の時が流れていた。
この孤児院で十四歳までいられたのは、私だけだ。
ほとんどの子は、すでに新しい家族に引き取られていった。
「シア、いらっしゃい」
「はい、お母さん」
私は大人に呼ばれて、部屋に入った。
いいえ、待って。この記憶はおかしい。
ここの大人は私の名前を呼ばなかった。違う、呼ばなかったんじゃない。私は名前すらつけられていなかった。
「A205、いらっしゃい」
「はい、お母さん」
そうだ。こっちが正しい。
私は番号で呼ばれていたはずだ。道具のように扱われていた事実を忘れ去りたかった意志の表れか、番号と名前がぶれる。今思えばとてもおかしな孤児院だった。
思い出すのは苦しい。
でも思い出さずにはいられない。正確に思い出せ。
「お前の引き取り手が見つかったわ。良かったわね」
お前は一番良い子だったから、一番いいところに連れて行ってあげるね。
大人は、とても優しげに微笑んだ。
私は、いよいよ家族ができるんだと喜んだ。新しい家族の元でちゃんとやっていけるだろうか。不安はあったけどでも大丈夫。弱い自分は殺してる。次の場所でもうまくやれる。
今まで身につけたことのないような上等な服を着て、用意された馬車に乗った。どこに行くのかも、誰に引き取られるのかも一切情報はない。ただ、行くだけだ。
ぼーっと馬車に揺られていると、突如馬車が揺れ馬の嘶く声が響いて周囲が喧騒に包まれたのが分かった。盗賊だろうか。街からは少し離れたようなのでありえる。十四歳の子供では太刀打ちはできないから、私は大人しく身を縮めているしかない。
やがて喧騒は収まり、馬車の扉が開いた。
助かったのかと思ったが、それは一瞬で違うと分かった。黒尽くめの男が入ってきて。
「ごめんね」
そんな謝罪を口にして、私は鼻と口をハンカチで塞がれて、気を失った。
次に目を覚ました時には、私は白い天井の、ふかふかのベッドで寝かされていた。落ち着いたインテリアに本棚が多い部屋で、居心地は悪くない。だけど知らない部屋だ。
盗賊に攫われたのだろうか。感情のほとんどを殺して回っていた私は、大した反応もせずどうやったら生きてここから出られるかを考えた。まずは情報収集だろうと、部屋を歩き回っていると。
「あ、起きたんだね」
白い衣を纏った穏やかな面の青年が驚いた表情を浮かべた。
盗賊……にしては人相が優しいし、着ているものも妙だ。まるで女神に仕える者のような……。
「気分はどう? どこか痛いところとか、ない?」
彼の手には湯気がたったスープの乗った盆があり、それをテーブルに置きながら聞いてくる。特にないので首を振った。青年はほっとした表情を浮かべる。
「手荒な真似をしてごめんね。でも私達は怪しいものじゃないんだ。君を傷つけるようなこともない。むしろ君はとても危ないところで――いや、これはいいね。うん」
青年は何かを言いかけて止めた。
これは深く聞いてはいけないやつだと、彼の態度から窺い知れたので私は聞かない。
それから彼は色々と世話を焼いてくれた。彼の名前はシリウスで、神官なのだということを教えてもらった。私はどういうわけか、聖教会に『保護』の形でいるらしい。
「それに君は、新たな『聖女』に選ばれたからね」
「聖女……?」
知識のない私に、シリウスは色々教えてくれた。
魔王を倒す勇者と共に旅をする存在なのだとか、聖魔法を扱えるのだとか――どう反応して良いか、実感が湧かなかった。まとめると聖教会は、私が聖女に選ばれたから保護したようだ。
「それでねーそのー……君には会ってもらいたい人がいてね。うちの上司、司教様にね。ちょっと……いやすごく怖い――げふんげふん、変わったお人だけど大丈夫、殺され――ごふん、無事に済むはずだよ」
なにそれ。
シリウスのしどろもどろさから想像できる人物像にろくなものがない。
嫌な予感はしていた。
でもほとんどの感情は殺していたし、今更怖いと思う弱い自分もいないだろう。そう、たかをくくっていたのだけど。
はじめて司教様と対面した私は、ぶざまにも気絶した。
次に目を覚ますと、司教様の部屋のソファの上でシリウスが青い顔をしていた。久しぶりの恐怖の感情に、後でこれも殺さなきゃと思ったが、傍にある威圧的なオーラに思わず震えた。司教様は部屋の奥の椅子に座ってこちらを眺めていたのだ。
黒髪に隻眼の恐ろしい双眸をした男だった。
「おいガキ、名を名乗れ」
私が起き上がると、開口一番、司教様はそう言った。
私は震える唇をどうにか動かした。
これは応えないと、物理的にも精神的にも殺されるやつだと感じた。
「A205……です」
「はぁ?」
「え?」
私の言葉に、司教様とシリウスが変な声を上げた。当時の私はあまり気になっていなかったが、番号で呼ばれることはかなり異質なことだ。すぐに二人とも私にきちんとした名前がついていないことに気が付いたようで。
「しかたねぇ面倒だがつけるか……聖女に選ばれた者が名無しじゃな」
「そうですね、いい名前を頼みますよ司教様」
司教様はしばらく考えて。
「よし、これだ。ガキ、お前は今日から『タマ』な」
司教様の名付けに、私もシリウスもぴしりと止まった。孤児院に時折やってきていた猫の名前がだいたいそんな感じのが多かった覚えがある。でも私は番号でしか呼ばれていなかったので、特に名前の良し悪しなんて気にならなかった。
だが、シリウスが気にした。
「司教様、フライパンで撲殺されるのと、鍋で撲殺されるの、どちらがいいです?」
「待てシリウス、軽い冗談だ。あからさまに殺意を放つのは止めろ」
司教様は再び唸りながら考えた。
「よし、これだ。ガキ、お前は今日から『ポチ』な」
司教様の再びの名付けに、シリウスは笑顔で固まった。これはなんだか犬に多い名前のような気が……。
「司教様、どうやら本気で海のもくずになりたいみたいですね?」
「待てシリウス、冗談だ。穏やかな顔して俺の元右腕だった実力をここで発揮するな」
また司教様は名前を考えたが、その場では決まらずまた後日となった。
その次の日から、私は教養を学ぶことになり、たくさんの神官達が教師となって知識を教えてくれた。聖魔法も覚えた。まさか自分に魔法が使える才があるとは思いもよらなくて、少し嬉しいという感情を思い出した。
ここでの生活は穏やかで、私はいつも通り人に嫌われないように、気に入られるように努めた。
泣かない、我儘言わない、大人しく、従順で、いい子でいる。
神官達もシリウスも優しくしてくれる。私はうまくやっていけていた。
――ただ、一人をのぞいて。
司教様は、今日も私のすぐ傍でただただ私を眺めている。
私はというと机に向かって勉強中だ。図書室のようなところを借りて、シリウスに計算の仕方を教わっている。
ちらりと視線をむければ司教様はじぃっと無表情でこちらをやはり見ていた。
なんなんだろう。
勉強を教えるわけでもない、なにか喋るわけでもない。
ただそこにいて、私の様子を眺めて、適当にお茶をしている。
助けを求めるようにシリウスを見ても、彼は肩を竦めるだけだ。
シリウスも、神官達も優しい。そして分かりやすい。あの大人たちとはまた違った分かりやすさで、良いことをすればする分だけ優しいお返しをくれるのだ。
だけどこの人、司教様だけは未だによく分からない人であった。
お手伝いをしようとすれば睨まれ、せっせといれたお茶もマズイと言われ、基本的に良いことをしているはずなのにことごとく手厳しく突っ返される。
このサンマリアベージュ聖堂で一番の権力者である彼に嫌われるのは避けたいところなのだが、どうしたらいいのか分からなかった。
追い出されたらどうしよう。そればかりが頭をぐるぐるする。
ようやく息の詰まる勉強会が終わろうとした時、突然バン! と司教様が強く机を叩いた。思わず衝撃で体が飛び跳ねてしまう。
「決まった」
「え?」
「なんですか?」
司教様はびしっと私を指さして言った。
「このガキの名前だ。今決まった」
そこで私は、『あ』と思い至った。
司教様がずっと私の傍で何もせずに眺めていたのは、私の名前を考える為だったようだ。あんな恐ろしげな顔で何を考えているのかと思ったら、名付けだったとか冗談でも笑えない。
「ようやくですか。またタマとかポチとか言い出したら腹パンして女神像の前に転がし、『私はゴミです』という紙を背中に貼り付けますからね」
「やめろ、そのすごく性格の悪い嫌がらせ」
すでに紙とペンを用意し、腹パン体勢をとっているシリウスをみるに彼は司教様の考えた名前を信用していないようだ。
「これでも名付けは勉強した。今度こそは任せておけ」
パンパンと脇に積まれた本を叩く。
私の為に用意されたのかと思っていた本は、よくよく見れば『はじめての子供、名づけ篇』とか『意味が分かれば輝く、素敵な名前辞典』とか『将来大成する名前、女の子編』とかタイトルがついている。
本当に勉強したようだ。
司教様はごほんと、咳払いをしてから言った。
「お前の名前は――――シアだ」
静かに告げられたその名前に、私はすっとその名が自分の中に染み込んで溶けていくような気がした。タマとかポチとか言われた時にはなかった感覚だ。
「へえ、司教様にしてはとてもいい名前に決めましたね」
ドス。
「ぐほっ――おいこら、なんで腹パンした」
「すみません、勢いで」
見た目からはよく分からないが、頑丈そうな司教様が腹を抱えて呻くくらいだからシリウスのパンチ力は結構高いようだ。
「シア、どうです? 気に入りました?」
「え……あ、はい」
ぼうっとしてしまったから変な態度になってしまった。その様子にシリウスが曇った顔をする。
「気に入らないなら言っていいんですよ。司教様は見ての通り頑丈ですから、名付けに徹夜を何日したって大丈夫です」
「待て、すでに俺は名付けに徹夜五日間使ってるぞ。さすがに死ぬぞ」
「死にそうになったら気付けで復活させます。彼女の気に入る名前が出たら心置きなく死んでください」
司教様が死んだ目になって、シリウスが用意していた紙にペンで文字を書いた。
『理不尽』
司教様……。
なんだか可哀想だったので、慌ててシリウスに弁明した。
「違います。とても気に入っています。こんな素敵な名前をもらったのは初めてなので、ぼうっとしてしまって」
「そうですか、よかった」
お互いに微笑み合った。
本当は泣きたいくらいな気持ちで。でも、こんな気持ちになったのは初めてで、どう表現するのが正しいことなのか分からなかった。
だから無理矢理に笑顔を作っていたのに。
ふと落ちた黒い影に振り返れば、そこにはいつもの怖い顔の司教様が。
「シア」
「? はい」
ぶにーっと頬を強めに引っ張られた。
「ふひふぁふぁい!?(なにするんですか)」
「変な顔だな」
「ひふぁふぁいふぁ!!(司教様のせいです)」
「シア、泣け」
唐突な命令が下された。
びくりと体が震える。
「泣け」
もう一度、強く命じられる。
泣くことは、昔から禁じられた。あの場所では、弱いと生きていけなかったから。泣くととても怒られたから。だから私は泣かなくなった。泣くような自分はとうの昔に殺している。
泣けと言われたからと言って、泣いたらここでの生活が壊れるかもしれない。優しいシリウスや神官達が私を嫌うかもしれない。
どうしたらいいのか分からなくて、茫然と突っ立っていると、シリウスがはあっとため息を吐いた。
「お頭の言い方って、ほんと昔っから分かりにくいですよねぇ」
お頭? 司教様に向かって気安くそう呼びかけるシリウスに首を傾げつつ、彼を見上げるとシリウスは優しい笑顔で言った。
「泣きたいなぁって思ったら泣いても良いんですよ。悲しい涙も、嬉しい涙も。感情を表に出すことはなにも悪いことではありません。もちろん制御は必要ですが。シア、君はもう少し素直でもいいかと思いますよ」
そしてぎゅーっと優しく抱きしめてくれる。
温かくて、お日様みたいな匂いがして。それは私がずっと前から憧れていたものに近い感覚であることに気が付いた。
「シア――――もう、いいよ」
その言葉は私が握ったナイフを奪い取って、どこかへ放り投げてしまった。
カピバラ様の元へ転がったそれを、カピバラ様はじっと見てから、そして思い切り蹴っ飛ばしてナイフは消えた。
カピバラ様? ああ、そうか。この長い夢は、ラミィ様が使った道具のせいか。
カピバラ様は、私の記憶を見ているみたい。こんな様を見られるのは嫌だけど、過去に起こったものは変えられない。
私は、息を吹き返したかのように大声で泣いた。
シリウスの服をびしゃびしゃに濡らしても、彼は怒らなかった。
司教様はそっぽを向いていたけど、そこにいてくれた。
しばらく時間がたって、ようやく涙が収まってくると同時に猛烈に恥ずかしくなった。十四にもなってぐちゃぐちゃに泣くなんてみっともないではないか。
だが二人はまったくそんな気は見せない。それどころか。
「家名はどうするんです?」
「それももう決めた、今」
家名の話になっていた。
「シア、どう? すっきりした?」
「あ、はい。なんだかすごく気分が軽い……です」
あんなに思いっきり泣いたことがなかった。まさか泣いたあとがこんなにすっきりした気持ちになるなんて知らなかった。
「つきものが落ちたような顔をしてるね。うん」
シリウスが幼子にするように私の頭を撫でていると、司教様はごほんと一つ咳払いをした。
「やはりこれしかあるまい。シア、お前は今日からリフィーノを名乗れ」
シリウスの手が止った。
――あれ?
リフィーノって確か。
シリウスの家名では?